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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第13回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして食い繋いだ幼少期。どん底を知る父と子が、美濃を舞台に国盗りへと動き出す。守護家の土岐頼芸から側室・深芳野との閨事の代役を託され、奇妙な三角関係の中、野望に向かって突き進む新九郎(のちの道三)。その一方で、父・新左衛門尉が次第に疎ましく感じられ……。

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 深芳野が妊娠したのがわかったのは、昨年の晩秋で、暮れも押し迫ったころに頼芸に報告した。頼芸は、深芳野を孕ますことができるのは新九郎しかおらぬではないか──と憎々しげに吐き棄て、深芳野などおまえに呉れてやる──と横柄に顎をしゃくった。
 正室に迎えてやりたかったが、頼芸がいずれおまえにふさわしい正室を選んでやると言って聞かず、新九郎のところにやってきても側室として扱わざるをえなかった。
 だからといって不憫といった感情からは離れたところに新九郎はいた。深芳野は縛ることのできぬ女だ。新九郎のもとで自在に生きていけばよい。
 風説や推論は、どうしても面白可笑しいほうに流れていくものである。世間では頼芸が孕ませて、扱いが面倒になったから新九郎に押しつけたというのが定説となっていた。
 まわりの口さがない連中は、頼芸から恩着せがましく疵物を下げ渡されたとからかったが、当の深芳野は常に新九郎といっしょにいられると心底から満足げで、巷の噂など一切気にかけなかった。
 新九郎は頼芸が不能であり、妊娠させられないことを徹底的に秘した。それどころか疵物下げ渡しを否定もしなければ(うべな)いもしないといった様子に終始した。頼芸と深芳野と新九郎の不思議な三角関係から発した仁義とでもいうべきものであった。
 十日前の早朝、まだ暗いうちに深芳野が男児を産んだ。深芳野に似て大層大柄な赤子だった。見てくれのままに豊太丸と名付けた。新九郎が真っ先にしたことは、豊太丸の左内腿を(たし)かめることであった。
 淡いものではあったが、あの65267cf267d2de787b09aac70a9352cbのかたちをした(あざ)が浮かんでいた。おそらくそこにあるべくしてあると理解している新九郎以外にはわからないのではないか。それくらい薄い65267cf267d2de787b09aac70a9352cbのかたちであった。
 もちろん深芳野を疑ったわけではない。それでもあえて自分の子であることを確認したのは、心構えを定めるためだった。豊太丸には深芳野がいるのだ。母がいる。
 新九郎は心のなかに、血を分けた存在に対する強烈な執着があることを悟っていた。具体的には子のすべてを己の支配下におきたいという衝動だ。
 言い方を変えれば、我が子だけはいかなるときでも愛着を糾弾されることなく自在に扱え、我が子のためならばという言い訳さえ(でっ)ちあげられれば、己の物として束縛してもかまわないという尊大な気持ちだ。間違いなく父から受け継いだものである。
 このような性情までもが血を介して取りこまれるということに驚愕、いや呆れ気味であったが、実際に我が子に対する執心は胸中で滾るほどであり、それを能面じみた無表情で抑えこんで、外には一切出さない。
 結實(ゆい)が産んだ我が子に対しても身悶えが起きそうな執着を覚えた。だからこそ徹底的に己を抑えこみ、他人行儀に接し、美濃にやってきてからは京に行く機会があっても頑なに息子に会うのを拒んでいる。
 血を分けた存在、子に対する異様なまでの執着は、父が幼い新九郎に為した慈愛に充ちたあれこれで、まさに身に沁みている。幼いころは父が大好きで、父が全てで、命であった。
「真珠よ。俺は母を知らぬ。物心ついて母に出逢ったときは、母はよその家の妻女であった」
 新九郎は真珠の鬣に顔を突っこんだまま、囁き続ける。
「母を取りもどしたかったのだろうか。俺は母と契りもした。昂ぶりが過ぎて、なにやら痛みに似たものを覚えるほどであった。けれど母は俺のものにならなかった」
 真珠の鬣の奥の地肌に新九郎の鼻先がきつく押し当てられた。新九郎は真珠の生えはじめの淡い体毛を口に含みつつ、訴えた。
「いや、そうじゃない。母は母にはならなかった。俺の女になりはしたが、俺の母にはならなかった」
 真珠は踏み分け道から外れ、委細構わず流れのゆるやかなところに向かい、新九郎を乗せたままその軀を水中に横たえた。休んでいた鮎がすっと離れていくのが真珠の黒々とした瞳に映じた。
 新九郎は鬣から顔もあげずに真珠に密着したまま、下半身を柔らかく冷やして愛撫する水流を愉しんだ。
「父が俺にしてくれたことは、まさに申し分のない並外れた奉仕だった」
 それは保護し、育てるという大義名分のもとに、のべつ幕無しに幼い新九郎に降り注ぐ際限のない支配慾であった。西(にしの)(おか)の草屋に逼塞して誰からも相手にされぬ父が、唯一支配できたのが、新九郎だった。
 物心ついたとき、父しかいなかった。本来は母の乳房に依存すべきときに、頰ずりしてくる父の髭のざらついた尖りに安堵した。だが新九郎の依存にもまして父の干渉は尋常でなかった。
 いまごろになって、父の変形した支配慾のすべてが己にのし掛かっていたことに気付いた新九郎であった。
 しかも、おなじことをしかねない危うさが血として流れていることを自覚していた。支配する対象として子ほど便利なものはない。しかも、それは情愛という偽善をまとって施されるのだ。
 父は、優しかった。誰よりも新九郎のことを大切にし、己を(なげう)ってでも新九郎を守り、慈しみ、ときに物の筋道を教え込むために叱りもした。
 けちのつけようがないのである。糾弾しようがない。
 だが、いま振りかえれば、父は新九郎を柔らかで滑らかな、けれど強靱な絹の細紐で雁字搦めに縛りつけて、操り人形のように扱っていたとしか言いようがない。
「愛おしくてたまらぬ深芳野が産んだ豊太丸だからこそ、俺は豊太丸に干渉せぬことを誓う。俺とちがって豊太丸には母がいる。父の出る幕などない。豊太丸は、徹底して母に甘えて育ってほしい。豊太丸からすれば、俺は冷たい父ということになろう。だが干渉して善意で覆いつくして窒息させてしまうくらいならば、父はさりげなく身を引いて、おまえが自在に息ができるようにする。豊太丸よ、父はおまえに関わらぬようにしよう」
 新九郎は鬣に潜りこませていた顔をぐいとあげ、立ちあがった。加減せずに真珠の平頸(ひらくび)を叩き、掌を合わせて流れをすくい、真珠の全身を濡らしていく。真珠を手ずから洗い清めていく。
「生娘が目脂をこびりつかせているのは無様だぞ。──暴れるなよ」
 本来ならば目を閉じてしまうところだろうが、真珠は新九郎の指先が目脂を(こそ)げていくのを、ごく落ち着き払った眼差しで受け容れた。あげく新九郎は真珠の口中にまで指を挿しいれ、とことん磨きあげていく。歯と歯茎を磨きあげてやると、よほど心地好かったのか、真珠は薄桃色の唇を(めく)りあげて新九郎に頰ずりするような動きをみせた。
 洗われた真珠は当然のこととして、新九郎も全身びしょ濡れだ。強さを増してきた陽射しが心地好い。川面の燦めきに目を細め、腕組みして真珠を覗きこむ。
「信じ難いなあ、真珠。いままでの突っ張った態度は、いったいなんだったのだ。こうしてとことん油断させておいて、なにか仕掛けてくるのではないか」
 新九郎の問いかけに、真珠はちいさく鼻を鳴らした。どこか笑い声に似ていた。新九郎が岸辺を見やると、真珠はすっと立ちあがって尻尾や鬣から派手に水しぶきを飛ばし、新九郎を先導した。

 

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