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仕事も恋も、何もかもうまくいかない七菜。そんな七菜を救ったのは温かい手料理……? 【連載お仕事小説・第14回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第14回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 問題を解決しようと朱音のサイン会に駆けつけた七菜だったが、またも朱音の怒りを買ってしまう。なんとか帰宅するも、恋人・拓と大喧嘩をしてしまい、何もかもがうまくいかないことに焦りと不安だけが募っていく。そんなとき部屋のチャイムが鳴って……?

 

【前回までのあらすじ】

朱音のコートについた「鳩のフン」が引き金となり、制作中のドラマから「原作を引き上げる」と怒鳴りつけられてしまった七菜。原作引き上げの件を伏せて撮影を続けられるのは3日が限界。自分ができることを探していた七菜は、『上条朱音先生 サイン会のお知らせ』という文字を見つけ、大急ぎで書店へと向かうが……。

 

【今回のあらすじ】

トラブル解決のため朱音のサイン会に駆けつけた七菜だったが、決死の行動も空振りに終わってしまった。なんとか帰宅するも、家に来ていた恋人・拓と仕事の話を巡り大喧嘩に……! 何もかもがうまくいかない七菜。そんなとき部屋のチャイムが鳴り、玄関の扉をあけるとそこには頼子がいて……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

どこをどう通って辿り着いたのか、まったく記憶にない。気づいたら七菜は自宅ドアの前に立っていた。機械的に鍵を出し、ドアを開ける。三和土には男物のスニーカー。奥のリビングからテレビの音が流れてくる。ああたくちゃん来てるんだ。頭の隅でぼんやり考える。
ふらつく足を踏みしめ、廊下を通ってリビングに入った。ここ数日、あまりにいろいろなことがあったせいで、部屋はいつも以上に荒れている。脱いだままの洋服が山を成し、床のあちこちにコンビニ弁当の殻やペットボトルが落ちている。しばらく掃除機をかけていないフローリングの床は、ほこりや髪の毛でべたつき、なんだかぜんたいに白っぽい。二月だというのに、キッチンからは生ごみの腐った臭いがした。
そんな部屋のなか、ソファに寝そべった拓が、ポテトチップをぱりぱりとかじっている。七菜に気づいた拓が、首だけ曲げてこちらを見た。
「おかえり――」
 言いかけた拓の顔が固まる。
「ど、どうしたの七菜ちゃん」
「……どうって」
 七菜はその場にへたり込んだ。もう一歩も動けない。肩にかけたバッグを下ろすのさえ億劫だった。
「七菜ちゃん」
 拓が駆け寄ってきた。両手が肩に置かれる。
「傷が痛むの? それとも他がどこか」
「違う」
「じゃあどうしたんだよ、なにがあったんだよ」
 拓が七菜の肩を揺さぶる。振動に合わせて首が前後にかくかくと動いた。床を見つめたまま、七菜はゆっくりと口を開く。退院した日から今日までのことをぽつぽつと語った。涙が出るかと思ったが、まるで他人に起こったことのように実感がわかない。なんの感情も浮かんでは来ない。
「……そんなことが……ひどすぎるね、その先生」
 拓が苦々しげに眉根を寄せた。能天気なテレビの音だけが、二人の頭上を通り過ぎてゆく。両腕を組み、じっと空を見つめてなにごとか拓が考え込む。もはや七菜の思考は完全に停止している。まるで脳のすべてが干からび、しなびきってしまったようだ。
 目の前に落ちていた髪の毛を七菜は摘まむ。まっすぐで硬いのがあたしの。細くてわずかにカールしているのが拓ちゃんの。あたし、拓ちゃん、拓ちゃん、あたし、あたし。いつの間にか片手いっぱいに抜け毛がたまっていた。
拓がリモコンを手に取り、テレビを消した。聞こえてくるのは外を通る車の音だけ。テーブルにリモコンを戻し、拓がゆっくりと七菜のほうへ首を巡らせた。
「……仕事を辞めたらどうかな、七菜ちゃん」
 拓がなにを言っているのか、瞬時には理解できなかった。七菜はそろそろと顔を上げる。
「……仕事を、辞める?」
 拓が大きく頷いた。
「このままではからだも、それにこころも壊れてしまうよ」
「でも……あたしは今回のことを招いてしまった張本人で」
「それはそうだ。でもこれ以上、七菜ちゃんにできることがあるの?」
「あたしには責任が」
「責任を取るのは七菜ちゃんの仕事じゃない。最終的には管理職の仕事だ。それを七菜ちゃんに押し付けようとするならそれこそブラック企業だよ」
「そうはいっても」
「仕事をしていればいろんなことがあるさ。ぼくだっていろんなケースを見てきた。そのうえであえて言わせてもらうよ。仕事のためにじぶんを犠牲にしちゃいけない。仕事なんて結局金を稼ぐための手段でしかないんだから」
 拓の最後のことばがこころにちいさな引っかき傷を作る。
「拓ちゃんにとってはそうかもしれない。でもあたしはこの仕事が好きなの。やりがいを感じているの」
「仕事はあくまで仕事だよ。やりがいを求めるほうが間違ってるよ」
「やりがいを求めてなにが悪いの!」
 叫んだ七菜をなだめるように拓が両手を広げた。
「やりがい、やりがいってよく七菜ちゃんは言うけどさ、それって単に精神論でじぶんをごまかしてるだけじゃないの」
「そんな」
「いっときの感情に流されないほうがいい。人生は長いんだ、もっと大局的にものごとを見なきゃ」
「でも……」
七菜はくちびるを噛みしめる。
「仕事を取ったら、あたしにはなにも残らないよ……」
「ぼくの奥さんになればいい」
 七菜は驚いて拓を見る。今まで見たことがないくらい真剣な目をしていた。
「ずっと考えてた。言うタイミングを探してた。いまがそのときだと思った。結婚しよう、七菜ちゃん」
 まっすぐな拓の視線を七菜は受け止めることができない。こたえるべきことばがすぐには見つからない。拓が落ち着いた声でつづける。
「七菜ちゃんはじゅうぶん戦った。やれることはすべてやった。それでいいじゃないか」
 ほんとうにそうだろうか。七菜のこころが揺れる。
「生活費ならぼくが稼ぐ。貯えだってある。だから七菜ちゃん、無理して働く必要はないんだよ」
「でもあたし、拓ちゃんに養われる人生なんて嫌だ」
「わかってる、七菜ちゃんの気持ちは。一生、専業主婦でいろなんて言わない。落ち着いたらまた仕事に戻ればいい」
「落ち着いたらって、それいつの話?」
「それはだから……」
 初めて拓の目が泳いだ。
「もしも子どもが生まれたら? ある程度自立するまで、けっこう時間がかかるよ。その間の面倒を見るのはあたしでしょ? だとしたら落ち着くのなんていったいいつになるの」
「いやもちろんぼくも手伝うよ。家事だの育児だの」
 拓のことばに全身が熱くなる。いままで抑えていた不満が一気に噴き出した。
「だって拓ちゃん、家事なんてしたことないじゃない! 食べたら食べっぱなし、掃除も洗濯もぜんぶあたし任せで」
 汚れきった部屋をぐるりと指してみせる。
「それに手伝うってなによ、その感覚がすでに間違ってるよ! そもそも家事や育児は夫婦ふたりでやるもんでしょう!? どっちか一方だけが背負うもんじゃないでしょ!」
「けどぼくはフルタイムで働いてるんだよ! 限界があるのは仕方ないじゃないか!」
「じゃああたしはフルタイムで働いちゃいけないの!? パートタイムでドラマの制作なんてできないよ! そんな中途半端な働きかた、あたしは嫌だ! 働くなら精いっぱい全力で働きたいの!」
 いつのまにかふたりとも立ち上がり、わずかなあいだを置いてにらみ合っていた。ふだんは穏やかなほほ笑みを浮かべている拓の顔が引き攣り、くちびるは真一文字にきつく結ばれている。握りしめた両の拳、関節が白く浮いて見えた。
 お互いの視線が空中でぶつかり合う。ばちばちとぜる音が聞こえてきそうな気がした。
 さきに視線を外したのは拓だった。
「……勝手にすればいい。ぼくはもう知らない」
 ひったくるように紺のボディバッグを掴むと、七菜の脇をすり抜け玄関に向かって歩いてゆく。廊下を踏みしめる音が響き、乱暴にドアが閉められた。勢いで部屋が揺れる。足音が遠のいていき――やがて、消えた。
 膝がかくかくと揺れる。立っていられなくて、七菜はとすんと床にへたり込んだ。
 泣きたかった。喚きたかった。からだを床に打ちつけ、転がり回って叫びたかった。
 だが意思に反して、指の一本すら動かすことができない。
 七菜はただぼう然と、拓のいた空間を見つめる。ピースの欠けたジグソーパズルのように、拓の輪郭だけが白く抜けて、見えた。

 食欲がまったくわかない。水すら飲む気になれない。
 ベッドのうえで頭から毛布にくるまり、ひたすらからだを丸めて七菜は翌一日を過ごした。
 明日は期限の日だ。どうにかしなくては。そうは思うものの、すべてが億劫で、起き上がることすら叶わなかった。
 どうしようどうしようどうしたらいい。焦りと不安だけが募ってゆく。
 明るかった窓の外がどんどん暗くなり始めた。部屋の空気が冷たくなる。いま何時なんだろう。壁の時計を見ようと毛布から顔を出したとき、部屋のチャイムが鳴った。
 拓か。反射的に思ってから七菜はそんなはずはないと思い直す。拓なら合鍵を持っている。いままでチャイムを押したことはない。ならばセールスか勧誘か。いずれにしても出る気になれなかった。
もう一度鳴ってから、チャイムはんだ。ほっとして毛布に潜り込もうとすると、今度はテーブルに置いてあるスマホが振動し始めた。七菜はベッドから手だけを伸ばしてスマホを掴む。ディスプレイに「頼子さん」の文字が浮かんでいる。
心臓が、とん、と跳ねる。なにかあったのだろうか。タップし、耳にあてた。
「はい時崎です」
「七菜ちゃん。いまどこ?」
 頼子の、おっとりした声が響いてくる。
「あ、家ですけども」
「そう。じつはね、いま七菜ちゃんちの前にいるの。チャイム押したけど返事がなかったから」
 居留守がばれてしまった。気まずさで頬が赤くなる。
「お邪魔していいかな。そんなに長くはいないから」
「あ……はい。あの、ちょっとだけ待っててくださいね」
 スマホを切り、七菜はベッドから這い出る。洗面所に飛び込んで顔を洗い、歯をざっと磨いた。鏡に映ったすっぴん顔は、我ながらひどいものだと思ったけれど、寒いなか、頼子を待たせておくのは申し訳ない。ジャージの上下という部屋着のまま、七菜はドアを開けた。
「お待たせしました。どうぞ。すごい荒れてますけど部屋」
マフラーを何重にも首に巻き、長いダウンのコートを羽織った頼子がほほ笑む。寒さのせいだろうか、頼子の頬は血管が透けて見えるほど白く、目の縁とくちびるだけが異様に赤い。
「ごめんね、せっかくのお休みの日に」
「いえ……なにもしてませんでしたから」
 部屋に招き入れ、リビングに通す。ごみや雑誌、洋服の山を隅に押しやって、なんとか頼子の座るスペースを作った。キッチンに入り、コーヒーのドリップの袋を破り、マグカップに据える。ケトルで沸かした湯を注ぐと、香ばしい香りが立ち込めた。
「どうぞ」
「ありがとう。いい香り」
 頼子がカップに口をつけ、コーヒーを啜った。
「……あの、なんかあったんですか」
 立ち上る湯気を見ながら七菜は問うた。
「ううん、べつになにも。ただ七菜ちゃん、どうしてるかなと思って」
 安堵と不安が同時に押し寄せる。
「……明日ですよね。もう一日しかないのになにもできずにすみません」
「まだ、一日よ。一日あるのよ」
「でも……あたしにやれることなんて、もうなにも……」
 俯いて、カップの縁を指でなぞった。
「ほんとうに、そうなのかな」
 両手を後ろにつき、背を反らせるようにして頼子が天井を見上げる。
「七菜ちゃんにできること、ほんとうにもうないのかな」
「ないです。というより、あたしがなにかやればやるほど、事態は悪化していくばかりで……」
 語尾が震え、砂にみ込んでゆく水のように消える。背を反らせた姿勢のまま、頼子が首をこちらに向けた。頼子の視線を感じる。感じるけれども受け止めることができない。
「うんしょ」
 頼子が立ち上がった。
「七菜ちゃん。ちょっとキッチン、借りてもいい?」
「は? あ、はい、構いませんけど」
「それじゃ遠慮なく」
 頼子がキッチンへ足を踏み入れた。冷蔵庫を開け、なかみをあらためると、ついでカップ麺や缶詰の並んだカートを見、最後に鍋やフライパンをしまってある収納棚を確かめた。
「見事になにもないねぇ」
「すいません」
「謝ることじゃないけどね。まあ、いっか」
 棚から、旅先で買って食べ、そのまま持ち帰った釜めしの釜を取り出す。冷蔵庫を漁って、干からびた玉ねぎと萎びた大根、半欠けのにんにく、そしてとっくに賞味期限の切れたベーコンをシンクの脇に並べた。
「頼子さん、なにを」
「いいからいいから。七菜ちゃんはそこで待ってて」
 とんとんととととと。
 包丁で野菜を刻む小気味のよい音がキッチンから響いてくる。ガスコンロに火が点けられ、野菜やベーコンの煮える温かい匂いが漂い始める。思えば一昨日から、食べものらしきものを何も口に入れていなかったことを七菜は思いだす。
「コンソメ……ないか。麺類、麺類は……と……あ、これでいいや」
 カートを探るがさがさという音とともに、頼子の独り言が聞こえてくる。
 いったいなにを作る気だろう頼子さん。膝を抱え、カウンター越しにせわしなく動き回る頼子を見守る。
 十五分ほど経ったろうか、鍋つかみの代わりに布巾で釜の縁を持った頼子がキッチンからあらわれた。
「七菜ちゃん、なにか鍋敷きの代わりになるものない?」
「あ、はい」
 隅に寄せた服の山からタオル地のハンカチを引っ張り出してテーブルに敷く。そのうえに頼子が釜をとん、と置いた。釜からは、くつくつと煮え立つ音がする。
「なんですか、これ」
「いいから。食べてたべて」
 渡された布巾を手に、七菜はそっと蓋を取る。
 ほわあ。トマトの酸いような甘いような匂いが七菜を包み込む。表面を覆ったスライスチーズがとろけ、鍋の具材を包み込んでいる。
「……いただきます」
 両手を合わせてから、七菜は箸を鍋に差し入れる。チーズと絡み合った玉ねぎや大根、そしてスパゲティを七菜は口に含んだ。
「……美味しい」
 塩気が適度に効いたトマトスープとチーズの相性がばつぐんだ。スープの旨みを吸った玉ねぎと大根が口のなかでほろほろと溶けてゆく。スパゲティを啜り込む。ちょっと柔らかいが、ちゃんと芯が残っていた。
「これって……」
「んー。あえて名づけるなら『洋風鍋焼きスパゲティ』かな。麺はうどんでも素麺そうめんでもいいのよ」
「頼子さんが発明したんですか?」
「発明ってほどじゃないわ。余りものを使って煮込むだけの料理だもの」
「大根ってトマトスープに合うんですね。意外」
「大根や玉ねぎは水から煮ると、いいお出汁だしが出るからね。トマト缶がなかったらコンソメ味でも、塩胡椒だけでもいけるわよ。スライスチーズがあってよかったわ。コクが出るし、なにより味がまろやかにまとまるでしょう?」
 頷いて七菜は鍋を食べ進んでゆく。しぼんだ風船に空気が入っていくように、ひと口ごとにこころが丸くなっていく。空っぽだった胃がじょじょに満たされてゆき、からだの内側からぽかぽかと温かくなってくる。箸を止めない七菜を、隣で頬杖をついた頼子が目を細めて見ている。スープを最後の一滴まで飲み干すと、七菜は箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
 自然とため息が漏れる。
「どう? すこしは落ち着いた?」
「……はい」
「あのね七菜ちゃん」
 頼子が頬杖を解き、正面から七菜に向き直った。崩していた足をそろえて、七菜は頼子と相対する。
「仕事って時には理不尽で残酷で、こころが折れそうになることってたくさんあるよね。でもね、そんなときこそ『なにくそ、どんまい!』の気持ちが大事なんじゃないかなあ」
「……『なにくそ、どんまい!』」
「そう。その気持ちを忘れないで。あとは食べること、眠ること、そして少しでも動くこと。この三つができていれば、人間、大概はだいじょうぶ。よく覚えておいて」
 食べること、眠ること、そして動くこと。七菜はこころのなかで繰り返す。
「だから動くことをやめないで。『なにもできない』なんて思い込まないで。悪あがきでもいい、なにかやってみて。できるはずよ、七菜ちゃんなら。だって――七転び八起の七菜、でしょう」
 頼子がゆっくりと右手を伸ばし、七菜の手に重ねる。重ねた手のひらから、頼子の体温がじんわり伝わってくる。頼子の細くて長い指を見ながら七菜はちいさく頷いた。
 とんとん。軽く七菜の手の甲を叩いてから、頼子が手を離した。
「それじゃ、行くわね」
「え、もう?」
「このあと用事があるのよ」
 よいしょ、声を出して立ち上がった頼子が、マフラーとコートを手早く身に着ける。
「頼子さん、ほんとにこれだけのために」
「いいのよ。ついでに寄っただけだから」
小ぶりなバッグを抱え、頼子が玄関に向かって歩き出した。あわててあとを追う。三和土でブーツを履く頼子の背に七菜は声をかける。
「あの、頼子さん」
「なに」
「……ありがとう、ございました」
迷ったすえ、そのひと言を押し出した。軽く頷いて頼子がドアを開ける。冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。頼子が足を止め、振り向いた。
「現場で、待ってるわね」
 リレーのバトンを渡すように言い、ドアの向こうへ消えた。頼子がいなくなってなお、渡されたことばが飛行機雲のように軌跡を残す。
 現場で、待っている。現場で、待っていてくれるひとがいるんだ、あたしには。
 七菜はばちんと両手で頬を叩いた。とにかく動こう。頼子さんの言うように、家にじっとしていてはだめだ。
 リビングに駆け戻り、七菜はジャージを脱ぎ捨てた。

 

【次回予告】

頼子の手料理を食べ、動く気力を取り戻した七菜は、どうしたら朱音の怒りを解くことができるかだけを考え歩いていると、映画館にたどり着いた。1本の映画を観て気がついた本当に大切なこととは……? そして、七菜が迷わず向かった場所とは……?

〈次回は4月24日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>

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