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芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第48回】不思議な名作を味わってみよう

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第48回目は、北杜夫『夜と霧の隅で』について。ナチスに抵抗する精神科医の苦悩を描いた、不思議な名作を解説します。

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【今回の作品】
北杜夫夜と霧の隅で』 ナチスに抵抗する精神科医の苦悩を描く

ナチスに抵抗する精神科医の苦悩を描いた、北杜夫『夜と霧の隅で』について

北杜夫といえば『どくとるマンボウ航海記』です。ぼくは中学生の時にこの本を読んで、あまりの面白さに、その後ずっと『どくとるマンボウ昆虫記』『どくとるマンボウ途中下車』『どくとるマンボウ青春記』などのシリーズを読み続けることになりました。マンボウというのは、あの顔だけのような魚のことで、北杜夫自身が自分につけたニックネームのようなものです。

大ベストセラーになった『どくとるマンボウ航海記』は、遠洋漁業でヨーロッパの北海あたりに出向く漁船にアルバイトの医師として乗り込んだ青年の、ユーモアエッセイといったもので、そのとぼけた文体と、その底に感じられる深い見識みたいなものが魅力でした。シリーズが続くにつれて、だんだん面白くなくなっていくのですが、とにかく実際の医者が書いた、とてつもなく面白い本として、多くの人々に愛されたのです。

このユーモアエッセイと、芥川賞受賞作『夜と霧の隅で』は、同じ年に発売されました。でも売れたのはユーモアエッセイの方です。大半の読者が、この書き手が芥川賞受賞作家だということは知っていても、受賞作は読んだことがないというのが実状でしょう。ぼくもそういう読者の一人でした。今回、この原稿を書くために初めて読んだのです。

暗くて不気味な作品

北杜夫の小説として有名なのは、『楡家の人びと』です。これはテレビの連続ドラマになったこともあって、ベストセラーになりました。北さんは有名な歌人、斎藤茂吉の次男なのですね。斎藤茂吉は歌人としてあまりにも有名ですが、実は精神科医で、大きな病院の院長でした。ですから北杜夫自身も、兄の精神科医でエッセイストとして有名な斎籐茂太も、ほとんど必然的に精神科医となったのですね。『楡家の人びと』は同じく精神科医で青山病院を一代で築いた祖父を主人公とした一族の物語で、おしまいの方には北杜夫自身も登場する、ユーモアあふれる年代記です。

その印象が強いので、ぼくは北杜夫をユーモア作家だと思い込んでいたのですが、この芥川賞受賞作を読んで、少し驚きました。暗くて不気味な作品なのです。この『夜と霧の隅で』というタイトルは、第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人迫害のために設置した強制収容所の内部を描いて世界的なベストセラーとなった、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を意識してつけられたのでしょう。ドイツが舞台で、ドイツ人の精神科医師が主人公です。障害をもった子どもたちが収容所送りになるという、衝撃的なオープニングから、読者は絶望的な気分の中で作品を読み込むことになります。

ユダヤ人迫害という史実の中で、ヒューマニズムをもった医師が、一人でも犠牲者を少なくしようとする物語、みたいなものを期待すると、その期待は見事に裏切られてしまいます。主人公は冷徹なドイツ人気質の人物で、差別意識をもっているばかりか、平気で人体実験をするひどい人物なのです。いちおう患者の中に日本人も出てきて、ユダヤ人の妻が行方不明になったために精神を患っているという設定になっていて、それが日本人である読者に対する唯一の窓口になっているのですが、主人公がドイツ人で、ドイツ的な合理主義で世界を認識している人物なので、作品の世界に感情移入することはできません。最後まで作品世界に入り込めないまま、話は終わってしまいます。何だか重苦しい、いやーな後味が残ります。

まったく逆の二つの人格

あの明るく楽しい『どくとるマンボウ航海記』とまったく同じ時期に、こんな暗い小説を書いていたのかと思うと、北杜夫という作家の精神の振れ幅に驚かされます。二重人格ではないかと思われるくらいに、作風がまったく違うのです。ああ、でも、突然、自分のことを書いてしまいますが、ぼく自身、自分が二重人格だと感じることがあります。明るいところと暗いところがあります。優しいところと冷徹なところがあります。誰だって多少の二重性はもっているのですが、その振れ幅こそが、作家としての才能なのかもしれません。でも、その振れ幅がコントロールできなくなると、本人はそのことに苦しむことになります。晩年の北杜夫は、躁鬱病に悩まされていたようです。

ぼくはこの作品を、皆さんに積極的に読むように勧めたいとは思いません。ちょっと危ない作品ですし、怖い物見たさみたいな気分で読んでいると、もっと危ない領域に引きずりこまれるかもしれません。でも、すごい小説を書きたい、自分が壊れてもいいから文学の深みに触れたい、という気持があるのなら、ある程度の覚悟を固めたうえで、読んでみるのもいいかもしれません。それにしても、こんな暗い小説を、ほとんど満場一致で推薦した選考委員もすごいと思います。

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