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吉原の太夫、芙蓉の布団に這い寄った若い遊女は、つと薬指に噛みつき……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第七章の弐 玉菊灯籠の頃 前編【期間限定無料公開 第73回】

モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議の数かずを描く小説群「夢幻∞シリーズ」。そのうち江戸時代を舞台とした怪奇小説が「百夜・百鬼夜行帖」。
絞られた行灯の薄闇、吉原の太夫、芙蓉の布団に這い寄る、桃色の襦袢姿の若い遊女。つと、芙蓉の薬指に噛みつき、そのまま後ずさって消えた。死んだ遊女の亡魂か…第七章の弐「玉菊灯籠の頃」前編。

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吉原の引手茶屋の軒先に色とりどり灯籠が掲げられる旧暦七月に、若い遊女の亡魂が花魁や禿に悪さをする。盲目の美少女修法師・百夜と同郷の花魁・七瀧が協力してこの怪異の正体を探ってみると……。

 
 
 
 

第七章の弐 玉菊灯籠の頃(前編)1

 七月一日。旧暦であるから秋の始まりであるが、蝉の声がかまびすしい。
 吉原堺町の遊廓末広屋の中庭である。
 禿かむろ篠子すずのこは、妓楼の縁の下をじっと見つめていた。
 やりばばに用事を言いつかり出かけた帰りに中庭を横切ろうとした。
 遣手婆とは、遊女たちの元締めのような役割の女で、遊女や禿の躾、客の割り振り、遊女たちの見張りなどが仕事であった。
 小さな池の側を通り抜けようとしたとき、対岸の建物の縁の下に何かがいるのを視野の隅でとらえたのだった。猫でも潜んでいるのではないかと、歩み寄りしゃがみ込んだのである。
 ひんやりとした風が微かに流れ出してくる。
 アリ地獄の巣穴がたくさん開いている乾いた土。ほぼ中天にさしかかった陽の光は、縁の下に暗がりを作っていた。
「なんでそんなところにいるんだい?」
 篠子は暗がりに潜むモノに声をかけた。
 返事はない。
 篠子が見ているのは、薄暗い縁の下に這いつくばる若い遊女の姿だった。
 ぼんやりと白い顔と桃色の襦袢が浮かび上がっている。
 遊女はにっこりと笑みを浮かべた。
 しかし、気味の悪い真っ黒い目は笑っていない。
 篠子は、末広屋では見たこともない遊女だったので、今日入ったばかりなのだろうと思った。
 篠子はまだ八歳だが、遊女や楼主、遣手婆たちの話をいつも聞いているから耳年増であった。
 この遊女はきっと、客を取るのが嫌で縁の下に逃げ込んだのだと判断した。
「いつまでもこんなところに隠れていても駄目だ。見つかれば折檻される。一度見世に入れば、どうせ年季明けまで出られやしない。諦めることが肝心だ。諦めればいずれ慣れる。さぁ、今のうちに出てこい。腹をこわしていたので厠へ入っていたとでも言い訳をすれば、口裏を合わせてやってもいい」
 篠子は手を差し伸べた。
 しかし、遊女はにこにこと笑っているだけで、出てこようとはしない。
 楼内でしゃらん、しゃらんと鈴が鳴った。
「ほれ。忘八ぼうはちが鈴を鳴らしてるよ」
 忘八とは、楼主のことである。仁義礼智仲信孝悌の八徳を忘れた非情の者ということで、忘八と呼ばれたのである。
 忘八は常に楼への出入りを見渡せる内証に陣取っていて、張見世の開始や客からご祝儀をもらったときなど、梁からぶら下がったたくさんの鈴のついた紐を振る。
 今鳴ったのは張見世の始まりを知らせる鈴の音であった。
「早く行かないと叱られる」
 禿が言うと、遊女はずるずると床下から這いだしてきた。
 炎天の下に立った遊女は、影になった顔でじっと禿を見下ろしていた。
 陽は中天から光を降り注いでいるのだから、俯き加減の遊女の顔が影になるのは道理である。だが、禿はどうも普通の影とは違うような気がした。遊女の顔の辺りだけが、黄昏の薄闇の中にある──。そんな感じがしたのである。
「早く、早く」
 禿は遊女の手を取った。氷のように冷たかった。
 禿は立ち止まって、
「ああ、気持ちいい」
 と、遊女の手を自分の頬や額に押しつけた。
 遊女は、瞬きをしない真っ黒な目で篠子を見つめていた。
「ああ、こうしちゃいられないんだった」
 篠子は遊女の手を引っ張って楼内へ押し入れると、
「あたしは用事を言いつかっているからもう行くけど、ちゃんと仕事をするんだよ」
 と言って裏口へ走った。
 遊女はしばらく篠子が出ていった裏口を見ていたが、ゆっくりと向きを変えて楼の奥へ入っていった。

         ※          ※

 九ツ半(午前一時頃)
 末広屋の花魁、芙蓉は尿意を感じて目を覚ました。横では今夜の客である大店の旦那が寝息を立てている。
 芙蓉の部屋は二階である。吉原の遊廓には、二階に男の小便所があった。しかし、女便所は一階である。
 客を起こさないように、芙蓉はそっと身を起こした。

 かさ かさ かさ

 と、畳の上を何か小さいモノが動く音がした。
 鼠だろうか──?
 芙蓉は眉根を寄せた。
 火を小さくした行灯の明かりは音のする辺りまでは届いていない。

 かさかさかさかさかさかさ

 音が芙蓉に近づく。
 芙蓉は暗がりの中を自分に近づく影を見た。
 畳の音は小さいが、影は大きい。
 四つん這いになった人のように見えた。
 薄ぼんやりした明かりの中に、桃色の襦袢を着た若い遊女が現れた。
 瞬く間に芙蓉の布団に這い寄る。
 体を支えた芙蓉の右手にさっと顔を寄せた。
 鋭い痛みが薬指に走る。
「痛っ!」
 芙蓉は手を引っ込めた。
 若い遊女は、四つん這いのまま後ずさり、闇の中に消えた。
 右手の薬指がちくちくと痛む。
 行灯にかざして見ると、細い傷が一文字に指を横断していた。
 芙蓉は座敷を出て、階段の下り口にある遣手婆の部屋へ向かった。
 がらりと障子を開け、眠っていた遣手婆を叩き起こす。
「見知らぬ若い女郎がわっちの指を噛んだ! すぐに探しておくれ!」
 文政期、廓詞くるわことば=ありんす言葉は廃れていて、ほとんど用いられておらず、伝統を大切にする一部の遊廓にだけ残っていた。
 遣手婆は、夜間の行灯の油差しを担当する不寝番ねずのばんや二階の廻し方の若衆を起こし、泊まりの客のついていない遊女たちを調べた。
 だが──。
 芙蓉の指を噛んだ遊女は見つからなかった。
 芙蓉も調べに立ち会ったが、自分に向かって這ってきた女と似た遊女を見つけることはできなかった。

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