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【先取りベストセラーランキング】70年代ロックバンドの物語に注目! ブックレビューfromNY<第41回>

NY在住のジャーナリスト・佐藤則男が紹介する、アメリカのベストセラー事情と、注目の一作をピックアップするコラムの41回目。今回は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」の大ヒットなど、70年代のロックンロールへの関心が高まっているなかで登場した小説を紹介します。

サンセット・ストリップ

“Daisy Jones & The Six”は1970年代のロック・ユニット「デイジー・ジョーンズ&ザ・シックス」の誕生から、大ブレイク、そして人気絶頂での突然の解散までの物語だ。と言ってもまず、このロック・ユニットは実在したものではなく全くこの小説上の架空のユニットなのだ。「著者」(この小説の著者テイラー・ジェンキンス・リードではなく架空の「著者」)が、後にデイジーを含め当時のバンドの関係者、家族から証言を得て、その記録を編集したオーラル・ヒストリーの体裁をとっている。そして「著者」を含め証言者はすべて架空の人物にもかかわらず、70年代のロサンゼルスのサンセット・ストリップ[2]を中心に、当時ロックバンドやミュージシャンが集った実在のナイトクラブ、例えば「ザ・ウィスキー」や「ロンドン・フォグ」、そしてミュージシャンやグルーピーのたまり場だった「コンチネンタル・ハイアット・ハウス(通称:Riot(暴動) House)」などに登場人物が出没するので、つい、この物語がフィクションであることを忘れてしまいそうになる。

デイジー・ジョーンズは有名なイギリス人の画家を父親に、フランス人のファッション・モデルを母親に持つ裕福な家に生まれた美しい少女だった。一人娘であるにもかかわらず、両親は自分のことにかまけて、子供にあまり関心を示さなかった。孤独な子供だったデイジーは、14歳のころには、一人で家にいるよりサンセット・ストリップにあるバーやナイトクラブに出入りするようになっていた。ブラジャーをせず、バンダナを頭に巻いたデイジーはクールでずっと年上に見えた。「バーズ」[3]のグルーピーと付き合うようになり、タバコ、ウィスキー、ゴーゴーダンスに明け暮れ、家にほとんど帰らなかったが、両親は気にする様子もなかった。そのころ、生涯の友であり、姉のような存在となったミュージシャンのシモーヌと知り合い、次第にシモーヌのアパートで暮らすようになっていた。中退せずに高校を卒業するという条件で、シモーヌはデイジーを自分の家に住まわせた。デイジーの歌手としての才能を早くから見抜いていたのもシモーヌだった。しかし、そのシモーヌも自分の最初のアルバムが売れず、プロデューサーから見限られた時点で、アパートを維持できなくなった。シモーヌが従兄の家に居候の身となったので、17歳のデイジーは自宅に戻らざるを得なかった。それでも相変わらず一人娘に無関心な両親に失望したデイジーは、ついに家を出た。

美しく魅力的なデイジーは、いろいろなミュージシャンのガールフレンドとなった。彼女の美しさに触発され、ミュージシャンたちは彼女をイメージした詞を書き、歌を作った。そして、デイジーは彼らの「ミューズ」[4]になっているだけでは飽き足らず、次第に自分で作詞、作曲をするようになっていった。マネージャーがついたが、なかなか自分の思う通りの歌を商業ベースに乗せることができず、薬物やアルコールにも頼るようになっていた。デイジーが自分で作詞作曲した歌を歌うのを聞いてレコード会社が注目したのは、むしろデイジーの歌唱力で、ラナー・レコーズ社はデイジーと契約を結んだ。が、自分の作った歌でシンガーソングライターとしてレコードを出したいデイジーと、彼女を歌手としてしか認めないレコード会社との間で悶着は絶えなかった。

ピッツバーグのロックバンド

ピッツバーグに住むビリーとグラハム兄弟は、それぞれが7歳と5歳の時に父親が家出して母親に育てられた。二人は父の残した「シルバートーン」のエレキギターを弾きながら育った。ビリーが15歳の時、母はクリスマスプレゼントとして、「ストラトキャスター」のエレキギターを二人に買ってくれたので、以来グラハムが「ストラト」を使い、「シルバートーン」はビリー専用のギターになった。兄弟はギターを弾きながら、詞を作り作曲をした。ビリーはボブ・ディランにあこがれ、グラハムはロイ・オービソンだった。ビートルズやローリング・ストーンズのようになりたかった二人は、1967年、バンドを作った。ビリー(ボーカル・リズムギター)とグラハム(リードギター)に加え、ドラムのウォーレン、ベースのピート、そしてリズムギターのチャックの5人で構成されたバンドだった。ピートはビリーの学校時代の友達、チャックは少し年上だった。チャックのリズムギターの腕は確かで、ビリーはリズムギターをチャックに任せ、ボーカルに徹することにした。バンド名はビリーとグラハムの名字のデューンをとって「デューン・ブラザーズ」とし、演奏活動を開始した。しかし、ほどなくしてベトナム戦争が始まり、出兵したチャックの戦死が分かると、ピートの末の弟エディがリズムギターでバンドに加わった。

1970年になり、新たにキーボードのカレンがメンバーに加わって6人のバンドになったことで心機一転、バンド名を「ザ・シックス」に変え、本拠地をピッツバーグからロサンゼルスに移した。ハリウッドのナイトクラブ「トゥルバドール」[5]で演奏をしていた時にレコード会社のプロデューサーに認められ、ラナー・レコーズ社と契約を結んだ。

1970年代、ロックの時代

1973年「ザ・シックス」は本格的デビューを果たした。ロス郊外に古い大きな家を借りて、バンドメンバーは共同生活を始めた。リーダーのビリーはガールフレンドのカミラをピッツバーグから呼び寄せて結婚した。1974年に最初のアルバムが発売された後、30都市を回る演奏ツアーが企画された。レコードの売り上げも順調で、ツアーは延長された。長期にわたるツアー中、ビリーはだんだん深酒をするようになっていった。驚かせようと訪ねてきた妊娠中のカミラは、酔ってファンの女性といちゃつくビリーを見て、「出産予定日の12月1日の前日までに正気に戻り、生まれた赤ちゃんに父親らしい姿を見せろ」と言い渡して帰って行った。11月28日、ラナー・レコーズのレコード制作責任者テディがツアー中のビリーを連れ戻しに来た。しかし、アルコールの抜けないビリーはカミラに対峙する勇気を持てず、会わずにそのままアルコール更生施設に入ることを選んだ。60日後、更生施設を出たビリーは晴れて妻のカミラと娘のジュリアに会った。

一方、デイジー・ジョーンズは他人の作った歌を歌うことを拒否していたため、ラナー・レコーズから契約違反で訴えられそうになっていた。「ザ・シックス」のレコード制作責任者テディは、デイジーと「ザ・シックス」を組み合わせたらどうか、とふと思い、ある日、彼女を、「ザ・シックス」の2番目のアルバム「セブン、エイト、ナイン」を録音中のスタジオに連れて行った。ラナー・レコーズのプロデューサーは、今回のアルバムの目玉になる曲「ミツバチの巣」がインパクトに欠けると懸念を示していた。そこで、テディはボーカルのビリーとデイジーをデュエットさせようとした。ビリーは自分の録音の後、同じ歌をデイジーが歌うのを聞き、自分の作った歌を、あまりに違う解釈で歌うデイジーに信じられない思いと怒りを感じた。しかし、二人のミスマッチなデュエットは新鮮なインパクトがあり、アルバム発売後、「ミツバチの巣」はロック評論家からも高い評価を得、ヒットチャートを駆け上がっていった。この「ザ・シックス」の2番目のアルバムも大成功だった。アルバム発売後の演奏ツアーにデイジーも参加、ビリーとデュエットした。反発しあいながらのデュエットだったが、観客には大いにうけた。「ミツバチの巣」はビルボードのヒットチャートの3位にまで昇りつめた。演奏を聞きに来た『ローリング・ストーン』誌[6]の記者は、デイジーと「ザ・シックス」の組み合わせの相乗効果を記事の中で強調した。

そして「ザ・シックス」の3番目のアルバム「オーロラ」は、デイジーが全面的に参加して1977年8月に制作が始まった。今までの「ザ・シックス」は、カリスマ的リーダーのビリーがすべてのイニシアチブをとり、作詞作曲もすべて彼一人で行ってきた。ところが、ずっと年下にもかかわらず、デイジーはビリーの言うなりになる性格ではなかった。作詞作曲にも積極的に取り組み、アルバムの制作は、今までのリーダー主導型から、バンドの全員参加型に変わっていった。ビリーとデイジーの対立だけでなく、このころから一枚岩だったバンド内の人間関係にも小さなほころびや変化の兆しが見え始めてきた。以前、デイジーと「ザ・シックス」の相乗効果の記事を書いた『ローリング・ストーン』誌の記者は、新しいアルバムの発売に先立ち、再び取材に来た。そして、ビリーとデイジーの確執に気づき、「デイジー・ジョーンズ&ザ・シックス:ビリーとデイジーはロック界の最大の敵同士?」という記事を書いた。そしてこの衝撃的な記事が、1978年6月に発売されたアルバム「オーロラ」を単なるヒット以上の社会現象にまでしてしまった。人々はレコードを買うだけでなく、生のデイジーとビリーを見るためにコンサートに押し寄せた。全米各地で行われたコンサート・ツアーはどこも大盛況だった。

1979年7月12日、シカゴのスタジアムでのコンサートにも大勢の観客が押し寄せた。そして翌朝、デイジーは「二度と戻らない」という書き置きを残して一人シカゴを後にした。
「デイジー・ジョーンズ&ザ・シックス」は解散した。

 ●何故、デイジーは突然逃げるようにシカゴを去ったのか?
 ●そして、デイジーがいなくなった後、なぜバンドは解散せざるを得なかったのか?

「著者」は、シカゴでの最後のコンサートの直後のデイジーや元バンドメンバー、ビリーの妻のカミラ、デイジーの友人のシモーヌの証言、そして彼らが「デイジー・ジョーンズ&ザ・シックス」解散後、どのような生き方をしてきたか、現在何をしているか、の証言を記録している。そして、ここにきて読者はこのオーラル・ヒストリーの「著者」とは、いったい誰なのか気づくだろう。

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この小説の「本当の」著者であるテイラー・ジェンキンス・リードは、処女小説“Forever, Interrupted”を2013年に出版して以来、この最新作を含めて小説を7作品出版している。リードは、もとはテレビの制作分野で主に放送作家をしていた。“Daisy Jones & The Six”は既に同名のテレビドラマ・ミニシリーズとしてWebテレビでの放映が予定されている。アルバム「オーロラ」に収められた主な曲の詞がこの小説の最後に収められている。これに曲をつければ、すぐにでもテレビドラマで使える。初めからテレビドラマ化を視野に入れて書かれた小説と言えよう。

70年代の熱狂的なロックの世界の中心にいた人たちの生の声を記録したという体裁のこの小説は、特にその時代に青春を過ごした団塊世代の人たちにとって、興味の尽きない一冊となるだろう。同時に、その時代を知らない若い読者にとっても、かつて若者たちが熱狂的にのめり込んでいったロックの世界を垣間見ることになり、新鮮な驚きを感じる一冊となるだろう。

[2]ハリウッドとビバリーヒルズを結ぶサンセット大通りの一角に位置し、「サンセット・ストリップ」と呼ばれるエリア。ナイトクラブに数多くのミュージシャンが出演したことからロックゆかりの地としても知られるようになり、有名人が数多く住むハリウッドヒルズのふもとにあることから、ハリウッドセレブも集うストリートになっていった。
[3]1960年代から70年代初めに活躍した米国のフォーク・ロック、カントリーロック・バンド。2000年に活動停止。
[4]ギリシャ神話で詩歌・音楽・学問・芸術などあらゆる知的活動を司る女神ムーサ(Musa)の英語名。芸術活動を触発する女神。
[5]1957年創業のウエスト・ハリウッドにあるナイトクラブ。
[6]『ローリング・ストーン』は音楽や政治、大衆文化を扱うアメリカ合衆国の隔週発行の雑誌。1967年に雑誌編集者ヤン・ウェナー、音楽評論家ラルフ・J・グリースン、作家・詩人ジョナサン・コットらによってサンフランシスコで創刊された。1977年にニューヨークに移転。

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

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