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【期間限定連載小説 第15回】百夜・百鬼夜行帖 第二章の弐 薫風(前編) 作・平谷美樹 画・99.COM<九十九神曼荼羅シリーズ>

モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議の数かずを描く小説群「九十九神曼荼羅シリーズ」。そのうち江戸時代を舞台とした怪奇時代小説が、この「百夜・百鬼夜行帖」です。
呉服問屋河内屋の主、為右衛門は巣鴨の寮(別荘)で倒れた。部屋で眠ったままの為右衛門が不思議な言葉を呟く。「いい風だ」。ふと行灯の火が消え、障子越しに現れた影は……第二章の弐「薫風」前編。

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薫風 書影

卒中で倒れた河内屋の主人・為右衛門が閉め切った部屋で呟いた「いい風だ…」という言葉の意味するところは…。

 
 
 
 

第二章の弐 薫風(前編)1

薫風_01

 江戸っ子たちが桜が咲くのはいつ頃かと、花見の日を指折り数えている春のことである。
 上野新黒門町の薬種やくしゅ屋倉田屋の手代てだい、左吉は主人の言いつけで湯島一丁目(現 外神田)の裏店、通称〈おばけ長屋〉の、木戸を潜った。
 年は二十三歳。縞の着物をきりっと着こんで見てくれはいいが、お調子者であるので店の仕事はあまり任されず、主人徳兵衛の使い走りのようなことばかりさせられていた。
 左吉はそれを不満に感じてはいない。堅苦しいおたなにずっと座りっぱなしでいるよりも、外に出て寄り道をしたり、こっそり昼酒をひっかけたりできるからである。
 それに、時々、面白い用事を言いつかる。
 おばけ長屋に住む修法師ずほうし百夜ももよを訪ねる用事である。
 修法師とは祈祷師きとうしのことである。
 百夜は津軽の宇曾利山うそりやまで修行したイタコであった。
 二年前に倉田屋で怪異があり、百夜に祈祷を依頼した。その使い走りをしたのが左吉であり、それ以来のつき合いであった。
 倉田屋徳兵衛はその件で百夜の修法師としての腕前に感嘆し、以後、知り合いの大店で何か怪異があると百夜の祈祷を薦めるのであった。
「百夜さん。ご在宅でござんすか?」
 左吉は腰障子を叩く。
「居留守は使わぬ」
 偉そうな侍言葉であったが、声は若い女のものである。
 左吉は「へっ」と笑いながら障子を開けた。
 質素な部屋であった。四畳半余りの板敷きに畳はない。むしろが二重に敷かれているだけである。
 壁際に柳行李やなぎごうりが一つ。同じくらいの大きさの風呂敷包みが一つ。中央に部屋にそぐわないけやき造りの長火鉢があって、鉄瓶が湯気を上げていた。
 百夜は長火鉢のそばに座っていた。
 少女である。
 きりっとした太い眉で目鼻立ちがはっきりとした十七、八歳ほどの娘である。まぶたを閉じたままの目を左吉に向けている。百夜は盲目であった。
「今日は、頼み事があってまかりこしやした」
「お前が来るときはいつも頼み事だ。回りくどい言い方をせず、用件を申せ」
 百夜の言葉に、左吉は苦笑した。
「いつまでお侍の亡魂を中に住まわせておくんですか? どこかの大店の娘さんでも住まわせれば、ちゃんとした言葉遣いができましょうに」
 百夜は津軽の生まれであり、津軽言葉では江戸の人々に話が通じないであろうと、自らの体の中に侍の霊を取り込み、その言葉を使って会話をしているのであった。
「江戸の女はチャラチャラとして気色が悪い」
「まぁ、おれはその言葉遣い、嫌いじゃござんせんがね」
 左吉はにやけた顔をする。
「それで、用件はなんだ?」
「そうそう。それでござんすよ」
 左吉は板敷きに上がり込み、長火鉢を挟んで百夜に向き合う。
 百夜は眉をひそめ「近い」と言う。

薫風_02

 百夜は盲目であったが、くだんの侍の“目”を通して外界を見ている。彼女は『生身の人の見る世界と、亡魂が見る世界は違う』と言うが、生活に支障がない程度には“同じように”見えているらしかった。
「こいつぁ、失礼を」左吉は不満そうに口を尖らせた。
「今日は、ウチの旦那が日本橋の呉服問屋河内屋さんから頼まれた件で参りやした」
「何が出る?」
「それが、出るってわけでもござんせんので」
「どういうことだ?」
「風でござんす」
「風?」
「風が吹いて来るんで」
 左吉は子細を語った。

        ※          ※

 河内屋の主人為右衛門は、巣鴨村に先代が建てた寮(別荘)を所有していた。
 先代は花見や紅葉狩りの遊山が好きで、名所飛鳥山の近くに寮を建てたのである。
 為右衛門も先代に負けず劣らず遊山を好み、飛鳥山の麓に立ち並ぶ料理屋に頻繁ひんぱんに出かけては美味い物を食っていたので、ずいぶん肥えていた。
 その為右衛門が寮で倒れたのは昨年の冬のことである。卒中であった。
 なんとか一命は取り留めたが、医者に動かしてはならないと命じられたので、そのまま寮での療養生活が始まった。
 寝たきりとなった為右衛門は回復する様子もなく、しだいに弱っていった。
 しかし三日ほど前、見舞いに来ていた息子清吉の前で、倒れてから一度も口をきかなかった為右衛門が言葉を発した。
「いい風だ」
 そう言ったのである。
 清吉は驚いて父親に話しかけたが、返事は無い。
 辺りを見回すが、まだ肌寒い季節なので、障子は閉め切り、隙間風もない。
 清吉は首を傾げながら日本橋の店に戻った。
 次に為右衛門の言葉を聞いたのは、泊まり込みで身の回りの世話をしている下女の〈ぬゐ〉であった。
「いい風だ」
 床擦れが出来ないようにと姿勢を変えてやっている最中で、ぬゐは驚いて手を離した。
 為右衛門はごろんと仰向けになって、心地よさげな微笑を口元に浮かべた。
 その時も座敷の障子、ふすまは締め切ったままだった。
 下女の報せを聞いて、清吉はすぐに巣鴨の寮に駆けつけた。意識が戻る兆しではないかと思ったからだった。
 なにしろ突然倒れたので、主人の為右衛門だけが知っている商売上の事柄などの引継がまだである。なんとか意識を取り戻してもらわないことには、さまざまな差し障りもある。
 為右衛門に付き添って布団の側に座ってしばらくすると、すぐにそのつぶやきがひび割れた唇から漏れた。
「いい風だ」
 清吉はすぐに父親の耳元に顔を近づけて「お父っつぁん」と呼びかけた。
 その時である。
 さわり。と、風が頬を撫でた。
 清吉は、はっとして身を引き、辺りを見回した。隙間風など入り込まないように、しっかりと障子や襖は閉めている。
 風の源となるようなものなどどこにも無かった。
 清吉は恐る恐る、父親の顔の側に手をかざした。
 手の甲に微風を感じた。
 慌てて手を引っ込める。
 錯覚であったろうか。それとも現実か。
 清吉はもう一度、手を差し出した。
 やはり、風を感じる。
 さわり。
 さわり。
 さわり──。
 吹いては止まり、また吹いては止まり。
 清吉はぞっとした。
 これは、風ではない。
 風ならば、このように規則的に吹いては止まりを繰り返すはずはない。
 よく似た“風”を思い出し、清吉の全身に鳥肌が立った。
 息である。
 吸っては吐く、その繰り返しに似ている。
 目に見えぬ何者かが父の顔の側に己の顔を寄せ、息を吐きかけている。
 恐怖に震え上がり、寝ている父の横から膝で後ずさった時、ふっと行灯あんどんが消えた。
 清吉は悲鳴を上げた。
 月光が青白く室内を照らし、障子が畳の上に格子を描いた。
 微かな明かりがすっと陰った。
 畳の上を見ると、格子模様を隠して大きな影が伸びてくる。
 清吉は慌てて障子を見た。
 丸く大きな影が、障子の上を這い上がる。

薫風_03

 清吉は絶叫した。
 ばたばたと足音が聞こえ、手燭てしょくの明かりが障子の影を打ち消した。
「若旦那! どうしました!」
 下男と下女が障子を開けた。
 庭にいたはずの、あの丸く大きな影を作った何者かはすでに姿を消していた──。
 清吉は倉田屋徳兵衛が腕のいい修法師を知っていると言っていたことを思い出した。
 そして、すぐに駕籠を呼び、倉田屋へ向かったのであった。

        ※          ※

「河内屋の若旦那は、死に神の息吹じゃねぇかって仰るんですよ」左吉は言った。
「為右衛門さんを迎えに来ているんじゃないかってね」
「死に神の息吹が『いい風』なわけがなかろう」
 百夜は鼻に皺を寄せる。
「まぁ、死に神の息吹なんざぁ、あっしは感じたことありやせんが、思うに、生臭いにおいがしそうでござんすね」
「ただ冷たいばかりだ」
 百夜はぼそりと言う。
「へ──」
 百夜の言葉に何やら重いものを感じ、左吉は喉元まで出かかった軽口を呑み込んだ。
「巣鴨までどのくらいだ?」
「一里(四キロ)くれぇのもんです。清吉さんは寮で待ってます」
「わたしの都合も聞かずに話を進めていたのか?」
 百夜は舌打ちした。
「いつものことでござんしょう」左吉は言って立ち上がる。
「さあ、参りましょう。足元にお気をつけて」
「お前よりよく見えている」
 百夜は目を閉じたまま風呂敷包みを背負い、三和土たたきに降りて杖を手に取り、草履に足を入れた。

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