本との偶然の出会いをWEB上でも

芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第12回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして食い繋いだ幼少期。どん底を知る父と子の国盗りの野望が動き出す。狙うは天下の要・美濃国。父に続き美濃入りした新九郎(のちの道三)は、守護・土岐頼武から側室・深芳野との閨事の代役を託される。深芳野と密かに心を通わせ、野望をも打ち明ける新九郎。父との絆が壊れ始める……。

くちばみ新メインビジュアル

 

   20

 新九郎と()(よし)()、そして頼武は車座ならぬ三角関係そのままの三角座にて、額を間近につきあわせている。なにをしているのかといえば、博奕(ばくち)だ。
「ふっふふ、シッピン、勝負流れて親の総取りだ」
 わざとらしい笑い声と共に、頼武は深芳野と新九郎が賭けた十貫文をあらわす黒い碁石と百貫文をあらわす白い碁石を無造作に手許に引き寄せる。深芳野はさばさばした表情だが、新九郎は渋面で白黒の碁石を見送る。
 駒代わりにしている碁石だが、黒は硬質粘板岩である那智黒が素材なので入手は容易である。けれど白石は朝鮮(はまぐり)の分厚い殻が半化石化したものを削りだして(こしら)える。日向(ひゅうが)国は小倉浜で産する貝殻が分厚くて最上とされているが、囲碁の流行と共に絶対量が不足しはじめていた。
 頼武が駒として用意した白石百八十個超は厚みといい磨きといい見事なものであるが、じゃらじゃらがちがち音をたててぶつけ放題こすり放題、扱いは雑で囲碁の好きな者が目の当たりにしたら目を剝くだろう。もちろん頼武は、高価で珍重される代物をことさら投げ遣りに扱っているのだ。
 新九郎らが盆茣蓙として中心に据えた厚円座に骰子(さいころ)を転がしておこなっているのは、()一半(いちはん)という博奕の変形だ。七半とならんで江戸時代に盛んになる丁半博奕の原型とでもいうべきものである。
 奇数偶数に張って勝負を決める単純な博奕だが、親のときに賽の出目が四と一だと賭け金の半分が問答無用で親の懐に入るので、四一半と称されている。後の(おい)(ちょう)──おいちょかぶなどに見られるシッピン、クッピンの原型であろう。
 頼武が示したルールは、親の半取りではなく、総取りであった。親は骰子を振り、勝負の段取りをつける采配役である。ゆえに勝ち負けとは無関係だ。けれど親のときにシッピンをだせば子の二人が賭けた銭をすべていただくことができる。
 結果、負けと無縁に大きく勝ちあがれるわけだ。ゆえに子として二人で丁半を争うよりも、二つの賽の目の和が五以下になってしまって親落ち──いわゆる後家落ちしないほうが勝負が俯瞰できて効率がよい。
 ルール変更を提案するだけあって頼武は意外なほどの博才を発揮して、ほぼ独り勝ちといった状態である。深芳野はとんとん、新九郎は──まったく勝てない。手を抜いているのかと頼武が訝るほどに弱い。
 偉そうに四一半のことを解説したが、じつはその遊びかたや作法についてはほとんど残っていない。許多の資料を調べても四一半と七半のルールは判然としない。シッピンがでれば勝った者にも親は半額しかわたさないから四一半とする資料を採用したが、推測の域をでない。
 増川宏一先生の大部〈賭博〉全三巻に目をとおしても四一半と七半の禁令に関する事柄ばかりが解説されていて、その実際の遊びかたは微妙だ。ゆえに頼武が四一()と名付けたこの博奕は作者創作による虚構と受けとってくれてかまわない。
 そもそも賭博というものは伝播していく過程において各地でローカルルールが発生し、洗練されたり泥臭くなったり勝ち負けの綾が極端に疾ったりしていくものである。
 蛇足ではあるが作者が悪戯をしていたころは、博奕と無縁で若干の不安を抱いている者を鴨として手早く場に引きこむために花札の数を覚えさせる面倒と手間暇を避け、あえて数字の明確なトランプで代用していた。花札や株札を脇にのけて、運を天に任せるから任天堂──などと蘊蓄を()かしつつもトランプというわけである。おっと、まさに蛇足だった。話を三角座にもどす。
 幽かな鈴虫の声が涼しげだ。灯火が夜風に静かに揺れる。もはや光明を求める蛾の類いも消えた。けれど頼武の屋敷の最奥に設えられた(にわか)賭場には中秋とは無縁の熱がこもっている。
「しかし新九郎は信じ難いほどに弱いな」
 そう揶揄されるのは幾度目か。だが、こんどの頼武の呟きと眼差しには理解不能なものを見るかのような気配がにじんでいた。
(ほう)っておいてください」
 吐きだすように応えて、手にした碁石を汗ばんだ手で握りしめ、ぶすっと横をむいた新九郎である。
 どうした具合か袂に潜りこんでしまった碁石をさぐりながら、深芳野もなかば本音を口にする。
「意外じゃ、意外。鬼の目でも()りぬいて喰う輩かと思っておったからの」
 新九郎は悪循環に陥っていた。まずは自身にこれほどまでに博才がないことに打ちのめされ、さらに唐突に育ってしまった劣等感だけでなく軀にも心にも、無用な力みが育ってしまっていた。
 頼武と深芳野にからかわれれば、骰子を転がす手がますますぎこちなくなって、厚円座をはずして骰子を畳に転がしてしまうほどである。
 親のときに盆茣蓙である厚円座から骰子をはずしてしまうと、いばり洩らし──小便垂れとして、一切の斟酌なしに子らが賭けている賭け金と同額を無条件に払わなければならない。
 賭場によっては、いばりは問答無用で三倍付けとしているところさえある。骰子もまともに扱えぬ輩は、博奕の美学から外れた不細工の極致というわけだ。
 新九郎は先ほどから幾度かいばりをしてしまっていた。手許が狂ったという言い訳も、連続するとじつに虚しい。
 厚円座から外れて、畳の上で三の目を見せている骰子に茫然とした視線を投げる。三倍付けでないことが救いだが、問答無用で親落ちだ。意味もなく渇ききった唇をこすり、新九郎はうわずった声で釈明する。
「なにがどうしたか、こう指先が()ったようになってしまうのです」
「あれこれ(いら)わなければならぬ大切な指だからのう」
 頼武の皮肉な言葉を聞かなかったことにして、新九郎は眼前でわざとらしく骰子を吟味してみせる。
「この骰子、かたちがおかしくありませぬか。なにやら合点がいきません」
「おいおい、その合点がいかぬ骰子を転がすことにおいては、この頼武も一緒。()(よう)にちいさき骰子に仕掛けなど施せぬよ」
「骰子なんてそんなものですよ。ま、所詮は牛の(くるぶし)の骨。しかも博奕はおろか骰子自体も御禁制の品といいます。どこぞの隠れ家で手早く削りだされたものでしょう。いまや象牙の骰子など消え去ってしまいましたからね。そもそも博奕打ちは骰子の歪みからくる癖まで読んで振ると聞きました」
 諭す口調の深芳野には視線さえ向けぬ。ただただ乱れた息を悟られぬよう胸の上下を隠す新九郎である。だが、そうすることによってよけいに呼吸が浅くなってしまっている。どうしたものか──と頼武と深芳野が目配せを交わしたことにも気付かない。
 深芳野としてはおちょくりはしても憐れみめいた眼差しを絶対に注がぬよう気配りしている。一方の頼武も唯一新九郎に勝てるものを見いだして得意の絶頂ではあるが、せいぜいはしゃがぬように自制しつつ、新九郎を剝いでいく。
 新九郎にしてみれば、頼武から伝わる勝負に賭けた抑制が伝わって、それがひどく癇に障る。常に調子に乗って『あれこれ弄わなければならぬ大切な指』といった軽口雑言を放ってくれればまだしも、骰子を振る段になれば、愚者と軽んじていた頼武が慎重静穏に集中力を研ぎ澄まして勝負に挑んでくる。あげくそんな頼武が徐々に大きく見えてくるから、たまらない。
 親である頼武が新九郎と深芳野に駒を場にあげるよう促す。深芳野は胡坐をかいた新九郎の前の碁石を一瞥する。残りは白三つに黒が十ほどか。
 横目で頼武の碁石を見れば白黒混ざりあってこんもり裾野の広い山をなしている。頼武が強いということもあるが、頼武を見くびっていた新九郎の賭け方があまりにも雑で、しかも一発逆転狙いばかりであったのも、ここまで傷口が拡がった原因だ。
 いまの遣り方で勝負をする以上、もはや借銭を重ねて一晩中勝負を続けても最終的な勝敗がひっくり返る余地はない。
 負けは負け。深芳野は溜息を呑みこむ。遊びの小博奕とはいえぬ額を新九郎は頼武に払わなければならぬであろう。
 深芳野が肩代わりしてやってもいい。だが新九郎の自尊の心がそれを許さないだろう。忌避している父に無心せねばならないかもしれない。
 どうしたものか──。
 賭ける駒がなくなれば博奕は仕舞いだ。少なくともやめる口実ができる。とりあえず深芳野は、新九郎にすべてを吐きださせてしまうことにして、白三つに黒十を厚円座の隅に置いた。新九郎の持ち駒にあわせて、新九郎を裸に剝いてしまう算段だ。
 この遣り口は、深芳野が勝つと自覚しているからこその賭け方だ。
 それを悟った新九郎が奥歯を嚙み締めるのがわかった。美相を裏切ってぐりぐり動く新九郎の蟀谷(こめかみ)を見やって、深芳野はことさらな無表情をつくった。
 あまりの緊張と硬直ぶりを見てとって、頼武がちいさく肩をすくめた。どうしたものかと思案顔のあげく、言葉を投げる。
 

記事一覧
△ 芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第12回】 | P+D MAGAZINE TOPへ