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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第13回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして食い繋いだ幼少期。どん底を知る父と子が、美濃を舞台に国盗りへと動き出す。守護家の土岐頼芸から側室・深芳野との閨事の代役を託され、奇妙な三角関係の中、野望に向かって突き進む新九郎(のちの道三)。その一方で、父・新左衛門尉が次第に疎ましく感じられ……。

くちばみ新メインビジュアル

 
 なかば虚脱放心して首筋や額を濡らした脂汗を拭うと、鼻息も荒く真珠が土間を苛立たしげに踏み鳴らしはじめた。四肢が乱れ動いて尾が風を切る。
 新九郎が悪夢から目覚めたことが、血で窒息死しなかったことが不服らしい。蹄が打ちつける不規則な打音と共に、新九郎の寝床よりもよほど叮嚀(ていねい)に敷き詰められている土間の藁から幽かな黴の気配を含んだ日向臭いものが立ち昇る。
 夢の続きで、まだ口中に鉄(さび)くさい血の臭いが充ちているのだが、それを押しのけるようにして藁から漂う蒸れた陽射しの匂いが新九郎の鼻腔に侵入してきた。
 濃く澱んで垂れ込める闇のなかで思いもしなかった日溜まりの香りを嗅いだ新九郎は、冷たい汗で濡れそぼった背を意識しつつ、苦笑い気味に囁く。
「おまえ、俺がいよいよ苦しみ悶えているときに、俺を舐めただろう」
 問いかけると何ごともなかったかのようにすっと鎮まって、もう新九郎を見もしない。逆に新九郎は丑三つの暗黒を透かし見るようにして真珠を凝視する。
 際限のない悪夢をもたらすこの魔物めいた生き物を愛でる俺は、おかしいのかもしれない。これだけ厭な思いをしつつも、黄金色の鬣が岩場を流れ落ちる流水のように乱れ、揺れるのを目の当たりにすると、それだけで総てを受け容れてしまう。いったい俺はなにに魅入られているのだろう。おまえなど見るに値しない──と横柄に視線を逸らすばかりの目つきの悪いこの牝馬が、俺が眠っているときだけじっと見つめているのだ。ぞくぞくする。まして悪夢の極致で、俺の頰や額や唇を舐めまわしているのではないかと思うと、たまらない。たまらない──には、この上なくよいという極上の悦楽に近い痺れと、どうにも居たたまれないといった不安が折り重なっている。この好悪が入り交じった不可解な気持ちの動きは、いったいなにからきているのか。悪夢を見続けることに、なにか意味があるのか。悪夢を見るのは厭だ。さすがに毎晩だとしんどい。軀はともかく心の疲弊は尋常ではない。それなのに真珠を介した悪夢詣でをやめられない。これにはなにか理由があるのではないか。たとえばとことん見続けることによって己の内面に澱んでいる総ての厭でおぞましい混沌が既知の事柄にまで格下げされて、俺から悪夢に類するものが、それに対する畏れが見事に抜けていっているのではないか。真珠がやってくるまでは、悪夢を避けてきたからこそ、俺の心の奥底に鬱屈がたまりにたまったのではないか。真珠の眼差しには俺のなかに沈殿して腐っているものを泛びあがらせる力があるのではないか。
 惚れ込んでいるがゆえのやや大仰な、しかも肯定的な物思いに耽りながら、新九郎は朝を告げる鶏の声を聞く。ずっと左腕を枕にして横たわる真珠を見つめ続けていた。
 闇の醸す濃紫の靄が晴れてきた。朝の光の(さきがけ)によって真珠の鋭い面差しがあらわになってきた。昼日中にみせる(たお)やかなものはあきらかに偽装である。この馬の芯には、鋭い匕首(あいくち)が仕込まれている。
 一瞬だが、視線が絡んだ。
 真珠は即座に視線をはずしたが、その首筋に浮かびあがった血管が常にもまして烈しく脈動しているのが見てとれた。
 新九郎は上体をおこしてしばし真珠を見おろし、力まずに寝床を離れ、轡を手にして真珠に近づいた。いつもなら気配だけで荒い気性をぶつけてくるのだが、真珠は視線を逸らしている。
 その逸らしかたには、いつもの不遜さがない。真珠は新九郎を見ずに、すっと立ちあがった。黄金色の尾は落ち着いて垂れている。新九郎は当然といった手つきで真珠に馬具を装着していく。
 手綱を引くと、素直に厩からでた。夏の朝の湿り気が新九郎と真珠をつつみこむ。稲葉山は霞をまとってそのなだらかな姿態のほとんどを隠していた。真珠の脚も新九郎の足も朝霧に没して、動きに合わせて仄かで白い軽やかな流れが地に沿っておきる。
 新九郎は軀から力を抜いて真珠を見やる。顔を近づけようものなら歯を剝きだしにして怒りをあらわす真珠が、小首をかしげるようにして新九郎を見つめかえしてきた。
 その黒々とした瞳に新九郎の笑顔が映っている。犬の目が、羞じらう小娘の眼差しに変わっていた。
「俺はあの剣呑な目つきのほうが好きだな」
 首筋の血管を指先で辿るようにして撫でて呟くと、真珠はいやいやをするように首を左右に振った。
 新九郎は(あぶみ)に足をかけた。鐙革が伸びきるまでは緊張があった。けれど真珠は落ち着き払っている。
 またがると、そっと首筋を叩く。真珠は並足で朝霧を幽かに乱しつつ歩みはじめた。真珠が唐突に後肢で立ちあがって、あるいは四肢で烈しく跳躍して振り落とそうとしないか心(ひそ)かに身構えていた。
 真珠は厭なこと気に食わぬことに対して反射的に動くのではなく、必ず相手の様子を見切って油断させ、確実な痛手を与えられる瞬間を狙い澄ましてくる。
 だから絶対に気を抜けない。新九郎は鞍に臀を落ち着けてから意識せずに背骨を反り気味に張り詰めさせていた。それに気付いて力をすっと抜き、前屈みになって囁く。
「振り落とすなら、派手にやってくれ。それでこそ真珠」
 ぶるる──と真珠は口を鳴らし、歩みを止めずにゆっくり新九郎を振りかえった。目と目が合った。それだけだった。
 朝霧に隠された濡れた玉砂利を蹄が搔く音だけが控えめに城内に響く。
 行き先は決めていなかった。新九郎はすべてを真珠にあずけていた。半眠りだった門番があわてて開いた門を抜けると、真珠は長良川の方角に歩を進めた。
 軽海西城は揖斐(いび)川と長良川にはさまれるかたちの平城である。三十歳で美濃にやってきて、三十二歳で城を与えられた。戦功があったわけでもなく、土岐頼芸からぜひにともと請われて長井長広から離れて以降、深芳野との三角関係もあって頼芸の直臣として手厚く遇されているのである。
 百姓たちが軀を屈めて田圃に取りついている。馬上から見るともなしに見つめると、立ちあがって腰の屈伸をしている女と目が合った。深々と一礼してきたので、新九郎も笑みを泛べて頷いた。
 いよいよ朝靄が濃くなり、河畔に到った。真珠は河川敷の踏み分け道を落ち着き払って進んでいく。ときおり飛蝗(ばった)の類いが慌てふためいて四方に散っていく。
 新九郎は大きく息を吸うと、真珠の豊かな鬣に顔を突っこんだ。
 糞が附着したとき以外は頑なに軀を洗わせようとしなかった真珠である。その体臭はかなりきつい。けれど新九郎は顔を埋めた鬣から立ち昇る独特の酸っぱい匂いに安らいでいた。生き物の匂いである。芳香ではないが、とてもよく馴染む。
 もはや新九郎は上体を倒して真珠の鬣に顔を埋もれさせて進行方向を見もしない。手綱からも手を放してしまい、両腕はだらりと垂れさがっている。
 雲が切れて、ときおり朝の陽射しが新九郎の首筋に熱をもたらす。ここしばらくの出来事を脱力したまま反芻する。
 

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