本との偶然の出会いをWEB上でも

【先取りベストセラーランキング】愛する夫の顔面に5発の弾丸を撃ち込んだ女性画家のミステリー ブックレビューfromNY<第50回>

NY在住のジャーナリスト・佐藤則男が紹介する、アメリカのベストセラー事情と、注目の一作をピックアップするコラムの50回目。今回は、夫殺害の容疑で逮捕され、事件後、誰とも口を利くことができなくなっていた女性画家と、彼女を治療することに情熱を注ぐ犯罪心理療法士の物語を紹介します。

犯罪心理療法士の独白

“The Silent Patient”は、6年前に夫殺害の容疑で逮捕され、事件後一切誰とも口を利くことができなくなっていた女性画家アリシア・ベレンソンを治療することに情熱を注ぐ犯罪心理療法士セオ・フェイバーの独白で物語が進んでいく。彼は、当初からこの事件や夫を殺害したアリシアに非常に興味を持っていた。そして事件から6年後、この出来事が人々の記憶から薄れつつある頃、アリシアが裁判終了後ずっと収容されていた犯罪精神疾患治療施設で、犯罪心理療法士を募集していることを知ったセオはこれに応募した。

6年前のガブリエル・ベレンソン殺人事件はセンセーショナルだった。今を時めくファッション・フォトグラファーのガブリエルは『ヴォ―グ』誌のための写真撮影を終えて帰宅後、顔面に5発の銃弾を撃ち込まれて殺害された。銃声を聞いた近所の住民の通報で、警察がベレンソン家を訪れた時、居間の椅子に手足を縛られ、顔面に銃弾を受けて死んでいるガブリエルと暖炉のそばで手首から血を流して放心状態の妻アリシア、そして床に落ちているナイフとライフル銃を発見した。直ちに病院に搬送されたアリシアは、大量の血液を失ったが一命はとりとめた。翌日、目を覚ましたアリシアに警察は事情聴取しようとしたが、彼女は一言もしゃべらなかった。退院後、アリシアは裁判まで一種の「自宅軟禁」状態に置かれた。相変わらず誰とも口を利かず、食事も睡眠もほとんど取らなかった。しかし、猛然と絵を描き始めた。彼女は自分の複雑な感情を絵で表そうとしたのだろう、とセオは語っている。

検察はアリシアを殺人罪で起訴した。状況証拠はすべてアリシアが夫を殺したことを示していた。ライフル銃からはアリシアの指紋が検出され、彼女以外の人物が殺人現場にいた形跡はなかった。ただ、動機だけは見当がつかなかった。マスコミにはいろいろな推測が流れた。アリシアは実はDVの犠牲者? セックス・ゲームの果て? 夫に女ができたので嫉妬? 夫の遺産目当て?(アリシア自身が父親からの遺産で金持ちだったのでこれはあり得ない)、などなど……。

アルケスティスの謎

アリシアが事件後描き上げた絵は自画像だったが、絵の左下にはギリシャ語で「アルケスティス」と書かれていた。アルケスティスは夫アドメートス王の身代わりに死んだ王妃で、ヘラクレスが彼女を黄泉の国から救い出し、生き返らせたというギリシャ悲劇に登場するヒロインだ。この自画像と「アルケスティス」が何を意味するのか、セオは非常に興味を持った。アリシアの長年の友人で、彼女の絵の代理権を持つ画廊主ジーン=フェリックス・マーティンは、殺人容疑の裁判が進行中にもかかわらず、この絵を自分の画廊で展示するという賭けに出た。結果は、この絵を見るために画廊の外まで長い行列ができるほどの人が押し寄せ、大盛況だった。

裁判で弁護側は、アリシアが子供の時から精神面で問題があったと主張し、事件当時正常な判断能力がなかったことを理由に、殺人罪にならないと主張する作戦に出た。裁判長は当初、この主張には確たる証拠がないと却下したが、ロンドンのインペリアル・カレッジの犯罪精神学の教授で、犯罪精神疾患治療施設「グローブ」の所長でもあるディオメデス博士の「アリシアが話すことを拒否していること自体が精神的機能不全の証である」という証言を採用し、アリシアは正常な判断能力がなかったと判断した。裁判後、彼女はグローブに送られ、治療を受けることになった。セオはその独白で、明らかに夫ガブリエルの死がトラウマになっているアリシアを助けたい、と述べている。しかし、その当時セオは別の施設で働いていて、アリシアとは実際には接点もなかった。

そして6年後、グローブに採用されたのである。セオは、グローブではアリシアに効果的な治療をすることができず、彼女が薬漬け状態であることを知り、所長のディオメデス博士に、アリシアの治療を担当させてほしいと申し出て許可された。そこからセオとアリシアの心理療法士と患者としての関係が始まった。

アリシアの日記

アリシアは事件の数カ月前から日記をつけていた。個展を控えて作品の制作に行き詰り、精神的に追い詰められていたアリシアに、夫のガブリエルは自分の殻の中にこもらず、思ったことを文字にしてみたらどうかと黒皮の日記帳を渡した。この小説では、彼女の日記の記述が、セオの独白の合間に挿入される(ただし、この日記の存在を警察もセオも知らない)。読者は、セオの事件やアリシアに対する思い入れを知り、アリシアの日記からは事件までの彼女の心の動きを知ることになる。

セオは、アリシアの薬の量を減らすと同時に、事件に関し、より明確に知るために関係者から事情を聴くという、警察のような作業を始めた。アリシアの叔母(アリシアの父の妹)と従兄のポール、ガブリエルの兄でアリシアの弁護人を務めたマックス、そしてアリシアの絵を扱う画廊主のジーン=フェリックス・マーティンなどに何度も会って話を聞いた。読者は、彼らが語るアリシアの姿を、セオの独白から知ると同時に、彼らのアリシアに対する複雑な感情もうかがい知ることになる。

次第にセオとアリシアの精神的な関係が、心理療法士と患者という枠を超えて濃密に、そして危険になっていった時、セオはアリシアの秘密にたどり着き、彼女が自分をギリシャ悲劇のヒロインになぞらえた理由を知る。同時に読者は、セオ自身の暗い、深い秘密にも気付く。ついに、事件の裏に潜む真実が明らかになっていく……。

最後の展開と、思いもかけない事件の真相は読んでのお楽しみ。

著者について

アレックス・ミカエリデスは1977年キプロス生まれ。ギリシャ系キプロス人の父とイギリス人の母を持ち、イギリスのケンブリッジ大学で英文学を勉強、ロサンゼルスのアメリカン・フィルム・インスティチュートで、脚本学で修士号を取った映画脚本家。“The Silent Patient”は小説家としてのデビュー作となる。この小説は2019年2月24日のニューヨーク・タイムズのベストセラー・リスト第1位で華々しく初登場[4]して以来、本稿執筆時点で29週リスト入りしている。

[4]https://www.nytimes.com/books/best-sellers/2019/02/24/hardcover-fiction/

佐藤則男のプロフィール

早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。 1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。 佐藤則男ブログ、「New Yorkからの緊急リポート」もチェック!

記事一覧
△ 【先取りベストセラーランキング】愛する夫の顔面に5発の弾丸を撃ち込んだ女性画家のミステリー ブックレビューfromNY<第50回> | P+D MAGAZINE TOPへ