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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第14回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 父と二人、油売りをして食い繋いだ極貧の幼少期。どん底を知る父と子は、国盗りの野望を抱き、美濃国に入った。側室・深芳野を介して、守護家の土岐頼芸と昵懇になった新九郎(のちの道三)は、策謀と戦功により、頼芸を美濃守護の座に就けることに成功する。信頼を手中に収めた新九郎の、次なる標的は……?

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 逡巡が一瞬、双眸を掠めた。
 けれど、それはまさに一瞬で、いつもの平静な眼差しにもどっていた。
 その一瞬を見逃さなかった()(よし)()が、笑みを崩さずに微妙な上目遣いで問う。
「なにを躊躇(ためら)っておられる」
 新九郎は率直に返す。
「出来物は取り除かねばならぬが、それなりに恩がある御出来なのでな」
「なるほど。されど一緒に膿み腐れてしまうのは、どうかと」
 新九郎は頷いた。その唇に深芳野も息を吞むほどの凄艶な微笑が(うか)ぶ。が、それはすぐに消え去って、妙に(しゃちほこ)()った真顔に取ってかわった。
「豊太丸は息災か」
「なにを他人行儀な。祐向(いこ)(やま)のお城に出向かれて、御自分で抱きあげればよいではございませぬか」
「いや、まあ、その──」
 貧乏揺すりの変形だろうか。手指を絡みあわせて、せわしなく動かす。
狼狽(うろた)えておられる。おかしな御方です」
 深芳野が明るく笑うと、新九郎もつられて笑った。けれどそれは笑いというよりも、引き攣れに似ていた。深芳野は新九郎の父に対する複雑な気持ちを知り抜いている。
 母親が出奔してしまったぶん、父親の献身的な愛情を一身に受けて育ったのに、いまではそれを疎ましく苦々しいものと感じて、絶対に父の二の舞を演じてなるものかと(まなじり)決している。まったく人の感情とは一筋縄ではいかぬものだ。
 なぜ、白と黒しか選択肢を持ち得ぬところまで自分を追い込んでしまうのか。灰色でよいではないか。そう深芳野は率直に、あるいは遠回しに囁いているのだが、新九郎に中間色は有り得ぬようだ。
 豊太丸は数えで三歳になった。深芳野に似たのだろう、おなじ年頃の子供のなかでは(ぬき)んでて軀が大きく、頭もよい。なによりも初対面の者が目を瞠るほどの美童である。
 深芳野にすれば新九郎と(わらわ)の血をひいているのだから当然──といったところだが、乳母も圧倒されるほどにきつく乳首に吸い付いて、大量に乳を飲む。
 この時代、衛生観念などあってないようなものであるから、乳幼児の致死率がやたらと高かった。ゆえに経済的な余裕のある家の子供はとっくに乳離れしてもよい時期を迎えても、乳母を介し母乳で育てられていた。
 母乳ならば腐敗した食物からくる感染等の心配をせずにすむからであり、また母乳は完全栄養食品であるからだ。
 そればかりか血のつながりのない乳母から乳をもらうということは、母の乳だけで育つよりも多くの免疫を得ることができる。おそらくそれを経験的に悟っていたのだろう。貴人の子供に乳母は必須なのである。
 けれど、じつは新九郎は母乳からくる豊太丸の軟便が気に食わない。取るに足らぬといえばまさにそのとおりなのだが、豊太丸の(しも)の世話をしているところを目の当たりにすると、苛立ちが這いのぼる。
 母が消え去って、父は途方に暮れるばかりで為す術もなく虚ろな時を過ごしていた。飢えも限界に達して、乳飲み子だった新九郎は死にかけていた。そんな極限状況で、傘張りの油紙をつくるための荏胡麻油を舐めさせられて、どうにか命をつないだという過去があるからだ。
 父は荏胡麻油のせいで、際限のない下痢便を()ったと、どこか得意げに、どこか嬉しそうに、自慢話のような口調で新九郎にさんざん語って聞かせた。しかも荏胡麻油の下痢便は腐肉のような臭いがして最悪だったと付け加えるのを忘れない。
 もちろん下痢便を放ったのは父だけでなく新九郎も同様で、ひたすら油っぽい糞を小便のように垂れ流した幼い新九郎の姿を面白可笑しく語るのである。
 母乳ばかり飲んでいる豊太丸に対して、そろそろ一人前の糞をしてみろ──と内心では苛立っている。
 けれど、新九郎はそれを口にすることができない。豊太丸の育児その他に一切関わらぬことを己に課したからである。それに、その思いが理不尽であることも自覚しているのである。
 とはいえ、一度だけ深芳野に、そろそろ乳母は必要ないだろうと探りを入れるかの口調で迫ってきたことがある。
 怪訝そうな深芳野に、荏胡麻油の一件、下痢便のことを重複の多い(くど)い口調で延々と語り、豊太丸も母乳由来の軟便から脱するべきだと力説した。
 それは何故(なにゆえ)と問い返せば曖昧模糊の不明瞭で、せいぜいが童から脱するためとか、乳からなる軟便から漂う独特の悪臭が耐え難いといった主観的な事柄程度で、子育てに単なる好悪を持ち込む新九郎には付き合いかねるというのが深芳野の本音である。
 このあたりの機微は、いくら説かれても深芳野には伝わらない。直接口にはしないが、深芳野からすれば内心は荏胡麻油で命をつないだのだから、下痢便くらい受け容れるべきだと思っている。
 まして豊太丸が健やかに育つために乳母を配しているのだ。新九郎が沈んだ顔つきを隠さずに豊太丸の軟便を受け容れがたいと呟いたときは、まったく理解の埒外で、なにがなにやらよくわからなかった。
 よくわからないことといえば、豊太丸の内腿に記された『松波の家に代々伝わる(しるし)』のことである。子供に親とおなじところに(あざ)があるといったことは、めずらしいことではない。大概の親は、それに御大層な意味など附与しない。
 (たし)かに豊太丸の左太腿内側には65267cf267d2de787b09aac70a9352cbの痣がある。けれど指摘されなければ見逃してしまう程度の淡いものである。天、地、人をあらわす──などという大仰な能書きを裏切る薄さなのだ。
 新九郎は父の思い込みの烈しさを糾弾するが、深芳野からすればもっとも『松波の家に代々伝わる徴』に(こだわ)っているのは、新九郎自身である。新九郎にとって徴は呪縛であり、徴は呪いだ。
 この徴のことは絶対に口外するなと命じられている。当の豊太丸にも教える必要はないという。
 間違いなく父親は新九郎であるということ以外に徴に対してなんら意味を見いだせぬ深芳野であるから、口外もなにもすぐに念頭から消え去ってしまっていた。
 それなのに、新九郎は折々に徴のことを蒸し返す。日常的に深芳野の理解を超えたところのある新九郎ではあるが、このことに関してはあまりに神経症気味であり、心ならずも反撥心が湧きもすれば、鬱陶しいと眉間に縦皺を刻みたくもなる。
 そんなことに拘るよりも、豊太丸を高く抱きあげて相好を崩せばよいではないか。頰擦りすればよいではないか。深芳野が呆れるほどに溺愛すればよいではないか。
 けれど新九郎は頑なに豊太丸に近づこうとしない。豊太丸を抱いたのは、生まれた直後だけである。可哀想に豊太丸は父のいない子同然だ。
 深芳野の理想では子は父を頼り、敬愛し、ときに厳しく叱責され、それで(しょ)げかえって母に甘えて駄々をこね──と、両親のあいだで硬軟の均衡が取れていることが何よりであるのだが、何ごとにおいても極端にはしる新九郎にはそれを望めない。
「俺の跡継ぎは、あくまでも豊太丸である。こればかりは違えることのできぬ松波の家の絶対的な掟である」
「薄いとはいえ、65267cf267d2de787b09aac70a9352cbの字があるのですから、そのとおりになるに決まっています」
 あえて『薄い』という皮肉をおいて、鷹揚に見せかけて頷く深芳野であった。
 (そば)()に過ぎぬ深芳野の息子が跡継ぎであるということは願ってもないことではあるが、子を生み、母となって深芳野は己の心持ちが大きく変わったことを自覚していた。新九郎が美濃を支配するしないといったことは、もはやどうでもよいことだ。
 家族に恵まれなかった深芳野の本心は、なによりも親子三人水入らずで仲睦まじく暮らすことであり、跡継ぎ云々は二の次、三の次である。
 どうせ会いにいかないのだから、豊太丸のことはもういいでしょうと目配せで遮断し、周囲に人の気配がないことをあらためて確認し、声を落として問う。
「出来物とは、長井長弘殿のことでござりましょうか」
 男の世界の謀略事などどうでもよいが、自分にできることはなんでもすると決めている深芳野である。たとえそれで命を喪うようなことがあってもかまわない。
 けれど豊太丸が生まれて以降、新九郎は深芳野に間諜に類することを一切させなくなった。母を全うさせたいという新九郎の思いが伝わって、身震いしそうになるほどの幸福につつまれる。だからこそ新九郎の力になりたいのだが──。
 深芳野にはこういった話をしたくないという気配を隠さず、きつく腕組みしつつ、それでも新九郎は口をひらいた。
「慎重居士(こじ)。手間のかかる男だ」
「半年、いやもっと以前からですか。新九郎は、なにやら長弘殿と昵懇というには過ぎたお遊びをなされてばかりですから、なんとも奇異なものを感じておりました」
 はじめて情を通じたとき以来、ふたりだけのときはお互いに呼び棄てである。新九郎は鋭い目つきで呟くように言う。
「一気にもっていくと用心深い男ゆえ、じわじわと深みに落とす算段をしてきた。もう一年以上前からだ」
「妾のみたところ、もう見事に搦めとることができたのでは」
「まあな。雁字搦めよ」
「おそろしや。長弘殿、近ごろ政務怠慢との(そし)りをお受けになっておりますが」
「ああ。酒池肉林責めが効いておるからな。毎日、朝から贅沢なあれこれをつつきながらの酒宴。そしてとことん酔って、昼間から、女。朝っぱらからそれに付き合う俺もじつに大儀だが、慎重居士だからこそ、遊びを知らなかったからこそ、溺れてしまえば陸は遙か彼方」
 深芳野は首をすくめ、どこかわざとらしくふっと息をついた。思惑は充分に理解できるが、ときどきでよいから酒宴の時間を豊太丸に割くことができないものか。
 腕組みを崩さずに長弘に対するあれこれを反芻しているらしい新九郎を、包みこむような眼差しで見やる。
 さしあたり妾にできることはない──と判断した。

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