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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第17回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 油売りをして食い繋いだ極貧の幼少期を経て、父と二人、美濃の国盗りを目指した道三。守護・土岐頼芸を篭絡し、毒と策を用いて次々に政敵を葬り去った道三は、ついに守護代の座を手に入れる。一方、あえて関わりを断って育てた長男・義龍の胸中には、父に対する複雑な思いが渦巻いていた……。

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   29〈承前〉

 はい──としか言わずに退出した義龍(よしたつ)の背を見やって、これでよかったのだろうかと頰杖をついたまま、深い溜息をつく道三であった。だが、我が子に対し、いかに処すべきかに意を砕いている余地はなかった。
 毒殺した娘婿、土岐(とき)頼満の家臣が、頼満殿は道三が宛がった(そば)()、菊によって毒殺されたと頼芸(よりなり)に訴えでたのである。
 道三との蜜月にどっぷり身を浸して惚けていた頼芸であったが、涙ながらに訴える頼満の家臣の姿に心を動かされはじめていた。無骨であるが、掛け値なしの真心が迫ってきたからだ。
 頼芸は無精髭を指先で(もてあそ)びながら家臣のよれた髷を見つめ、思いに耽る。平身低頭した家臣は落涙し、嗚咽しつつ、爪で畳表を搔きむしるようにして哀訴し続けている。言葉は(つか)え気味で要領を得ない。
「もう、よい。泣くな」
「まことに、まことに不調法かつ無様。相済みませぬ。が、されど、その、頼満殿の御無念に思いを致せば、なんとも、嗚呼──」
 家臣は激情を抑えきれずに奥歯を嚙みしめて天を仰ぎ、直後、額で畳を打ち据えはじめた。悔しさと怒りと悲しみ。こうして訴えることしかできぬ己に対する苛立ちが、その全身から熱苦しいほどに立ち昇っている。話を適当に聞き流そうものならば、この場で腹を切りかねぬ思いの丈が強烈な波動として頼芸に伝わってくる。
 頼芸は静かに息をつく。薄く目を閉じる。道三の、悪く言えば引っかかりのない美相が目蓋の裏に(うか)ぶ。そつがないといえば、これほどそつのない男もいない。この家臣のような鬱陶しい熱は、欠片もない。あるいは、一切見せない。
 すべてにわたって遺漏のない道三から、このような赤心を感じたことがあったか。道三はいつも頼芸の気持ちを先回りして常に心地好くしてくれる。
 冷静に思いを致せば、その絶妙かつ壺を外さぬ気遣いは薄気味悪いほどである。痒いところに手が届くと言えば聞こえはよいが、道三は、あまりにも如才ない。しかも、焦らすのがじつに巧みである。
 純なところがある頼芸は、道三のことを想っただけで、頰が赤らむ。()(よし)()は相当に難しい女だった。だが、贔屓目かもしれぬが、案外裏がなかった。
 比して道三は、悪女よりも始末に負えぬ。頼芸は道三に惚れ込んでいるのである。以前はたった一人、頼芸の気持ちをわかってくれる遊び友達といったあたりだったのが、ここのところ道三はごくさりげないものではあるが、身体を接触させてくる。
 これが、たまらない。
 深芳野に懸想していたときなどとは比較にならぬ得も言われぬ昂ぶりと、ふとした瞬間烈しく打ちひしがれてしまいそうな苦悶と憂愁が頼芸の肌を這いまわる。
 軀の関係こそないが、だからこそ尋常ならざる交わりというものがあるのだ。微妙な接触からもたらされる、心と心の綾である。結果、過剰なまでに親密な衆道的気配を宿すようになったからこそ頼芸は、道三の実のなさに勘づきはじめていた。
 しかも、道三に対する得体の知れない嫉妬に似た感情が芽生えていた。これがなんとも抑制しがたい。
 いくら情愛を注いだとて道三は真に自分に(なび)いているわけではない。対象のない嫉妬とでもいおうか、具体性がないだけに、頼芸は独りの夜に夜具を抱くようにして苦しみ悶えていた。
 道三とのあいだに漂う濃密は、いまや並ならぬものがある。粘って糸を引きそうな抜き差しならぬものがある。
 されど頼芸は道三の放つ濃密が計算されつくしたものであり、その実体は薄情至極ではないかという疑念を抱きはじめていた。情愛の思いが募るに従って、じつは道三が自分のことを一切見ていないことを、肉体的に感じとりはじめてしまっていたのだ。
 濃密にして薄情、奇妙に相反する気配が道三のどこか濁って焦点の合わぬ眼差しの奥に幽かに揺れていることに気付いてしまって、困惑している。
 いま、平伏し、訴える家臣の姿を見て、頼芸は悟った。道三が漂わせているものは純粋性に欠けている。勝つためには道化にも鬼にもなる真の博奕(ばくち)打ち──。
 さんざん銭を捲きあげて得意がっていた。だが、負けることで得るものもある。あえて負けてやることで手に入れることのできるものがある。
「余の心だ。余の優越、余のほうが上位であるというなんの裏付けもない確信──。結果生じる、油断」
 頼芸の呟きに、頼満の家臣が涙で濡れた顔をあげ、食い入るように見つめてきた。頼芸は道三と己の来し方を反芻し、俯いたまま深い溜息をついた。
 ひとときの手慰みではなく、人生そのものを博奕であると捉えるならば、道三こそが本物の、忌むべき真の博奕打ちではないか。これは恋情がもたらす直感であった。
 ──余は、道三にあしらわれているのであろうか。じつは、その掌にて巧みに転がされているだけではないか。この者が訴えることが真であるならば、いずれは、この頼芸に毒を盛るのではないか。なにしろ近ごろの道三は余と近すぎる。あの男ならば、毒を口移しで流し込みかねぬ。余は、あの男に頰を寄せられたとき、抗えるか。絶対に抗えぬ。死するとわかっていても、余はあの者の唾を吸ってみたい。吸ってしまうであろう。
「もうよい、泣くな。おまえの気持ちは、よくわかった」
「では、では、よろしくおはからいいただけますか」
「うん」
 気のない返事ではあったが、頷いたとたんに道三を美濃から排除することを決心していた。されど愛惜の情は頼芸の気道をせばめ、しばし息が詰まってしまい、何ごとか──と平伏している家臣に不安を覚えさせた。が、唐突に息ができるようになって、頼芸は目尻に浮かんだ涙を指先でこすりつつ幾度か深呼吸し、ふたたび大きく頷いた。
「くちばみ、か」
「はっ。あの男は鋭い牙と最悪の毒をもったくちばみにございます」
「頼満はおまえのような忠臣をもって、じつに幸せであったな」
「過ぎたる御言葉──」
 額を畳に擦りつけている家臣を鷹揚に一瞥し、さて、実際にどう動くべきか──。思案しはじめた頼芸は、生まれて初めて武人の面差しになった。

   *

 続々入る間諜からの報せを、まるで我関せずといった様子で道三は受け流していたが、者共がさがると、どかりと座してきつく腕組みした。
 頼芸は道三が背後で画策して己が追放した兄の頼純に密使を送り、協同して道三に対することとし、そればかりか頼純の亡命先である朝倉氏にも窮状を訴え、助力の確約を得ることができたようだ。
 小見(おみ)の方が、そっと顔色を窺う。沈思している気配ではあるが、いつもどおりの感情のあらわれぬ表情である。道三は短く息をつくと、腕組みを解いた。
「笑止」
 それは小声であったが、小見の方が仰け反りそうになったほどの尖った声であった。道三は唇の左端だけくいと歪ませて、残忍酷薄な笑みを泛べた。
「暗愚めが。誰のおかげで守護という地位に就けたと思っておるのか」
 その鋭利な刃物じみた顔つきと、完全に頼芸を下に見ているばかりか愚弄しきった口調に、気の強い小見の方も思わず顔を背けた。そんな小見の方に気付いた道三が、残忍な笑みをすっと消した。
「女でよかったな」
「はい」
「男は、しんどい生き物だ」
「そのようでございます」
「ま、女には女のしんどさがある」
 そのとおりだが、小見の方は黙っていた。どうやら道三はこの日がくるのがわかっていたようだ。
(たら)しこむということ、もっとも無難な遣り口だが、誑しこめば相手が付けあがる。ゆえに最後の最後には、これが物を言う」
 道三は握り拳をつくり、小見の方の眼前にぐいと突きだした。すべてを捩じ伏せる強靱なる力と武の気配が横溢していた。小見の方はその拳を両手で包みこんだ。
「縁起でもないことを口にいたします。どうか、死することのなきよう、お立ち回りくださいませ」
「なぜ、そのようなことを申す」
(わらわ)は、貴方様が息さえしていてくれれば、それで満足でございます」
「ん。死なぬ。俺は武士ではない。商人だ」
「はい。いままで聞いた御言葉のなかでも、もっとも力強い御言葉。武人は脆い。かちこちですから」
 小見の方は道三の拳に頰擦りした。じつにいとおしげであった。道三は心底から充たされつつ、眼前の女ではなく、深芳野のことを想っていた。

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