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【先取りベストセラーランキング】大変革のマンハッタンを生き抜いた89歳女性の回顧録 ブックレビューfromNY<第44回>

NY在住のジャーナリスト・佐藤則男が紹介する、アメリカのベストセラー事情と、注目の一作をピックアップするコラムの44回目。今回は、第二次世界大戦に米国が参戦する直前の1940年から、耐乏を強いられながらも大変革を遂げたマンハッタンを生き抜いた、ひとりの女性の人生の物語を紹介します。

89歳のビビアン・モリスからアンジェラへの手紙

“City of Girls” は、2010年4月、89歳のビビアン・モリスが自分の人生において唯一愛した男の娘アンジェラに宛てて手紙を書いている、という設定で始まる。アンジェラの、「父にとってあなたは何だったのか?」という問いに答えるため、ビビアンは自分が19歳でマンハッタンに出てきてから今までの人生を手紙の中でアンジェラに語り掛ける。

1940年の夏、19歳のビビアン・モリスはヴァッサー大学[2]の一年生を終わった時点で、成績不振を理由に退学になり、ニューヨーク州北部クリントンの自宅に戻ってきた。自身はヴァッサー大学を優秀な成績で卒業した母親も、鉱山主の父親も、家に戻ってきたビビアンをどう扱ってよいか持て余した。プリンストン大学の優等生である兄のウォルターはビビアンのことを歯牙にもかけなかった。結局ビビアンは、父の妹で、ニューヨークで劇場主をしているペグ(ペギー)に預けられることになった。

ビビアンの父の家も母の家も堅いWASP[3]の家柄で、ペグは家族の中で「異端者」と見られていた。ペグは、第一次世界大戦中はフランスで赤十字の看護師として働いていた。しかし、看護の仕事より傷病兵を慰める歌謡ショーや寸劇などを制作することが得意だった。第一次世界大戦後、ロンドンの劇場で働いていた時、劇場の仕事をしようとしていたアメリカ人のハンサムな軍人ビリー・ビュエルと意気投合して結婚した。ビリーとペグは米国に戻って旅回りの劇団を作り、ビリーが脚本と役者、ペグが制作と舞台監督を受け持った。ビュエル家は大富豪として知られていて、ビリーは制作費の心配をする必要がなく、次々と新しい芝居を制作、公演した。そして1930年、そのうちの一つが大ヒットとなり、ハリウッドで映画化もされた。その映画はシリーズ化され、何本もの続編が制作された。が、そのころからビリーとペグの関係に亀裂が入り始めた。ハリウッドに魅せられたビリーは映画のシナリオ・ライターとしてハリウッドに定住した。一方、ペグはハリウッドには興味がなく、2人で作った旅回りの劇団は解散になり、ペグは稼いだ金をつぎ込んで、ニューヨークのオフ・ブロードウェイの古い劇場「リリー」を買い取った。そして、主に近所に住む人たちのために、手ごろな値段でショーを見せる常設劇場を開設し、劇場ビルの上階を自分の事務所や住居にした。

1940年夏 第二次世界大戦参戦前夜のマンハッタン

電車でグランドセントラル駅に着いたビビアンは、迎えに来ていたペグの秘書のオリーブと落ち合い、タクシーで「リリー」に到着した。ペグの温かい歓迎を受け、ビビアンは、大学や家から追い出された自分を歓迎してくれる場所があるのだと、温かい気持ちになった。この劇場の住居部分の3階の一番良い部屋「ビリー叔父さんの部屋」がビビアンの部屋となった。ビリーはハリウッドに行ったままで、ニューヨークに来てこの部屋を使ったことは一度もないから部屋を取られる心配はない、とオリーブは言った。

ビビアンは「リリー」の関係者たちとすぐに親しくなった。ショーガールやダンサー、俳優、弁護士資格をはく奪された元弁護士の脚本家、ピアニスト兼作曲家など、今まで会ったことのない種類の人たちばかりだった。資金が不足しているこの劇場では、衣装は出演者が各自で用意していることを知ったビビアンは、裁縫の腕を活かして、自称コスチューム・ディレクターとなり、衣装の制作を担当した。ビビアンを可愛がり、数年前に亡くなった父方の祖母のモリスが裁縫の達人で、モリスに裁縫を仕込まれたビビアンはプロ並みの腕を持っていた。

ビビアンは、親しくなったショーガールやダンサーたちの遊びやセックスの話を夢中になって聞いた。4人のショーガールの中でも、一番のスター、セリアと特に親しくなった。はじめは、セリアが「リリー」でのショーがはねた後、マンハッタンに繰り出し、どんな男と会い、どんなことがあったかを翌朝聞くのが楽しみだったビビアンだったが、次第に自分もセリアと同じようなドレスを着て、2人でマンハッタンの夜を、スリルを求めて歩き回るようになっていった。ビビアンはすらりとして背が高く、美しい娘だった。やはり背の高いセリアと並んで歩くと、振り返らない男はいなかった。2人の夜はまず、有名人や映画スターのたまり場だったToots Shor’s、 El Morocco、 Stork Clubなどから始まり、そこで会った男たちとその後どこに行くかは、その日によって違った。そうしてビビアンの楽しく刺激的な1940年の夏は過ぎていった。

スキャンダル

ヨーロッパではすでに第二次世界大戦が始まっていた。米国内では、イギリスやフランスに味方して参戦するか、中立を保つか、意見は真っ二つに割れていた。マンハッタンの夜にのめりこんでいたビビアンとは裏腹に、ナチス・ドイツからヨーロッパを守るためにアメリカは参戦すべきという考えを持つ兄ウォルターは、共和党支持で孤立主義の父親に逆らい、プリンストン大学を中退して海軍に志願、士官候補生としてニューヨークのウェストサイドで訓練を受けていた。

9月、ロンドンがドイツ軍によって爆撃を受けた。イギリスの有名な舞台女優のエドナ・パーカー・ワトソンと夫の映画俳優アーサー・ワトソンはちょうどニューヨーク滞在中で難を逃れたが、自宅は爆撃によって破壊されてしまった。エドナと知り合いだったペグは、ニューヨークで立ち往生しているエドナ夫妻に、しばらく「リリー」に滞在するよう誘った。そして、2人のための芝居を制作することを考えた。イギリスの大女優が出演するというので、今までのような近所の住民を対象にしたお手軽なショーを制作するわけにはいかず、ペグはハリウッドにいるビリーに連絡し、助けを求めた。

ニューヨークにやってきたビリーは、すぐに“City of Girls”というタイトルのコメディの脚本を書き上げ、エドナと一緒に芝居ができるような質の高い出演者を確保するためにオーディションを実施した。そして、11月29日に初日を迎えた。ビリーがマンハッタンの高級バーやクラブで派手に金を使い、エドナ・パーカー・ワトソン主演のコメディを制作していることを吹聴したため、口コミで噂は広まり、切符の売れ行きは上々だった。初日が無事終わると、翌日の新聞は軒並み“City of Girls”に好意的な記事を載せた。劇場は満員となり、クリスマスまでには、ペグとビリーは投資金をすべて回収することができた。一方、ビビアンはもはやセリアと夜の街に繰り出すことはほとんどなくなり、主演男優のアンソニー・ロッチェラにのめり込んでいた。

とりわけ寒い冬が終わった1941年3月末、エドナに、寄付金集めのイベントで“City of Girls”の歌をアンソニー・ロッチェラと一緒に歌ってほしいという依頼がきた。米国が第二次世界大戦に参戦するよう促すためのロビー活動のためのイベントだった。米国が大戦に参加することに大賛成のエドナは二つ返事で出演を決めた。ところが、アンソニーと2人でイベントに出演することに嫉妬した夫のアーサーと喧嘩になり、ビビアンはそれに巻き込まれていった。エドナとアンソニーがイベントに出かけた後、怒り狂ったアーサーは、腹いせにセリアとビビアンを誘って夜のマンハッタンに繰り出していった。ビビアンにとっては、セリアとドンチャン騒ぎをしていたころとあまり違わない夜だったが、一緒の相手が大女優の夫で、自身もそこそこ売れている二枚目俳優アーサーだったので、早速3人一緒の写真を隠し撮りされ、翌日、ウォルター・ウィンチェル[4]のコラムにゴシップが掲載されてしまった。幸い一般人であるビビアンの顔だけはぼかしてあり、名前も出なかったので、家族に知られることはなかったものの、叔母のペグや叔父のビリーを困惑させ、エドナを傷つけ、アンソニーは怒り、いたたまれなくなったビビアンは、ついに海軍で訓練を受けている兄のウォルターに迎えに来てもらい、クリントンの自宅に逃げ帰ってしまった。

ブルックリン海軍造船所

兄はビビアンを家に連れ帰ると、両親に事情も話さず、すぐにとんぼ返りで海軍に戻った。ビビアンも何も話さず、両親は何も聞かず、そのままビビアンは両親の家で暮らし始めた。何をしたいというわけでもなく、父の会社の受付で働いてみたり、父の会社の将来有望な社員からプロポーズされ婚約したりしたが、会社勤めは中途半端で辞め、婚約者は戦争に志願し、婚約は解消となった。

1942年7月、突然叔母のペグが両親の家を訪ねてきた。米国が参戦し、ブルックリンに巨大な海軍造船所ができた。ペグは海軍からそこで働く従業員のためのエンターテインメント事業の委託を受け、ビビアンにこの仕事を手伝ってもらえないか、打診に来たのだった。ビビアンは次の朝、ペグと一緒にマンハッタンに戻った。「リリー」ではもう“City of Girls”は上演していなかった。ビビアンが去った後、叔父のビリー宛に、ブロードウェイの一流劇場から“City of Girls”をこちらで興行しないかという誘いがあり、ビリーは“City of Girls”とともに「リリー」から姿を消した。そしてエドナ・パーカー・ワトソンと夫のアーサーも一緒に去った。「だから、もう誰に気兼ねもいらないのよ」とペグはビビアンに言った。「リリー」は近所の住民相手の元の劇場に戻ったが、戦争で男たちは戦地に行き、残った女、子供、老人たちは生活するだけで大変で、芝居やショーを見るどころではなかった。海軍からの委託事業は、ペグにとって願ってもないことだった。

そして、終戦までビビアンは、ペグとオリーブとともに、毎朝「リリー」からブルックリンの海軍造船所に通勤し、その中にある「サミー」と呼ばれていたカフェテリアで、従業員が食事中に楽しむショー(プロパガンダ的なものも含め)の制作、興行を行った。ビビアンはもちろん主にコスチューム担当だったが、時には脚本も書き、何でも手伝った。ようやく、ニューヨーカーとして地に足の着いた生活が始まった。自分の銀行口座を開設し、図書館カードを持ち、造船所で友達もできた。中古の自転車を買い、どこにでも一人で出かけるようになった。

性革命、フェミニズム

戦後、海軍造船所の仕事はなくなり、しばらくはペグ、オリーブ、ビビアンの3人は「リリー」の運営を続けていた。しかし、戦後のマンハッタンの変貌は激しく、ついに1950年「リリー」は閉館し、市当局によって建物は取り壊された。「リリー」を含む一帯が再開発され、ポートオーソリティ・バスターミナルが新設されることになったためだった。市から相当額の賠償金を受け取ったペグは、オリーブと一緒に住むためにサットン・プレース[5]に小奇麗なマンションを購入し、2人の同居生活が始まった。ペグは若い時ビリーと結婚したものの、最終的には本当に信頼できるオリーブと同性愛関係になっていた。

一方、「リリー」の閉鎖で住む場所と仕事を同時に失ったビビアンは、なじみの古着店の娘のマージョリーと共同で、ウェディングドレス専門の洋装店を開いた。ありきたりのウェディングドレスではなく、マージョリーが世界中から集めたアンティークのレースや織物などを使い、ビビアンがお客一人一人に合わせたデザインで、一点物のウェディングドレスを作るという店で、そのユニークな発想と戦後の結婚ブームの波に乗り、店は繁盛した。

ビビアンはウェディングドレスを作る仕事をしていながら、自分は結局結婚とは縁がなかった。男とセックスすることは好きだったが、結婚に縛られるよりは自由気ままを好んだ。アーサーとのスキャンダルで懲りたので、結婚している男とは決してセックスをしなかった。そしてビビアンとマージョリーの周りには同じように独立心に富み、仕事をしている女性たちが集まり、しばしばビビアンのアパートで女だけで夜遅くまで語り合った。ビジネス・パートナーのマージョリーが未婚の母になり、生まれた子供ネイサンをビビアンはマージョリーと一緒に育てた。

性革命やフェミニズムが高らかに叫ばれた1960年代が好きだ、とビビアンは言う。ペグとオリーブの関係、シングルマザーのマージョリーなど、「私たちは時代の最先端にいたのよ」とアンジェラに語り掛けている。

19歳の時、若気の至りでスキャンダルを起こし多くの人たちを傷つけたビビアンは、恥じる気持ちを長い間引きずり、なかなか立ち直ることができなかった。しかし戦中、戦後を生き抜くうちに、「女性は生涯のある時点で、いつまでも恥じていることに飽きてしまう。そしてその後は、女性はあるがままの自分でいることに自由になる」と考えるようになっていた。

アンジェラの父フランクとの出会い

ところで、ここまで読み進めた読者は、アンジェラの父とはいったい誰だろうと思い始めているはずだ。それらしき人物はビビアンの回想の中に見当たらない。でももう少しの辛抱だ。

1965年、終戦から20年目の年に、ブルックリンの海軍造船所の閉鎖が決まり、関係者を招待して終戦20周年記念イベントが開催されることなった。そして海軍からペグあてにそのイベントでのショーの制作依頼の手紙が送られてきた。ペグは喜んだが、長年の喫煙で肺気腫を患い、体力的にとてもショーの制作などできそうになく、代わりにビビアンがその仕事を引き受けた。1965年9月18日、イベント会場で、ビビアンは、アンジェラの父親のフランクと出会ったのだった。

そして、この2人の出会いは2人にとって初めての出会いではないことを読者は知らされる。第二次世界大戦の後遺症(PTSD)に苦しむフランクとビビアンは、25年前、束の間の不幸な出会いをしていたのだった。そしてこのイベントで思わぬ再会を果たした因縁の2人は、次第にお互いの心の奥底を分かち合うようになり、不思議なプラトニックな関係が始まった。この2人の関係は、1977年にフランクが死ぬまで続いた。

●いったい25年前、2人はどのような状況で会っていたのだろうか?
●フランクを苦しめたPTSDの原因は何だったのか?
●ビビアンとフランクのプラトニックな関係とは?

手紙の最後で、ビビアンはアンジェラにこう言った。
「あなたのお父さんと私は、抱き合ったことも、キスをしたことも、ましてやセックスをしたこともなかったのよ。でも彼は私が生涯で唯一愛した人だったし、彼も私を愛したのよ」

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作者エリザベス・ギルバートは、1969年7月18日コネティカット州生まれの著作家、随筆家、小説家。ニューヨーク大学卒業後は、コックやバーテンダー、ウェイトレスなどの経験がある。2006年に出版した回想録『食べて、祈って、恋をして』は2010年12月時点で、199週連続でニューヨーク・タイムズのノンフィクション部門のベストセラー・リストに載り、同年、ジュリア・ロバーツ主演で同名の映画になったことでも知られている[6]

[2]Vassar College。ヴァッサー大学は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ポキプシーに本部を置く私立大学。1861年に設置されたリベラル・アーツ・カレッジ。著名女子大学群であるセブンシスターズの1校として設立され、1969年に男女共学化を実施。
[3]WASP(ワスプ)とは、「ホワイト・アングロ-サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestant)」の頭文字をとった略語。アメリカ合衆国における白人エリート支配層の保守派を指す。
[4]1930年代から1950年代にかけての米国の有名なゴシップ・コラムニスト、ジャーナリスト。
[5]マンハッタンのイーストサイド、53丁目から59丁目の間、一番街から東側の住宅エリア。
[6]ウィキペディアhttps://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Gilbert

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

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