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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第11回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして露命を繋いだ幼少期。やがて京の豪商・奈良屋に縁を得たことで、父と子の国盗りの野望が動きだす。狙うは天下の要、美濃国。父が地歩を築いた後、美濃に入った新九郎(のちの道三)は、守護・土岐頼武の目に留まり、側室・深芳野の相手を懇願される。不承不承の新九郎だったが……。

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   19〈承前〉

 吸う。
 深々と吸う。
 鼻腔に香気が充ちる。
 なんなのだ、この薫りは。
 艶めかしい薫りだが、生臭くない。
 ごく淡いが、輪郭はくっきりしている。
 肌と髪と軀の薫り、秘められた女の薫り。
 新九郎は逡巡し、懊悩する。物思うことをやめて趣くままに身をまかせてしまうか、先々を考慮して冷徹に処するか。
 その間も新九郎は()(よし)()の犬であることをやめられず、その肌に鼻先をこすりつけるようにして狂おしい振る舞いを止められぬ。深芳野も新九郎の動きを先取りするがごとく着衣を巧みにはだけていく。
 抗えぬ。将来における支配被支配など、瑣事に過ぎぬ。いま得られるであろう至高の瞬間を、つまらぬ企みや技巧などで減殺するなど愚かの極みだ。
「深芳野」
 と、呼び棄てる。
「新九郎」
 と、返してきた。さらに新九郎の耳朶(みみたぶ)に唇はおろか前歯をぶつけるように触れさせて訴える。
「たまらぬ。(ねや)へ」
 深芳野にいざなわれて立ちあがったが、新九郎は足を縺れさせてしまい、深芳野に倒れかかった。深芳野は新九郎をぐいと支え、大きく息んで引きずるようにして閨に連れていき、自身の腑甲斐なさに啞然としている新九郎を横たえ、膝枕した。
「魂魄を抜かれたがごとしだ」
 嘆息気味に呟くと、深芳野はそっと頰を撫でてきた。その手つきは赤子を愛おしむのに似て、柔らかで滑らかで力みがなかった。あわせて新九郎から性的な気負いと力みが消えていき、比べるものとてない安堵が全身を覆っていった。
 深芳野の太腿は肌理(きめ)細かで仄かに冷たく、新九郎の頰にぴたりと密着した。余剰は一切なく張り詰めているが、さりとて硬質なところはなく、しっとり(たお)やかだ。新九郎は頰ずりしつつ薫香を鼻腔に充たしてうっとりし、柔らかく目を閉じる。
「なにゆえ深芳野の肌はかような心安らぐ芳香がするのか」
「知らぬ。生まれつきじゃ」
 深芳野は素っ気なく返してきた。そこに深芳野の照れを感じとった新九郎は頼武もこの薫りの虜であることを確信し、深芳野の薫りはなにに似ているのか思いを巡らす。
 不可思議なことに肌から漂うのだが、肉の臭いではない。草木、草花が近いが、さらに深閑とした気配がある。凜としている。奥深く気高い。それが足を縺れさせた新九郎をぐいと支える骨格のしっかりした女に備わっているのである。しかもその軀が美しい。背丈はともかく流麗なる柳腰である。顔などちいさすぎるきらいがあるが、すっと立てば、その威厳に平伏しそうになる。
 新九郎は我に返った。美濃にてはなかなかの美相にして大女──と冷徹に整理分類してしまったくせに、薫りに気付いたとたんに天女扱いである。これは大きなしくじりだ。新九郎はついつい解説するかの口調になって深芳野を讃える。
「ごく幽かなものだ。身を間近に寄せねば気付くことのない微香に過ぎぬ。いや、鼻の悪い者は気付かぬかもしれぬ。幽玄といってよい。だが深芳野の香りを悟ったとたん、籠絡されている。逃げられぬ。薫りというもの、じつに恐ろしいものだ」
「恐ろしいか」
「恐ろしい。この俺が骨抜きだ」
「小憎らしいことを」
「本音だ」
「世辞でも嬉しい」
「これぞ接しなければわからぬ嬌羞だ」
「きょうしゅう──」
「愛嬌の嬌に羞恥の羞。(にょ)(しょう)の艶めかしい恥じらいを言う」
(わらわ)には恥じらいがあるか」
「ある。深芳野の薫りには、得も言われぬ艶と恥じらいが隠されている」
「巧みに(くすぐ)る」
「擽られているのは、俺だ」
 たまらなくなって新九郎は反転し、深芳野の腰をきつく抱いた。薫りの核心に鼻先を突っこみ、胸郭を大きく上下させる。新九郎の不規則な呼吸の律動、その息が深芳野の過敏を思いのほか鋭利に圧迫する。
 深芳野は両手で新九郎の頭をきつく押さえて、座した姿勢のまま奥歯を咬みしめて大きく首を反らせる。くっ──と声が洩れるのを(こら)え、眉間に深い縦皺を刻んで天を仰いだまま凝固する。
 しばし凝縮した後、一気に弛緩して腰を抱いている新九郎の背に重なるように倒れこんできた。深芳野が全身に発汗していることを感じとって、そのすべてが決して演じられたものでないことを悟る。
「鋭敏な──」
 感嘆の声を洩らすと、深芳野は膝と上体で新九郎をはさみこんだまま、しばし荒い息を整えようと意を砕き、かろうじて言った。
「息にて刺すなどありえぬわ。すべては新九郎が、悪いのじゃ」
「たかが息だ。こうまで深いと、さぞやつらいだろう。生きづらいだろう」
 新九郎の呟きに一瞬、深芳野は硬直した。新九郎を邪険に膝から落とし、その左脇に自ら身を投げ出し、仰向けに転がって、天井を睨みつけるようにして問い詰めてきた。
「なんと申した。生きづらいと申したか」
 新九郎は返事をするかわりに、互い違いの体勢になっている深芳野の軀の奥に真っ直ぐ手を伸ばした。加減せずに力を込め、痛みを与えた。
「生きづらいだろうが。苦しいだろうが」
「生きづらくも苦しくもない」
「そうか」
 突き放すと、一呼吸おいて呟いた。
「──程々がよいのだろうなと思ったことはある」
 頷いて、さらに力を込める。
「痛いか」
「痛い」
「もっと痛くしてほしいか」
 冷徹な声をかけると、哀願が返ってきた。
「もっと、もっと痛くしておくれ」
「いとおしすぎてな、潰してしまいたいほどだ」
「潰しておくれ。千切っておくれ」
「そうするにはあまりにちいさい」
「そうなのか。軀は充分以上に大きいが」
「ちいさい。とてもちいさい」
 いささか妙な遣り取りになってしまい、新九郎は頭をすこしだけ上げて、深芳野の表情を窺う。深芳野は柔らかく笑んでいた。
「いつまで互い違いでいる気だ。早く俺の腕のなかにこい」
「──なにやら恥じらいが強くなってしまってな、火照りもひどい」
「きつく目を閉じて、さあ、おいで」
「──はい」
 言われたとおり深芳野はきつく目を閉じて反転し、新九郎の腋窩(わきのした)に顔を埋めた。新九郎はいまだかつてない細心さで指先を用い、ひたすら深芳野を踊らせた。
 とことん踊らせれば芳香も高まるであろうという読みであったが、どうやらこの薫りの本質は潤みとは無関係であるようだ。
 新九郎は強まることのない匂いにやや物足りなさを覚えはしたが、際限のないものよりも、これが深芳野のもっている抑制をよく顕していると心(ひそ)かに敬愛の念を抱いた。
 読みどおり深芳野は限界を超えて極めることのできるたちで、ひたすら頂点にあって息が詰まってしまってもはや快の呻きさえ洩らすことができず、きつく新九郎にしがみつくばかりだ。
 新九郎は深芳野に軀のあちこちに爪を立てられて、その痛みに男として覚醒し、男であることを自覚させられていく。昂ぶりながらも冷徹に深芳野を彼方に送りこむ。
 どれほど続いただろうか。嫋やかに揺れていた深芳野が目尻から涙を流しつつ、新九郎をせがんだ。もったいつける気はない。満足に動けぬままにかろうじてかたちをとった深芳野に加減せず重みをかけた。
 ひとつになった瞬間に深芳野は我に返り、すがりつく眼差しで訊いてきた。
「妾は、どうじゃ。妾は──」
 差し迫る快を押しやって、新九郎にとって女としてどの程度かと問いかける。自負と自尊にあふれた深芳野である。新九郎は率直に答えた。
「二つとなし。又となし。上なし」
「──世辞が過ぎる」
「世辞ではない。きつく男を(いら)う女は多い。が、たいがいが薄い」
「薄い。薄いのか」
 新九郎は頷いた。肉が薄いとでもいえばいいか。包みこんで張り詰めはするが、ほとんどの女は薄い。貧相とまではいわぬが、抱いてしまえば未練が残らぬのは、率直かつ生々しい物言いをしてしまえば女としての肉の厚みに欠けるからである。深芳野は新九郎の表情を窺いつつ、重ねて問いかけてきた。
「大方は薄いのか」
「薄い。裡にありながら外が透けて感じられるとでもいおうか。が、深芳野は」
「妾は」
「女の(あつ)みがちがう。軀も心も俺をきつく包みこんでいる。隙がない。密であり、外の雑な光も気配も届かない。このような軽薄さのない軀、はじめてだ」
「妾はな」
「うん」
「もう、なにがなにやら──。このような情けを受けたこと、信じ難い」
 

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