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芙蓉の薬指に、一文字の傷を残した女。百年前に死んだ玉菊の亡魂なのか……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第七章の弐 玉菊灯籠の頃 後編【期間限定無料公開 第74回】

モノが魂を持って動き出す!怒り狂う怪物、奇跡を起こす妖精。時を超え、姿を変えて現れる不思議の数かずを描く小説群「夢幻∞シリーズ」。そのうち江戸時代を舞台とした怪奇小説が「百夜・百鬼夜行帖」。
若い遊女の物の怪に、指を噛まれた花魁・芙蓉。なのに、その傷は横一文字についていた。付喪神の仕業か。懇意の花魁・七瀧のもとを訪れた百夜は、芙蓉の座敷へ向かう……第七章の弐「玉菊灯籠の頃」後編。

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吉原の引手茶屋の軒先に色とりどり灯籠が掲げられる旧暦七月に、若い遊女の亡魂が花魁や禿に悪さをする。盲目の美少女修法師・百夜と同郷の花魁・七瀧が協力してこの怪異の正体を探ってみると……。

 
 
 
 

第七章の弐 玉菊灯籠の頃(後編)3

 末広屋は常盤楼のはす向かいであった。
 七瀧が現れると、番頭と楼主が飛び出して来た。
「昨夜のお見舞いでありんす」
 七瀧は言った。
 おんなほう百夜のことは、花桐の件以後、廓内なかの者たちのほとんどが知っていたので、楼主は七瀧の後ろに立つ百夜を見て、事情を察したらしく、すぐに五人を二階の芙蓉の部屋まで導いた。番頭が先触れに走った。
 百夜は二階への階段に人以外の気配を見つけた。昼の光の中で微かな黒い靄のように見えるそれは、一階の奥から階段を上って二階へ向かっている。
 昨夜現れた指を齧るモノが残した気配である。
 二階に上がると、その痕跡は奥の襖を突き抜けて座敷に入り込んでいた。
 楼主はその痕跡を辿るように廊下を進む。もちろん、彼には物の怪の痕跡は見えていない。
 奥の襖の前まで百夜たちを導いた楼主は、
「何ぶん、よろしくお願いいたします」
 と、百夜に囁いて階下へ下りた。
「七瀧でありんす」
 七瀧は襖を開けた。
 芙蓉は禿二人を脇に置いて、煙管で煙草をふかしていた。
「お見舞いとのこと。ありがとうございます」
 芙蓉は煙管の灰を灰吹きに落とし、優雅に頭を下げた。
 黒い痕跡は座敷の中に不規則な渦を作っていた。部屋の中をぐるぐると這い回り、また廊下に出て一階に下りた──、ということか。
 と、百夜は思った。
「あなたが百夜様でございますか」芙蓉は微笑む。
「なんとかわいらしい修法師様」
 普段ならば、からかわれたと感じる言葉を、百夜はなぜか素直に受け入れてはにかんだ笑みを浮かべた。
「百夜という」
 七瀧と馴染んだのは、同郷であったからと百夜は思っていた。だが、この芙蓉という花魁には七瀧と共通の雰囲気があって、それが百夜の心をすぐに解きほぐしてしまったのだった。
 花魁という遊女の最高位にまで上り詰めた女たちがもつ知性と包容力──。百夜はそれに引かれたのかもしれない。
「篠子でございます」
鹿子かのこでございます」
 と、二人の禿が深々と礼をする。
 おなみとめなみも名乗った。
「左吉と申しやす」
 左吉もおずおずと頭を下げた。
「災難でありんした」
 七瀧は芙蓉の前に座って言った。
 百夜は七瀧に並んで腰を下ろし、おなみ、めなみはその後ろに控えた。
 左吉は少し脇にずれて七瀧と芙蓉の顔が見える位置に座り、二人の花魁の姿を交互に眺めながらにやけた笑みを浮かべている。
「わっちも七瀧姉さんに相談しようと思っていたところでございます」
 芙蓉はちらりと百夜を見た。
「ならば、話が早いな」百夜は芙蓉の側へ歩み寄り、片膝をついた。
「まずは、傷を見せてもらおうか」
 百夜が言うと、芙蓉は右手を差し出した。薬指に細く裂いたサラシが巻かれていた。
 百夜はそれを解く。
 美しく細い指の、第一関節と第二関節の真ん中に、一文字の赤い傷があった。
 傷は浅く、すでに血が固まってかさぶたになりかけていた。
「噛み傷ではないな」
「でも、確かに若い遊女に噛まれました」
「玉菊太夫の亡魂という話を聞いたが」
「それは、見世の者が尾鰭をつけたのでございましょう」と、芙蓉は首を振った。
「せいぜい、部屋持。花魁には見えませんでした」
 遊女の格は、下からきりもちしきもちつけまわしちゅうさんで、花魁と呼ばれるのは座敷持以上であった。
「死んだときよりも若い姿で現れる亡魂ってぇのは、ないんですかい?」
 左吉が口を挟んだ。
「ないこともないが──」百夜は答えて、芙蓉の指にサラシを巻いた。
「芙蓉殿。音が聞こえたとき、最初は鼠がいると思ったのだな?」
「あい。小さいモノが畳の上を這い回る音がしていましたので」
「それが、姿を現したら、若い遊女であった」
「左様でございます」
「ならば、若い遊女の正体は、小さいモノだ」
 百夜が言うと、左吉は表情を曇らせた。
「あれ。変な雲行きになって来やしたよ。まさか、付喪神なんて言わないでしょうね?」
「おそらく、その〝まさか〟だな。この部屋には付喪神の気配が残っておる。一階の奥からこの部屋に上がり、ぐるぐると回ってまた一階へ下りて行った」
「百夜様も左吉さんも付喪神に好かれているようでござりんす」
 七瀧は口元を袖で隠しながら笑った。
 おなみとめなみもその真似をした。
 百夜は頬を膨らませる。
「好かれているのは左吉のほうだ」
「あっしだけに押しつけないでおくんなさい」
 と、左吉も不機嫌そうに言う。
「賢い百夜様のことでござりんすから、もう承知のことと思いんすが」七瀧は微笑みを百夜に向けた。
「百夜様も左吉様も付喪神に頼られているのでありんす。人からは物の怪、妖怪と恐れられる付喪神の思いを拾い上げ、ふさわしい弔いをあげてもらえる──。おそらく付喪神の世でも評判なのでありんしょう。だから、百夜様や左吉さんと縁を作ろうと現れる。そうお考えなんし。日本は万物に神宿る国。天照あまてらすも道端の石ころに宿る神も、神は神でありんす」
「公方様も人。女郎も人でありんす」
 と、おなみが言った。
「禿にまで教えられるとは思わなかった」
 百夜は苦笑した。
「それで──」芙蓉が言った。
「その付喪神は今どこに?」
「あっ!」と、篠子が膝を打った。
「わっちが見た、縁の下の女郎。あれが付喪神ならば、あれに化けた品物は今も縁の下に?」
「そうだ」
 百夜は肯いた。
「わっちが探して来ます!」
 篠子は芙蓉を見た。
「わっちも!」
 鹿子も言った。
 二人の禿は、許しを得ようと芙蓉を見つめる。
 芙蓉は困ったような顔をして百夜に顔を向けた。
「たいていの付喪神は昼間寝ている。だが、篠子は昼間に女郎を見ている──。もし、今日も縁の下に女郎がいたらすぐに戻ってくる。もし、縁の下に女郎はおらず、何か物が落ちていたら、それを持ってくるというのではどうだ? 眠っている付喪神はただの器物だ。障りはない」
 百夜の答えに、芙蓉は肯いて二人の禿を見た。
「行っておいで」
「あい!」
 篠子と鹿子は跳び上がるように立って、座敷を出ていった。遣手婆の部屋から、走る二人の禿への叱責が飛んだ。
「今回は何が化けてたんでござんす? 百夜さんにはもう見当がついているのでござんしょう?」
 左吉が訊いた。
「闇を這う小さいモノ。それは女郎に化け、薬指に噛みつき、真一文字の傷痕をつける。それで見当はつくであろう」
 百夜は言った。
「さっぱりで」
 左吉は首を振る。
「たぶん、〝あれ〟ではないかと思いんす」
 七瀧が言った。
「わっちにも見当がつきました」
 芙蓉がにっこりとする。
「左吉には見当がつきんせんか?」
 おなみが訊く。
「悔しいけどな」
 左吉は頭を掻いた。
「左吉の頭は禿なみ。わっちにも見当がつきんせん」
 おなみとめなみは、ころころと笑った。
 左吉は渋い顔をした。
 階段を駆け上がる音がした。
 遣手婆の怒鳴り声。
 足音は廊下を走って、がらりと襖が引き開けられた。
 篠子と鹿子が目を輝かせながら芙蓉の前に座った。
「これがありました」
 篠子が差し出した掌の上には蛤の貝殻が乗っていた。蛤は二枚貝であるが、その片方の貝殻である。
 芙蓉はそれを受け取り、ひっくり返して裏側を見た。
 くすんだ赤色の小さなかたまりがこびりついていた。
「紅でありんす」
 唇や頬、ときに爪を染めるための化粧品である。江戸時代、紅は猪口や小皿、貝殻などに入れて売られていた。
 左吉は芙蓉のそばまで這ってきてその手を覗き込んだ。 
「噛みついたのは貝でござんすかい。なるほど、噛まれれば真一文字の傷ができやすね。紅を引くのは薬指。だから、花魁は薬指を噛まれたんでござんすか」
 左吉の言葉に肯きながら、芙蓉は貝を七瀧に渡した。
「乾いてはおりやんすが、百年も前の紅ではありんせん。とすれば、これは、玉菊太夫の持ち物ではありんせん。おそらく、ここ二年ほど前のあまり上客のつかない遊女の持ち物でありんしょう」
「なんで上客がつかなかった遊女ってところまで分かるんで?」
 左吉が訊いた。
「まず、紅が安物でありんすし、貝に少しだけ墨がついておりんす」
「墨?」
 百夜は貝を受け取ってもう一度よく見た。確かに貝の縁に黒い墨の痕が微かにあった。
「笹紅というものをご存じでありんしょうか。流行はやりの玉虫色の紅でありんす。ひとさしで三十文(約七百円)もいたしんす。だから笹紅を買えない女たちは、唇に墨を塗り、その上から紅を塗り重ねやんす」
「千鳥という部屋持が、二年前に病で亡くなっています」芙蓉が悲痛な表情を浮かべる。
「ろくな弔いもされずに、そのまま南千住のじようかんに」
 浄閑寺は、〈投げ込み寺〉とも呼ばれ、遊女の遺体が運び込まれる寺であった。
「それにしても、なぜこの貝が芙蓉の指に噛みついたんでござりんしょう?」
 七瀧が首を傾げた。
「残った最後の一引きを使い切ってもらえなければ物として成仏できない──。そういう思いが生まれたのだ」
「なぜ、なぜばかりで申し訳ありませんが、なぜでございましょう?」
「捨てられて二年とはいえ、ごく微かな付喪神の種のようなものは籠もっている。その種に玉菊灯籠に集まった多くの遊女の亡魂が力を与えたのだ」
「遊女の亡魂が力を──」
「与えようと思って与えたのではない。それぞれが引き合って、貝殻の付喪神の種が育った。そして、紅を使ってくれと、お前に訴えたのだ。お前を傷つける気持ちはさらさらなかったろうが、力の加減が分からずつい強く挟んでしまったのであろう」
「もっと穏やかに現れてくれたなら、こちらも慌てずにすんだのに」
 昨夜の自分の慌て振りを思い出し、芙蓉は恥ずかしそうに苦笑した。
「亡魂や付喪神には、あの者たちのことわりがある。我ら生者の理とは異なるから、ときに驚かされる」
 百夜は言った。
「それじゃあ仕上げに付喪神の名付けをいたしやしょうか。〈名残の紅〉というのはいかがでござんしょうね」
 左吉は百夜、七瀧、芙蓉の顔を順に見た。
「美しい名でございます」芙蓉はにっこりと笑った。
「左吉さんには名付けの才がございます」
「いゃあ、さすが花魁。褒めのツボを心得てらっしゃる」左吉は嬉しそうに言う。
「百夜さんにその爪の垢を煎じて飲ませてぇもんで」
 百夜はすかさず左吉の頭をぱんっと張った。
「玉菊は太夫でありんしたから、百年経っても供養の灯籠を飾ってもらえやんすが、千鳥は無縁塚の下でありんす。ならば、せめて──」
 七瀧は芙蓉に椿油を求めた。
 芙蓉は鹿子に命じて化粧箪笥から入れ物を持ってくるよう命じた。
 鹿子は小さな染め付けの瓶を持ってきて、七瀧に手渡した。
 七瀧は瓶から一滴、油を貝に落とすと、固まった紅を薬指で溶いた。
 貝の内側に鮮やかな紅色が広がった。
 七瀧は微笑んで腕を伸ばし、芙蓉の唇に紅を引いた。
 紅は指に残った。七瀧はそれを自らの唇に塗った。
 それでもまた、少しの紅が貝殻に残った。
 七瀧は百夜に歩み寄り、最後の紅を薬指につけ、百夜の唇に置いた。
 百夜は体を強張らせて、七瀧のなすがままに任せた。
 化粧をされるのは花桐の件以来であった。あのときは気恥ずかしさだけだったが、今日は唇の上を滑る七瀧の薬指の感触に胸が高鳴るのを感じた。
 百夜の白い頬にぽっと赤みが差した。
 左吉はからかうのも忘れ、紅を引いた百夜の艶やかな唇を見つめた。
「これでもう、〈名残の紅〉の名残も紅も消えやんした」
 七瀧は紅を拭い取られ、綺麗な白になった貝殻を畳の上に置いた。
「よい供養だ」百夜は頬を赤らめたまま芙蓉に顔を向けた。
「これで、もう物の怪は出ない」
 芙蓉は微笑みながら肯いた。
「ほんに、羨ましい」
「何が羨ましい?」
 百夜は訊いた。
「お二人は本当の姉妹のようでございます」
「わっちも姉妹のようでありんしょう?」
 おなみが百夜に這い寄って袖にしがみつく。
「わっちも姉妹でありんす」
 めなみも負けずに七瀧の袖を掴んだ。
「ほんに、ほんに」
 芙蓉はなん度も肯きながら四人を見た。
 篠子と、鹿子も「わっちらも」と言って芙蓉に身を摺り寄せた。
「あっしだけがのけ者ですかい」
 と、左吉が寂しそうに言う。
「お前は先に帰ってよい」百夜は左吉を振り返った。
「わたしはもう少し、千鳥の亡魂と共に、お喋りを楽しんでから帰る」
「え? 千鳥が来ているのでございますか?」
 芙蓉は驚いたように言った。
「そなたと並んで微笑んでおる」
 百夜の言葉に、篠子と鹿子は芙蓉の周囲を見回す。
「そう聞いても、何やら怖くはありません」
 篠子が言う。
 鹿子も「わっちも」と肯いた。
「亡魂や付喪神は怖いモノばかりではござりんせん」
 おなみが偉そうな顔で言った。
「人を守ろうとする亡魂や付喪神もござりんす。子を守りたい、孫を守りたいという思いで現れる〈子守の傘〉という付喪神もござりんす」
 めなみも言った。
「それは、あっしが教えたことじゃねぇか」
 左吉が脇から口を挟んだ。
「お前は先に帰りんせ」
 おなみとめなみが同時に言った。
 百夜と七瀧、芙蓉がくすくすと笑う。
 百夜たちに取りなしてもらえなかった左吉はすごすごと座敷を出た。
 女七人、それからしばらくの間、とりとめのない話をして過ごした。
 誰が奏でるのか、遠くから玉菊太夫が好んだ河東節が聞こえてきた。

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著者紹介

平谷美樹
Yoshiki Hiraya

1960年岩手県生まれ。大阪芸術大学卒業後、岩手県内の美術教師となる。
2000年「エンデュミオン エンデュミオン」で作家デビュー。
同年「エリ・エリ」で第1回小松左京賞受賞。
「義経になった男」「ユーディット」「風の王国」「ゴミソの鐵次調伏覚書」など、幅広い作風で著書多数。

 
本田 淳
Atsushi Honda

1985年東京造形大学油絵科卒業。
(株)日本デザインセンター イラスト部を経て、(株)アイドマ イラスト部入社。
1992年独立。
広告業界に身を置きつつ、2001年より10年間ほど日本南画院展に出品。多数受賞。

記事一覧
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