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宮口大学に憑いた海の何か…は、大学の実家にも異変をもたらし……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第六章の参 潮の魔縁 後編【期間限定無料公開 第64回】

モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議の数かずを描く小説群「夢幻∞シリーズ」。そのうち江戸時代を舞台とした怪奇小説が「百夜・百鬼夜行帖」。
宮口大学に憑いたものは、実家にある何かが付喪神になったらしいと見当をつけた。百夜たちは渋る大学を伴い、実家へ向かうが、そこにはすでに巨大な霊障がうずまいていた…第六章の参「潮の魔縁(うしおのまえん)」後編。

百夜夢banner潮の魔緑

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博徒の親分・助次郎の賭場に現れた紅柄党の頭目・宮口大学の体から異様な磯の匂いが漂っている。
盲目の美少女修法師・百夜と博徒・清五郎の前に現れた怪異には獣臭がした。

 
 
 
 

第六章の参 潮の魔縁(後編)3

 宮口大学の父、みやぐちこんひでなおは、三千石取りの大身旗本である。屋敷は牛込五軒町にあった。湯島一丁目の百夜の家から十町(約一キロ)ほどである。
 宮口は大きな門の、脇の潜り戸を叩いた。
 すぐに門番が出てきて、驚いた顔をする。
「これは、大学さま──」
 宮口はばつの悪そうな顔をし、言葉が出ない。
「お帰りなさいませ」
 言いながら、門番は百夜と清五郎に目を向けた。
 二人とも、大身旗本の次男が自宅に連れてくる人物として相応しくない。しかも深夜である。だが、門番は何も問わずに、にっこりと笑うと、三人を潜り戸から邸内に招き入れた。
「殿さまは京へお出かけでございます」
 と、門番が耳打ちする。
 宮口はほっとした顔になる。
 もう一人の門番が、門番所から顔を出し、宮口に頭を下げた。
 先の門番が肯くと、母屋へ走っていった。用人に宮口の帰宅を告げに向かったのである。
「帰りは?」
 宮口は訊いた。
「先月からお出かけで、お帰りは来月になるとのこと」
「母上と兄上は?」
「皆さま、もうお休みの刻限でございますよ」
「そうか……。そうだな」
 宮口が肯いたところに、用人の森田彦右衛門が提灯を持って走ってきた。気の弱そうな中年の侍である。
「大学さま。お帰りなさいませ」
 彦右衛門は腰を折るようにしてお辞儀をした。
「彦右衛門。家に何か変わったことはないか?」
 宮口は訊いた。
 彦右衛門は、弾かれたように顔を上げる。
「噂になっておりますか……」
 と、提灯に照らされた顔が、見る見る顔が青ざめてゆく。
 百夜が前に出て訊く。
「何があった?」
 彦右衛門は百夜の風体を見て少し眉をひそめる。宮口が連れてくる客には、紅柄党の傾者のほかに、町人、遊び人も多かったが、ゆいをつけた少女は初めてだったからである。
「あの、こちらさまは?」
 彦右衛門は宮口を見た。
「話は中に入ってからだ」
 言って宮口は玄関へ歩いた。
 百夜と宮口、清五郎は提灯をしよくに持ち替えた彦右衛門に先導され、玄関から広間、次の間を通り、小さな中庭を横に見て、書院に入った。
 彦右衛門は燈台の蝋燭に手燭の火を移す。
 百夜は宮口と並んで上座に座った。彦右衛門は、それを咎めもせず向き合って下座に座った。
 清五郎は遠慮して部屋の隅に正座する。
「この娘は修法師の百夜という」
 宮口は言った。
「修法師──。やはり物の怪のことが噂になっていて、それをお耳になさり、修法師をお連れしたのでございますか?」
「違う。そこの清五郎がおれの体から磯のにおいがすると申したことが発端で、こういうことになった」
「大学さまのお体から磯のにおいが──」
 彦右衛門は絶句する。 
「それで、何があった?」
 宮口は訊いた。
「はい──。殿さまが先月京へお出かけになったことはご存じでしょうか?」
「門番に聞いた」
「その直後からでございます。お屋敷の中に、磯のにおいが──」
 彦右衛門の言葉を聞き、宮口は百夜を見た。
 清五郎も驚いた顔で百夜を見る。
 百夜は小さく肯いた。
「それで?」
 と、百夜は促す。
「はい。料理の間の魚でもにおっているのかと思いましたが、一番強くにおいを感じるのは、殿さまの寝所と次の間辺りでございました」
「においだけか?」
「いえ」彦右衛門は眉をひそめる。
「奇妙な物が浮いていたのでございます──」
 主宮口右近が旅に出た日の夕刻、彦右衛門は主の部屋に向かった。
 何か主に頼まれていたことがあったのだが、どうにもそれが思い出せなかった。主の部屋に行けば思い出せるだろうと考えたのであった。
 次の間のふすまを開けた時、彦右衛門は、たそがれ色の部屋の中に浮く影を見た。
 畳の上から三尺(約九十センチ)ばかり上に、真っ黒い棒のような物が浮かんでいたのである。〝影〟と思ったのは、滲んだように輪郭がぼやけていたからであった。
 棒の長さは二尺ほどか。左右に玉のような物がついていて、それが交互に大きくなったり小さくなったりしている。その動きに合わせて、棒も長くなったり短くなったりした──。
「驚いて声も出せずにいると、その棒はすっと消えてしまいました」
「伸び縮みする棒か──」
 百夜は呟いた。
「まだまだございます──」
 十日ほど後の夕刻。
 忘れてしまった用事はまだ思い出せなかった。忘れたままでいれば、主が帰ってきてからひどく怒られるに決まっている。
 あれ以来、一度も主の部屋には行っていなかった。ときがたつと共に、自分が見たのは何かの見間違いだったと思えるようになってきたので、思い切って主の部屋へ行ってみようと思った。
 襖を開けて座敷に入った彦右衛門は、畳の上に異様な物が転がっているのに気づいた。
 差し渡し二尺ほどの巨大な黒い幼虫が丸まっている──。
 彦右衛門にはそう見えた。
 普通の幼虫のようにふっくらとした体ではない。全体が平べったく、グルグルと渦を描くように丸まっているのだ。
 海の虫に似たようなものがいると、聞いたことがあったような気がした。
 それは、部屋の中に漂っている磯のにおいからの連想だったかもしれない。
 幼虫はぶるぶると震えるように動いていた。渦が伸び縮みして、畳の上を少しずつ彦右衛門のほうへ這って来る。
 彦右衛門は慌てて障子を閉めてその場を逃げた──。
「今度は虫か」百夜は言う。
「そういう怪異に出会ったのは貴殿だけか?」
「いえ。もっと恐ろしい思いをした者もございます」彦右衛門は顔色をさらに青ざめさせた。
「腰元が、殿さまのお部屋の掃除に入ろうとした時でございます──」
 腰元はいつも通りに襖を開けた。
 寝所の中は無人である。庭からの光で畳の上に障子の格子模様が映し出されていた。
 腰元は、何かの気配が寝所の中に膨れあがるのを感じた。
 はっとして室内を見回すが、やはり誰もいない。
 身の危険を感じた腰元は、襖を閉めようとした。
 その時。凄まじい水飛沫が部屋から噴き出した。
 腰元はその圧力に吹き飛ばされ、次の間の畳の上に叩きつけられ、そのまま気を失った。
 意識が途切れる瞬間、腰元は青々とした大海原が目の前に広がっているのを見た──。
「水飛沫が?」
 宮口が言う。
「はい。わたくしどもが駆けつけると、次の間が水浸しでございました。その中に腰元が気を失って倒れておりました。それが大層臭い水でございまして、その後の掃除が大変でございました」
「大層臭いとは、どのようなにおいだった?」
 百夜が訊いた。
「磯のにおいに獣臭さが混じったような」
「なるほど、それから?」
「そのような怪異は初めてでございましたから、旅先の殿さまに御注進をいたしました。殿さまの旅路に海難あり──そういう予兆であれば一大事と思ったのでございます」
「だが、海難もなく、父は無事に京へ着いたのだな?」
「はい。水飛沫の次が、大きな目でございました」
「目か──」宮口は腕組みした。
「どんな目だ?」
「これは、つい三日ほど前のことでございます。殿さまのお部屋辺りは、毎日掃除をしたり、襖を開け放って風通しをよくしたりしているのでございますが、磯臭さ、獣臭さはなかなか消えません。そこで香を焚きしめてはどうかと、くだんの腰元が香炉を持って廊下を歩いていた時でございます──」
 腰元は、ふっと日が陰ったように感じた。
 右横は次の間。庭の側の襖も障子も開いているはずなのだが、まるで、突然壁でも現れたかのように日差しが遮られたのである。
 不審に思って、腰元は右を見た。
 真っ黒な壁があった。
 強い獣臭と磯のにおいがした。
 驚きに声もなく、腰元はその場に立ちつくした。
 黒い壁はぬめぬめと光っていた。中央に不規則な形の皺がある。
 その皺が動いた。
 まん丸い目が現れた。
 一抱えほどもありそうな瞳が、じろりと腰元を見た──。
「そこでまた、気を失ったのでございます」
 彦右衛門は大きく溜息をついた。
「百夜、正体が分かったな」
 宮口がにやりと笑って言った。
 百夜は肯く。
「磯のにおい。獣のにおい。激しい水飛沫。黒い壁に丸い目──」
 百夜の言葉に、清五郎ははっとした顔をした。
「鯨でございますか?」
「そうだ」
 百夜と宮口が同時に言った。
「なるほど」感心したように彦右衛門は言った。
「鯨でございますか。鯨の噴く潮は獣臭いと聞いたことがございます」
「しかし」清五郎が首を傾げる。
「なぜ、このお屋敷に鯨の化け物が出るのでございますか?」
「一つ、心当たりがある」
 言って宮口は立ち上がり、畳敷きの廊下へ出た。
 彦右衛門が慌てて手燭を持って先に立つ。
「殿さまのお部屋へお行きになられるので?」
「次の間だ」
 言って宮口は歩く。百夜と清五郎がその後に続いた。
 廊下を進むにつれて、磯のにおいがし始めた。それに獣臭が混じる。
 宮口は次の間の前に立つと、がらりと襖を開けた。
 むっとする臭気が籠もっていた。
 彦右衛門は羽織の袖で鼻と口を押さえ、座敷に入り燈台に灯をともした。
 しよいん造りの部屋で、櫓のない真鍮の和時計を置いたとこと、書物や硯箱を置いた違い棚があった。部屋の隅にはでんで装飾された文机があった。
 宮口は違い棚の下の戸を開けて、木箱を取りだした。
 蓋を開けて中から布にくるまれた細長い物を出す。
「タナゴ竿でござんすね」清五郎は、言って小さく笑う。
「タナゴ竿では鯨は釣れやせんぜ」
 宮口は畳に座り込んで布の包みを開く。
「十本繋ぎの六尺竿だ。確かに鯨は釣れぬが──」
 宮口は穂先を取りだして清五郎に渡す。
 清五郎は黒く細い穂先を手にとって、ゆっくりとたわめたり伸ばしたりしてみた。
「これは、竹ではござんせんね?」
「鯨の髭だ」
「鯨の髭──」
「これは、タナゴの脈釣り竿。浮きを使わず手元に来るアタリで魚を釣るための道具だ。大きめのマタナゴなどを流れの中で釣る。その穂先には鯨の髭が使われるのだ」
 鯨の髭は現在でも海釣り用の和竿の穂先などに用いられている。張りがあって繊細な魚のアタリにも敏感なセミクジラの髭が使われる。
「ああ、なるほど。するってぇと、この竿の穂先が怪異の元凶ってわけでござんすか」
 清五郎は穂先を宮口に返した。
「どうだ、百夜」
 宮口は自慢げに言うと、穂先を百夜に渡した。
 百夜は穂先を手に取ると、小首を傾げるようにして、その中に潜む気配に意識を集中した。
「父はその竿を求めてから、一度も使っておるまい。使いもせぬ道具を道楽で集めているのだ。道具は、使ってこそのものだ。その穂先は使われぬことを嘆き、付喪神となって座敷に現れた──。どうだ、このきようじやく(推理)は?」
 宮口は言って百夜の応えを待つ。
 百夜はしばらく黙っていたが、
「違うな」
 と、言って穂先を宮口に返した。
「どう違うというのだ!」
 宮口は怒ったように言った。
「この道具は、使われるのを心待ちにしているのは確かだが、使われぬことを嘆いてはいない。だいいち新しすぎる。作られてから十年も経ってはいまい」
 百夜は彦右衛門を見た。
 彦右衛門は肯いた。
「確かに、五年ほど前に殿さまが本所の竿師に作らせた物でございます」
「ならば、別の竿もあるぞ」
 宮口はムキになって、違い棚の下から次々と木箱を取りだした。
 百夜はその中の一つに手を伸ばした。
 黒漆の小さな箱である。蓋には、木場の筏の上でタナゴを釣る男の絵が金蒔絵で描かれている。
 蓋を開けると、上等な木綿の布袋に収められた三本繋ぎの短い竿が現れた。黒漆に紅い化粧巻きが施された美しい竿である。
「随分短い竿だな。一尺五寸(約四十五センチ)くらいか?」
「六寸節、三本繋ぎだ。桟取り竿と言って、木場の堀割に浮かべた丸太の間に糸を垂らし、小さいタナゴを釣るための竿だ」
 宮口は言った。
「これあたりは、遠からず付喪神になるであろうな」
 と、百夜は言った。
 彦右衛門の表情が凍った。
「怖いか?」
 宮口はにやりと笑った。
「さ、左様なことはございませぬ」
 彦右衛門はぶるぶると首を振った。
「彦右衛門が怖がっておるから、その竿、付喪神になる前に、お前が持って帰れ」
 宮口は百夜に言う。
「とんでもございませぬ!」と、彦右衛門が慌てて言う。
「それは殿さまの大切なお竿でございます。無断で人に与えるなど、もってのほか!」
「一つや二つ、足りなくなっても気がつかぬさ。今まで幾つか持ち出して金に換えた」
「大学さま! まことでございますか!」
 彦右衛門は慌てたように言った。
「父に知られれば、お前の管理不行き届きということで、叱られような」
「ううむ……」
 彦右衛門は唸って俯く。
「竿などもらっても、わたしは使わぬ」百夜は言った。
「だいいちタナゴなど釣っても腹の足しにはなるまい」
「タナゴは釣って食う魚ではない」
「食わぬのに釣るのか?」
 百夜は眉根を寄せる。
「釣ったら逃がす。釣り味を楽しむための釣りだ」
「遊びのために魚の口に鉤を刺して引きずり回すか? それが楽しいのか?」
「おれにも分からぬ」宮口は笑った。
「やってみなければ分からぬことなのだろうな──。その竿、初穂料の代わりだ。おれは今、持ち合わせがない。彦右衛門はおれに小遣いをくれる気はなさそうだ。だからそれを持っていって売れ。
「景気の悪い話だな」
 百夜は言って漆の箱を膝の前に置いた。
「そうでもないぞ。十両やそこらにはなるだろう」
「そいつぁ豪勢だ」
 と、清五郎が思わず言った。
 彦右衛門は苦虫を噛みつぶしたような顔になっていた。
「しかし──」宮口は顎を撫でる。
「竿が怪異の元ではないとすると、何が怪異を起こしている?」
「さて──」
 百夜は立ち上がって、隣の寝所の襖を開ける。次の間の灯りが差し込んだが、室内は真っ暗である。
 ここにも悪臭が籠もっていた。
 だが──。
 次の間とは明らかに違った。
 澱んだ空気の重さが明らかに軽い。
 寝所には怪異の大元は潜んでいない。
 百夜は背後に強い気配を感じ、振り返った。
 閉じた目蓋の奥に、畳の上でうごめく渦巻き状の〝黒い虫〟が見えた。
「百夜さん!」
 清五郎が叫んだ。 
 百夜は寝所に飛び込み、襖の陰に身を隠す。
 同時に、次の間の中央、何もない空間から凄まじい水飛沫が噴き出した。
 鼻の曲がりそうな臭気が辺りに満ちた。
 宮口と彦右衛門は激しく咳き込みながら、庭に面した障子と雨戸を開け放った。
「ナマク サマンダ バサラダン カン!」
 百夜は不動明王真言を唱えた。
 一瞬にして臭気が消えた。
 寝所の床を濡らした水も消えていた。
 次の間の畳の上にいたはずの〝黒い虫〟も消えていた。
「何があった?」
 宮口が驚きの表情で百夜を見た。
「付喪神を金縛りにした。しばらくは動けぬ」
「正体が分かったのか?」
「分かった」
「何が怪異を起こしていたのです?」
 彦右衛門が訊いた。
「大学の景迹は、半ば当たっていた。この部屋の中には、竿以外に鯨の髭を使った物がある」
 百夜の答えに、清五郎が「あっ」と言った。
「両側に玉のついた、伸び縮みする棒。渦巻きの平べったい黒い虫──。時計でござんすね?」
「時計?」
 と、宮口は床に置いた和時計を見た。
 錘が上下することによって歯車を動かす櫓形の時計ではなく、四角い真鍮の箱形である。
 歯車の回転を一定に保つための天符と呼ばれる、左右に分銅のついた横棒が一本だけついた、いつちようてんしきと呼ばれる時計であった。
「よく気づいたな」百夜は清五郎に言った。
「彦右衛門どのが見た黒い影は、おそらく貴殿が主から頼まれた事を現している」
「あっ!」
 彦右衛門は自分の口を押さえた。
「棒と玉は、すなわち天符。伸び縮みするのは、天符が回っては戻る連続を正面で見た様子だ。天符が二つある二挺天符の時計ならば、そのままでもよいが、一挺天符の時計は、明け六ツと暮れ六ツに分銅の位置を動かさなければならない。貴殿が主から頼まれたことの一つ目はそれであろう?」
 百夜は訊いた。
 西洋の時計には必要のない操作であるが、当時の一日の時間は、日の出から日没を六等分、日没から日の出を六等分する不定時法によって刻まれている。朝夕の針の進みを調節しなければならなかった。二挺天符は、分銅をあらかじめ昼用と夜用に調節した二本の天符を自動的に切り替えることによって調節できたが、一挺天符の時計はそれを人が分銅を動かすことによって調節した。
「はい……」
 彦右衛門は肯いた。
「頼まれた仕事はもう一つございやすね?」
 清五郎が訊く。
「はい……」
 彦右衛門は項垂れる。
「もう一つは、ぜんまいを巻く仕事か」
 宮口が言った。
「その通り」百夜は肯く。
「この時計は錘が上下する櫓がない。ということは、中に組み込まれた発条によって動いている。近頃は鋼の発条もあるが、現れた怪異から考えれば、昔ながらの鯨の髭の発条を使っている」
「その通りでございます──」彦右衛門が言った。
「殿さまのお知り合いで、時計やからくりを大層お好きな方がしまして、わざわざ古風な一挺天符に鯨髭の発条を使った時計を作り、殿さまにお贈りになったのでございます。しかし──。なぜ時計のことに詳しいのでございますか?」
 彦右衛門の問いに、百夜は微笑みながら答えた。
「辺りに漂っておる目に見えぬモノたちが、色々と教えてくれる」
「目に見えぬモノたち……」
 彦右衛門は震えた。
「しかし、百夜。屋敷で起こった怪異や、おれの体から漂った磯のにおいは、彦右衛門が父の命じた仕事を忘れていることを、この時計の鯨の発条が知らせてくれたのか?」
 宮口は首を傾げた。
「いや」と、百夜は言う。
「時計を動かすという仕事を与えられているうちは、鯨の発条は道具の部品にすぎなかった。しかし、巻き上げられた力をすべて出し切った時、鯨の髭は、己の出自を思い出したのだ」
「海へ帰りてぇ──」清五郎はぼそっと呟く。
「と、思ったんでござんすね?」
「そうだ」
 百夜は肯いた。
「ならば、発条を巻き上げることを忘れなければ、怪異は起こらないのか?」
「そうだ。今まで怪異が起こらなかったのならば、おそらくお主の父上がこまめに発条を巻き上げていたのであろうよ」
 百夜の言葉に、宮口はふっと笑った。
「几帳面すぎて、側にいれば息苦しくなるような男だ」
「すると、怪異は拙者のせいで起こったということでございますな」
 彦右衛門はしょげかえって肩を落とした。
「そういうことだな」
 百夜は言った。
「最近は、すっかりもうろくいたしまして。物忘れが多くなってまいりました……」
とめちよう(メモ帳)でも持ち歩いて、忘れぬようにするのだな。不動金縛りの術が効いているうちに発条を巻き上げておくことだ。怪異の原因については、大学が口を閉じているかぎり、誰にも知れることはない」
「左様でございますか」
 彦右衛門は宮口を見た。
「おれは滅多にこの屋敷には近づかぬから、心配には及ばぬ」
 宮口は苦笑しながら言った。
「それでは、これはもらって行くぞ」
 百夜は桟取り竿の箱を手に取ると、立ち上がった。

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