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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第12回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして食い繋いだ幼少期。どん底を知る父と子の国盗りの野望が動き出す。狙うは天下の要・美濃国。父に続き美濃入りした新九郎(のちの道三)は、守護・土岐頼武から側室・深芳野との閨事の代役を託される。深芳野と密かに心を通わせ、野望をも打ち明ける新九郎。父との絆が壊れ始める……。

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「どういうことでございます」
「負けが込んできてからというもの、新九郎が気合いを入れたとたんに、その気の大仰に気圧されて、鈴虫の奴、鳴くのをやめてしまっておってな」
「──まったく気付いておりませんでした」
「だから、負けちゃうんだよ」
「はい。仰せのとおりです」
 力むことなく(うべな)った新九郎を上から下まで見やって、大きく首をすくめる。
「まずいなあ。こうなると美濃一国をもってかれるかもしれんぞ」
 おどける頼武に、深芳野がとっておきの頰笑みをかえす。相好を崩した頼武を視野の端に捕らえ、新九郎はふっと短く息をついた。諸々の乱れはおさまっているようだ。
 それでも命がかかっているのである。新九郎は完全に壊れてしまっていた内面の律動に意識をむける。自己判断ではあるが、鼓動も呼吸も至極まっとうである。
 諸々を勘案すれば頼武が呉れてやると言っても美濃一国は当てにできぬが、この勝負に負ければ、命は差しださねばならぬだろう。詰まるところ賭けるということは、そういうことなのだ。
 金を賭けたなら金。命を賭けたなら命。じつは金も命も、賭けられたなにもかもが運命の象徴で、運命を実体化したものなのだ。しかも思い返せば新九郎はとっくに骰子を振っていたのだ。
 深芳野だけに『美濃を我が物とする』と言い放ち、己の心の底を打ち明けたあの瞬間、新九郎は骰子を振ったのだ。
 あのとき新九郎の振った骰子は、まだ廻り続けている。脳裏でからからと音をたてて勢いよく廻っている骰子の音に耳を澄ます。この先どれくらい廻りつづけるかわからぬが、止まる気配はみじんもない。
 深芳野の深謀か、この博奕に勝ったからといってすんなり美濃国を手に入れられるはずもないが案外、頼武は本気である。まさに命懸けではあるが、新九郎にとって悪い勝負ではない。
 されどこの賭けに負けて死すれば新九郎が自らの意志で転がした骰子は回転を止める。人生とはその場その場において無数に骰子を廻すということなのだ。
 すべてが思い通りになるなら、神仏は不要だ。もちろん、骰子も。
 なぜ人は博奕に嵌まるのか。
 幾許かの銭を用いるということは、人の運命における最悪の結果──死を金銭にて代理させるということだ。負けて銭を喪うということは安直な死の象徴だ。
 新九郎は今宵、負けることによって無数に死んだ。だが、どれだけ注ぎこもうが、たかが銭──である。博奕に入れ込んだあげく一文無しになって首を吊るのは、運命の別の側面である。
 その一方で銭ですまさずに博奕にて本気で命の遣り取りをするなど不条理の極致に見えはするが、それこそが博奕の、いや運命の本質だ。
 運命それ自体が不条理で、博奕は人が骰子を用いて運命に対して挑む小さく控えめな戦いなのだ。人は誰でも最後の最後に賭ける唯一のものをもっているという深芳野の達観こそがすべてである。
 現世での闘いとは、人と人との争いに仮装した人と運命との闘いである。
 うまくいく者と落ち(こぼ)れていく者の差は、歴然としてある。人は視野に入ってくる敵対する相手ではなく、その背後の遠い彼方に控えている運命と闘わねばならないのだ。
 だが、ついつい人は間近に関わる者とあからさまに、あるいは心(ひそ)かに闘ってしまう。新九郎の父の生き様がその悪例の最たるものである。
 ところが悪しき先例を目の前で見つめ続けていたにもかかわらず、新九郎自身も頼武を侮りつつ、負ける気のしない手頃な相手として闘ってしまっていたのである。
 これこそがうまくいかぬ者、落ち零れていく者特有の勘違いである。目先しか見ていないから、転ぶのだ。
 闘う相手を間違っていた。闘う相手には血が通っていない。闘う相手は曖昧模糊の不明瞭、けれど途轍もない力をもっていて、しかも人の思惑など一切斟酌しない。気まぐれに幸運を振りまき、波風立たぬ平穏な日々を与えてくれたかと思うそばから、徹底的に不幸のどん底を押しつけてくる。
 この利害など超越したところで骰子を振って遊ぶ人智を超えた不可解な何物かと闘わなければ先は拓けない。それをようやく理解できた新九郎だった。
 頼武と深芳野は沈思する新九郎に黙って視線を注いでいた。
 ふたりの視線に気付いた新九郎は、唐突に顔をあげた。照れ笑いがにじんだ。
 じつに好い笑顔で、頼武と深芳野は感じいってしまい、ふたり同時に息をついた。深芳野は自分が提案した勝負により、この笑顔が胴と生き別れになるやもしれぬと、いまさらながらに肌が粟立つのを感じた。
 なぜ、あのようなことを言いだしてしまったのだろうか。心を遡っても、まったくわからない。
 妾は新九郎を喪いたいのだろうか──。
 慥かに殺してしまえば、新九郎は追憶のなかで自分に都合のよい姿のまま、永遠に生きる。だが、それは微妙に違う気がする。深芳野は新九郎に気付かせたかったのだ。
「なにを──」
 ごく小声の深芳野の独言を聞きとがめたのは、頼武であった。どうした、と深芳野の顔を覗きこむ。
「なにを伝えたかったのか、ということでございます」
「誰に」
「さあ」
「要領をえん。深芳野らしくない」
「妾にもなにがなにやら」
「ま、そういうこともあろう」
「頼武様こそ、眉間など抓んで思いに沈んでおられた」
「うん。余が勝って新九郎の首を落とすのは簡単だろ。頼武の狼藉ということで、まあけりがつくし。けど、余が負ければ、じつに七面倒臭いことになる」
「そうですなあ」
「他人事か」
「まじめに美濃を新九郎に渡すことを思案なされる頼武様。なんとも──」
「なんとも、なんじゃ」
「なんでもございませぬ」
「ふん。どう負けるか、いかに負けるかに思いを馳せるのが博奕の肝要よ」
 頼武の呟きに、新九郎は目を見ひらいた。頼武と視線が交錯した。頼武はごくちいさく頷いた。意識を集中していなければ見落としてしまうほどの頷きであった。実際、深芳野はそれに気付いていなかった。新九郎は深々と一礼した。何ごとかと深芳野が怪訝そうな眼差しを投げた。
 命と美濃一国を賭けた勝負は、妙な気負いの気配もなく始まった。鈴虫は庭の端の清陰なあたりから、玉のような音色を届けてくれている。
 深芳野は器用に食指と高々指、そして紅差指のあいだに二個の骰子をはさみこんで、頼武と新九郎に示した。
 ほぼ同時に頷いた頼武と新九郎に、深芳野がちいさく頷き返す。
 

くちばみ 第12話

 

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