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三人の女の亡魂が、百夜を池に引きずり込もうと襲いかかる!?……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第五章の壱 三姉妹 後編【期間限定無料公開 第48回】

モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議の数かずを描く小説群「九十九神曼荼羅シリーズ」。そのうち江戸時代を舞台とした怪奇時代小説が、この「百夜・百鬼夜行帖」です。
芸者、小手毬に別れ話をされ、池の畔で暴れたという川村屋仙太郎の話に、百夜は夕闇迫る中、十二社へ急ぐ。誰が、何が仙太郎を恨んでいるのか、三人の女が現れる時分は近い…第五章の壱「三姉妹」後編。

百夜九 三姉妹

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芸者姿の妖怪が呉服屋のドラ息子・仙太郎を連れ去ろうとする。滝や池で有名な景勝地・十二社の花街を舞台に起きた艶やかで恐ろしい怪異譚。盲目の美少女修法師・百夜が活躍する九十九神曼荼羅シリーズ内時代劇シリーズ「百夜・百鬼夜行帖」第五章の壱は「三姉妹」。

 
 
 
 

第五章の壱 三姉妹(後編)3

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 百夜たちは夕暮れの町を進んだ。
 内藤新宿を通り武家地を抜けて、大久保道の辻を過ぎ淀橋の手前を左に折れると、周囲は田園地帯となった。
 苗を植えたばかりの田に、濃藍色の空と瞬き始めた星が映っていた。
 蛙の声がかまびすしい。
 行き帰りの遊興客たちの提灯が揺れている。
 前方に十二社の灯りが見えた。熊野神社の側に栄えたその歓楽街は、茶屋や料亭が百軒ほど建ち並び、芸妓を三百人余り抱えていた。
 歓楽街の入り口に〈菖蒲屋〉と書いた提灯を持っている男が立っていた。
 吉右衛門はその男を見つけると、小走りに駆け寄った。
「すまなかったね番頭さん。急なお願いで」
「いえいえ。いつもお世話になっておりますから」
 菖蒲屋の番頭は百夜と左吉にも頭を下げると先にたって歩き出した。
「菖蒲屋は、仙太郎が暴れた料亭です。小手毬を呼んでおくよう、頼んであります」
 吉右衛門が言った。

  ※          ※

 菖蒲屋は熊野神社の北側にあった。
 百夜たちは離れに通された。開け放たれた窓から小池とその中島が月光に照らされているのが見えた。
 部屋には黒紋付きを着た芸者が一人待っていた。百夜たちが部屋に入ると、いんぎんに頭を下げる。
「お初にお目にかかります。小手毬でございます」
 年の頃はを少し過ぎたくらいであろうか。きりっとした気の強そうな顔をしている。
 吉右衛門は小さく肯いただけで、小手毬の前に座った。
「三味も太鼓も姿がございませんようで」小手毬は背筋を伸ばして言う。
「どうやら、宴にお呼ばれしたのではございませんようで。仙太郎さまのことでございましょうか?」
「そうだ。仙太郎はたたられている」
 吉右衛門が不機嫌そうな口調で言った。
「祟られて?」
 小手毬は眉根を寄せた。
「お払いをしてもらうにあたって、色々と事情を調べなければならぬということで、お前に来てもらったのだ」
「それでは──」小手毬は百夜と左吉を見る。
ほう様で?」
「百夜と申す」
「その弟子の左吉でござんす」
「左吉さんの方はどこかでお見かけしたような──」小手毬は小首を傾げる。
「ああ。上野新黒門町のやくしゅ屋、倉田屋のだいの左吉さんでございますね」
「え?」左吉は首を傾げる。
「なぜそれを?」
「二年ほど前に一度、倉田屋さんのお座敷を勤めさせていただいたことがございます。その時にお目にかかりました」
「凄ぇ」左吉は目を見開く。
「あっしは姉さんに会ったことさえ忘れてましたぜ」
「あの時から年増でござんすからねぇ」
 小手毬は笑った。
「いや。面目ねぇ」
 左吉は頭を掻いた。
「それで、百夜様。何をお訊きになりたいのでございましょう?」
 小手毬は百夜に顔を向け、真剣な口調で言った。
「仙太郎を助けたいか?」
 百夜は訊いた。
「もちろんでございますとも」
「自分を捨てた男でもか?」
「人ひとりの命がかかっているのでございましょう?」
「その通りだ」
「ならば、あたしでお手伝いできることでございましたら、なんなりと」
「そうか」百夜は肯いた。
「さきほど木村屋で吉右衛門殿と話をして来たのだが、そばに仙太郎がいたので訊かずにおいたことがあった。それを訊こう」
「はい」
「そなたは、吉右衛門殿から『仙太郎と別れてくれ』という手紙を受け取ったであろう?」
「え?」
 左吉は吉右衛門と小手毬を交互に見る。
「はい」小手毬は肯いた。
「しかし、なぜそれを?」
「そなたの体から未だに滲み出している『仙太郎恋し』の気。二年前に一度見ただけの左吉を覚えていたそなたの頭の良さ」
「それだけで?」
「そなたが望んで仙太郎に別れ話をしたのならば、暴れるほどに怒らせることはなかったはずだ。じっくりと話をして、仙太郎に納得させたであろう。だが、仙太郎は怒って暴れた。これは、誰かが性急に『別れろ』と命じたからだ。吉右衛門殿のそなたに対する言動をみれば、その誰かが分かる。これは、吉右衛門殿が二人の間に入って仲を裂いたとみた」
「あたしが木村屋さんから手紙をもらったということはなぜ?」
「そなたは吉右衛門殿に『お初にお目にかかります』と申した。会ったことがないのであれば、手紙で『別れろ』と言われたのだと考えた」
「恐れ入りました。ご明察でございます」
 小手毬は微笑んだ。
「仙太郎は馬鹿息子でございますが、木村屋の跡取りでございますから」
 吉右衛門はぶすっとした顔で言う。
 小手毬は口元に寂しげな笑みを浮かべる。

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「あたしが大人げなかったんでございますよ。本気で仙太郎さんに惚れちまって、後先考えず『逢いたい。逢いたい』って突っ走ってしまったんでございますよ。木村屋さんに言われるまで、どれほどご心配、ご迷惑をおかけしていたかなんて、これっぽっちも考えなかったんでございます」
「よりによって、こんな別嬪な姉さんが、あんなチンケな野郎をねぇ」
 左吉が呆れたように言う。
たで食う虫も好きずきでございますよ」小手毬は言い、はっと吉右衛門を見て、
「失礼を申しました」
 と、付け加えた。
「それで、仙太郎の暴れ具合はどうだった?」
 百夜は訊いた。
「あの夜は、下の小池の畔にもうせんを敷いて、燈台を幾つも立て、菖蒲を眺めながらの宴でございました。あたしが別れ話を切り出すと、弁当箱を池に蹴り込み、燈台を放り投げ、散々に暴れてそのままお帰りになりました」
「弁当箱や燈台を池に放り込んだか」百夜は肯いた。
「その他には?」
「皿や杯、箸までも」
「全部拾い集めたか?」
「浮いている物はなんとか集めましたが、沈んだものは諦めました。菖蒲の生えているあたりは泥が深うございますから足をとられて危のうございますので」
「弁当箱は?」
「菖蒲の向こう側に落ちましたので」
「諦めたか」
「その時はあたしも腹を立てておりましたから──。弁当箱は仙太郎さんが持ってきた物でございましたので」
 小手毬の言葉に、百夜は大きく肯いた。
 しかし、左吉は小首を傾げて、
「弁当箱なんて軽いもんでしょ? 水に浮きますぜ」
「花見弁当であろう?」
 百夜は小手毬に訊く。
「はい」
「ああ──」左吉は得心した様子で言った。
「箱の中にお重やすずの銚子を仕込んだやつですね? あれなら銚子の重みで沈んじまわぁ」
「菖蒲の意匠を施した花見弁当。吉右衛門殿。心当たりはないか?」
「あっ」と、吉右衛門は言った。
「先代が買い求めた、菖蒲の蒔絵の花見弁当がございます」
「お重は三段。菖蒲の図柄に錫の銚子」左吉が言う。
「作られて百年経ってやすね?」
「さて、それほど古い物かどうかは──」
「百年経たない物でも、辺りの気を集めて付喪神になることもままある」百夜は言った。
「どうやらそれが三姉妹の正体のようだな」
「着物の柄はお重の蒔絵。三姉妹の真っ赤な口は、お重の内側の朱塗り。チ~ンってのは、錫の銚子を打ち鳴らす音でござんすね」
 左吉は百夜を見た。
「弁当箱が仙太郎さんに祟っているので?」
 小手毬が訊いた。
「そうだ」
 百夜は答えた。
「では、すぐに拾いに参りましょう」
 小手毬は立ち上がった。
 吉右衛門は番頭を呼んで提灯を持ってきてもらった。吉右衛門、小手毬、左吉は提灯を持ち、百夜は仕込み杖を手に縁側から外に出た。
 離れの裏は急な斜面になっていて、池に降りる石段が作られていた。
 正面に小池、左手に大池が、月影を映している。
 うるさいほどの蛙の声。
 十二社の池は熊野神社の西隣にある。農業用水の溜め池として湧き水を溜めたものが始まりで、大小二つあった。
 大池は南北百二十六間(約二二七メートル)、東西二十六間(約四七メートル)。小池は南北五十間(約九〇メートル)、東西十六間(約二九メートル)。同様に池を中心とした景勝地である井の頭と比べると、池の規模は小さかった。
 熊野神社は池の東側の高台にあった。
 東の高台の社殿を囲む木々が、星空を切り取る影となって聳えている。菖蒲屋の灯りも見えた。
 闇の中に、〈熊野の滝〉〈萩の滝〉とも呼ばれる大滝の音が聞こえている。神田上水の助水堀の水が崖を流れ落ち、十二社の池へ注いでいるのであった。
 大滝のほかに、幾つもの水音が遠く近く聞こえている。熊野神社の高台から、低地の十二社の池周辺に落ちる大小の滝の音である。
「この辺りでございます」
 小手毬は提灯で池の畔の菖蒲の群落を照らした。

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  ※          ※

 仙太郎は自分の部屋の文机で、手燭をそばに置いて黄表紙を読んでいた。

 ち~ん

 金属が鳴る音。
 仙太郎は、はっとして黄表紙をめくる手を止め、耳をそばだてる。

 ちーん

 再び音がした。
 来た──。
 化け物三姉妹が来た。
 仙太郎は顔を歪めた。
 部屋は護符を貼って結界としているので、ここにいるのが一番安全だということは分かっているが、仙太郎は逃げ出したくなった。

 ずっ
 ずっ
 ずっ
 
 何かを引きずる音。
 
 ずっ ずっ ずっ
 ちん ちん ちちちん
 ずっ ずっ ずっ
 ちん ちん ちちちん

 三人が、足を引きずるようにして、こちらへ歩いてくる。
 部屋の前で足音が止まり、障子が微かに動いて細く開く。
 白い指が隙間から突き出され、ゆっくりと障子を開ける。
 にやにや笑いを浮かべた女の顔の右半分が、仙太郎の方を見る。
 がらりと障子が開いて、三人の芸者が室内に飛び込もうとした。
 しかし、その体は目に見えない壁にぶち当たった。三人の姿が明滅した。
 戸惑ったように、三人は見えない壁に触れる。
 それが結界であることを悟り、
「がぁっ!」
 と、真っ赤な口を開けて咆吼した。
 仙太郎は「ひっ!」と、悲鳴を上げた。
 三姉妹の中の一人が、何か気づいたように柱を見る。
 視線の先には護符があった。
 仙太郎を見てにんまりと笑う。
 そして、護符の方に口を向けて、唇を尖らせた。
 唇から細く水が迸った。
 護符が濡れて行く。
 糊が剥がれて、護符がずるっと柱の上を滑る。
 残りの二人も、口を尖らせて水を護符にかけた。
 仙太郎は跳び上がって柱に駆け寄る。
 滑り落ちる護符を手で押さえた。
 すぐそばに三姉妹の顔があった。
 生暖かい水が、顔に、護符を押さえた手にかかった。
「助けてくれ!」
 仙太郎はきつく目を閉じて叫んだ。

  ※          ※

 百夜は池の畔に立ち、不動明王の印を結ぶ。
「ナマク サマンダ バサラダン カン!」
 真言を唱えた。

  ※          ※

 三姉妹が吹き出していた水が止まった。
 獣のような唸り声を上げる。
 仙太郎は怖ろしくて目が開けられなかった。

  ※          ※

 池の畔を一陣の風が吹きすぎた。
 しゅうが漂った。
 吉右衛門、小手毬、左吉が掌で口元を覆う。
 弁当の中で腐った肴の臭いだった。
 菖蒲の群落の中に三人の女が現れた。
 百夜は仕込み杖を構えた。
 中央の女が跳び上がった。
 百夜は仕込みを抜き、頭上からの攻撃に備えた。
 次の瞬間、二人の女が百夜の左右に立っていた。
 百夜の腕を取り、池に引きずり込む。

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 腕の動きを封じられた百夜は仕込みを抜けない。
 頭上から舞い降りた女は、百夜の頭を抱くようにしがみついた。
「百夜さん!」
 左吉は叫んで百夜に駆け寄ろうとする。
「来るな!」
 百夜は叫んだ。
 左右の女はにたにた笑いながら、百夜の体を菖蒲の群落の中に引き込む。池の水は百夜の腰の辺りまであった。一歩進むごとに少しずつ百夜の体は泥の中に沈んで行く。
「百夜さん!」
 左吉の声は悲鳴のようだった。
 小手毬が走り出した。
 水飛沫を上げて池に飛び込むと、菖蒲を掻き分けて前に進む。
「戻れ! 小手毬! わたしは大丈夫だ!」
 胸まで水に沈んだ百夜が叫ぶ。
 小手毬は着物が汚れるのも構わず、池の中を探る。
「戻れ!」
 叫んだ百夜の口に池の水が流れ込む。
「あった!」
 小手毬は池の中から四角いものを取りあげると、泥に足を取られながらも岸へ走った。
 そして、池から拾い上げたものを抱いて、座り込んだ。 
「あたしが悪いんだ。仙太郎さんがお前を池に蹴落としたのは、あたしのせいなんだ。恨むならあたしを恨め。あたしに祟れ!」
 三姉妹の動きが止まった。
 首を廻らせて岸にうずくまる小手毬を見る。
 三姉妹がすっと消えた。
 百夜は舌打ちをして跳び上がる。
 泥と水を振りまきながら、岸に着地した。
 三姉妹は小手毬を囲んでいた。
「ナマク サマンダ──」
 真言を唱えかけた百夜の唇が止まった。
 三姉妹の姿が薄れて、後ろの景色を透かしていた。
 ゆらりと揺れると、三姉妹は細い糸のようになって、小手毬が抱えた弁当箱の中に吸い込まれて行った。 
 箱の中で、ちんっと、錫の銚子が鳴った。
 百夜は吐息をついて小手毬に歩み寄り、その背に手を置いた。
「終わったぞ。そなたに助けられた」
 小手毬はゆっくりと顔を上げて百夜を振り返った。綺麗な顔が泥で汚れていた。
 小手毬はくすっと笑った。
「かわいいお顔が台無しでございますよ」
「それはお互い様だ」
 百夜も笑った。
「百夜さ~ん」
 左吉が泣きべそをかきながら駆け寄ってきた。
 顔を引きつらせた吉右衛門も百夜のそばへ寄り、
「祟りは消えたのでございますか?」
 と、訊いた。
「消えた。小手毬の手柄だ」言って百夜は吉右衛門に向き合う。
「吉右衛門殿。小手毬を仙太郎の嫁に迎えるというのはどうだ? だらしのない仙太郎にはお似合いだと思うのだが」
「それはごめんこうむります」小手毬は言った。
「辛気くさく大店の奥に収まっているなんて、考えただけでおじが走ります。あたしには、三味と踊りがお似合いなんでございますよ」
 吉右衛門はじっと小手毬を見つめ、口を開いた。
「その考えを変えちゃくれまいかね」
 吉右衛門の言葉に、小手毬は「え?」と言った。
「確かに、百夜さんの仰るとおり、小手毬さんならば、仙太郎の手綱を上手く操ってくれそうだ」
 吉右衛門の顔に笑みが浮かんだ。
 小手毬は戸惑うように目を泳がせている。
「そのあたりのことは、じっくりと二人で話せ」百夜は仕込みを持って立ち上がる。
「左吉。帰るぞ」
「へい」
 二人は菖蒲屋への石段に足を踏み出す。
「百夜様」後ろから弁当箱を抱えた小手毬が声を掛けた。
「その格好でお帰りですか?」
 小手毬に言われて、百夜は見えぬ目を自分の体に向ける。
「菖蒲屋にはお風呂がございます。まずは、汚れを流して、あたしの着物にお着替えなさいまし」
「そうさせてもらった方がいいや」左吉は百夜の全身を見ながら言った。
「そのままじゃあ、長屋に着くまでに、カチカチに固まって、泥人形になっちまいますぜ」
「うむ──」百夜は肯いた。
「言葉に甘えさせてもらおう」

  ※          ※

 風呂で汚れを落とした後、百夜は小手毬の着物を着せられた。
 かわいらしい町娘のようになった百夜を見て、左吉は鼻の下を伸ばした。
 菖蒲屋の料理と酒を少々。体を休めた後、泊まっていくようにという菖蒲屋の勧めを固辞して、百夜と左吉は十二社を後にした。

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  ※          ※

 左吉は提灯を持って百夜の前を歩きながら言う。
「百夜さん。今日はどうしちゃったんです?」
「何がだ?」
「なんだか、やけに優しいなと思って」 
「お前の勘違いだ。なんなら、池に引き込まれそうになったのを助けに来なかったことで仕置きをしてやろうか?」
「あっ。やっぱり勘違いでございました」
 左吉は小走りで百夜から離れる。
「今度の付喪神、菖蒲三姉妹って名前でどうします?」
「錫の銚子を忘れているぞ」
「それまで入れると名前が長くなりますよ」
「ぞんざいに扱うと、今夜辺りお前の所へ出てくるぞ。あるいは、これから銚子を持つたびに、チ~ンと音がするかもしれぬな」
「嫌ですよぉ」左吉は顔を歪める。
「それじゃあ、添え物銚子──。ああ、これじゃあさらに怒られそうだ」
 二人が昌平橋のたもとまで来たとき、百夜は思い出してふと川向こうの柳の木に見えぬ目を向ける。
 侘助の男はいない。
「左吉」
 百夜は立ち止まりながら言った。
「へい」
 左吉も立ち止まって振り返る。
「この辺りに侘助を植えた家があるかどうか調べてもらえぬか」
「侘助でございますか?」
「そうだ」
「花の季節じゃござんせんから、侘助やらほかの椿やら見ただけでは分かりやせんぜ」
「家人に訊けばよい」
 百夜の言葉に、左吉は真剣な表情になって訊く。
「何か、大切なことでござんすか?」
「かもしれん」百夜は言って左吉に顔を向ける。
「これから所用があるから、お前はここで帰れ」
 言って、百夜は昌平橋を渡って去っていった。
 左吉は心配げな顔で百夜の後ろ姿を見送ったが、一抹の不安を抱きながら上野新黒門町の店へ戻った。

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著者紹介

●作 平谷美樹(ひらや・よしき)

1960年岩手県生まれ。
大阪芸術大学卒業後、岩手県内の美術教師となる。2000年「エンデュミオン エンデュミオン」で作家デビュー。同年「エリ・エリ」で第1回小松左京賞受賞。「義経になった男」「ユーディットⅩⅢ」「風の王国」「ゴミソの鐵次調伏覚書」など、幅広い作風で著書多数。

 
●画 99.COM(つくもどっとこむ)

京都造形芸術大学キャラクターデザイン学科・故・小野日佐子教授に率られた、在学生および卒業生からなるキャラクターデザイン・イラストレーション制作チーム。総勢99名。各々の個性を生かした2D・3Dイラストからアニメーション集団制作までを行った。

記事一覧
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