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芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第27回】母……重要な文学テーマ

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第27回目は李恢成の『砧をうつ女』ついて。母の生涯を清冽な文体で描いた作品を解説します。

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【今回の作品】李恢成砧をうつ女』 母の生涯を清冽な文体で描いた作品

母の生涯を清冽な文体で描いた、李恢成『砧をうつ女』について

きぬた……砧。これって、何でしょうか。
東京に住んでいる人なら、世田谷区に砧という地名があるので、読み方は知っている人が多いのですが、砧というものを実際に見たことがある人は少ないでしょう。ぼくも見たことはありません。平らな板と、のし棒がセットになった道具で、洗濯した布を生乾きの状態で叩いて、しわのない布にする……というものです。こういう説明をすると、アイロンがあるじゃないの、ということになりますが、まさにそのとおり。アイロンが普及する以前は、こういう道具で、人々は布のしわをのばしていたのですね。日本でも明治時代の初めまで使われていたそうです。現在のような電気式のアイロンよりも前に、鉄のこてのようなものを炭火で温めるアイロンが日本では普及していました。ですから多くの日本人は、砧というものを見たことがないのです。

しかし韓国では、ごく最近まで砧が使われていたそうで、年輩の韓国人にとっては、母が砧を打つ姿は、懐かしい大切な想い出なのです。李恢成は在日韓国人の作家として知られています。第二次大戦の終戦前は、韓国(現在の北朝鮮も)は日本の支配下にありました。一つの国のような状態だったので、韓国から日本に出稼ぎに来る人も多く、また戦時下では強制的に徴用されて日本に連れて来られた労働者もいたようです。終戦後も、韓国に戻らずに日本で生き続ける人が多く、在日韓国人(および朝鮮人)は、日本における在留外国人の最大の勢力となりました。

彼らにとっては、貧困と差別が、生きていく上での大きな困難となっていました。この作品は、そうした問題を正面からとりあげたものではありません。すでにご紹介した『オキナワの少年』と同じように、ただ少年のありのままの日常が描かれているだけなのですが、その背景には自ずと貧困と差別の問題が見え隠れすることになります。正面きった問題提起よりも、ただ背景として見えてくる、といった書き方の方が、読者の胸にじわじわと効いてくるということがあるようです。

人間のありのままの姿が問題提起になる

少年の日常から始まったこの作品は、すぐに母の死の場面に移行し、さらには過去にさかのぼって、母の一生が描かれることになります。そこに、砧というものが登場するのですね。砧とアイロンというのは、ただの民族的な慣習を示したものではありません。日本でも昔から砧を使っていたのですが、明治の中頃にはアイロン(電気式でないのもの)が普及して、砧は使われなくなっていました。どんなに貧しい家でも炭火はありますし、電気式でないアイロンはそれほど高価なものではなかったと思われます。

しかし韓国の田舎の方では、どこでも砧を使っていたのですね。ですから、砧というのは、ここでは辺境とか貧しさといったものの象徴として描かれているのでしょう。主人公の母は、辺境や貧しさから脱却するために、日本に渡ることを決意します。地域社会の結束が固く、テレビなどがなくて情報が不足していた昔の地方社会では、そこから都会に出稼ぎに出るというだけでも、大きな決意が必要だったと思われます。この女性は、地方の村の中では、気が強くて進歩的な女性だったということでしょう。

日本に出稼ぎに来たものの、そこで在日朝鮮人の男と出会い、その男について各地の炭鉱で働いたあと、最終的には日本の中でも辺境の地、当時は日本の領土だった樺太(いまはロシア領)にまで流れてきた。それが主人公の家庭です。作者の李恢成自身の生い立ちと重なる状況で、これは典型的な私小説といっていいのですが、誠実に生きている人間のありのままの姿が、そのまま社会に対する問題提起になっているという点では、新しいスタイルの私小説だといっていいでしょう。砧を打つ女というのは、母が捨ててきた韓国の辺境の村というものを象徴しています。一生砧を打って暮らすのはいやだという思いを抱いて故郷を捨てたものの、幸福といったものとは無縁のままで病死してしまった母の、不本意な人生についての思いが、このタイトルで表現されているのでしょう。

母への思いが込められたピュアな作品

誰にとっても、母親というのは大切なものです。母親のことを考えると、胸がきりきりと痛む。そんな人が多いのではないかと思います。ぼくにも母親がいます。もう亡くなっていますが、母のことを考えると、いまでも胸が痛みます。この原稿を書くために、改めてこの作品を読み返してみたのですが、読み終えたあとも、しばらくは胸の痛みが余韻のように残っていました。

李恢成は在日朝鮮人の生まれであると同時に、樺太からの引き揚げ者であるという、二重の苦しみを抱えた少年時代を過ごしました。母の想い出は、そういう苦しい生い立ちとつながっています。この作品は作者にとっても大切なテーマなのでしょう。しかし誰にだって母親はいるのです。この作品が芥川賞を受賞したのは、時代性や社会性が関わっているからだと思いますが、そういう点を抜きにしても、母への誠実な思いがこめられた、ピュアな作品だと思います。これを読むと、自分の母親のことを考えたくなります。母親のことが書きたくなります。皆さんも、皆さんの母親のことを、小説に書いてみてください。母親というのは、文学のテーマとしても、最も重要なものではないでしょうか。

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