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一難去ってまた一難!? 仕事も恋もうまくいきはじめた矢先、尊敬する上司・頼子の様子が……? 【連載お仕事小説・第16回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第16回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 撮影中のドラマの「原作引き上げ」を撤回してもらった七菜は、喧嘩していた恋人・拓とも和解の兆しが見え、何もかもがうまくいき始めていた。そんな矢先、ロケ飯を作る上司・頼子の激しく咳き込む声が聞こえて……⁉︎

 

【前回までのあらすじ】

働く気力を取り戻した七菜は、どうしたら朱音の怒りを解くことができるかだけを考え歩いていると、映画館にたどり着いた。とある1本の映画を観て、「大切なこと」に気づかされる。そして、七菜が迷わず向かった場所とは……?

 

【今回のあらすじ】

七菜の仕事への熱意が朱音に伝わり、「原作引き上げ」を撤回してもらうことに成功。後半の改変も滞りなく行われ、仕事は順調に進んでいた。喧嘩していた恋人・拓とも和解の兆しが見え、何もかもがうまくいくかと思った矢先、尊敬する上司・頼子の様子が……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

朝の十時半、今日最初の撮影場所であるコンビニの前で、七菜ななはほかのスタッフに混じりモニタを眺めていた。
三月に入って数日、陽射しもだんだんと温かさを増してきた。吹く風にも、かすかではあるが花や樹々の芽吹く匂いがただよっている。
朱音による原作引き上げ騒動が落ち着いたあと、撮影は順調に進んでいる。後半の改変も滞りなく行われ、ロケ場所やスケジュールの変更も一段落したいま、チーム全体にのどかな雰囲気が広がっていた。
あの一件以来、朱音は本心から七菜を信頼してくれるようになったらしい。週に一度は朱音から心づくしの差し入れが届くようになった。
わざわい転じて福となす。どうかこのまま無事後半の撮影が終わりますように。七菜は薄い霞のかかった青空を見上げる。
「シーン12、OK」
 インカムから助監督の声が響く。モニタ上に、緊張を解いた一輝いっきとエキストラの顔が映し出される。だが例によってあすかの顔からは余裕が消えつつあった。そろそろお腹が不平を言い出したのであろう。撮影が始まって一か月、さすがに七菜もタイミングを掴めるようになってきた。
 通行人をさば李生りおに走り寄り「頼子さんの手伝いに行ってくるね」とささやく。李生が軽くうなずいてみせた。
 現場を李生に任せ、七菜は撮影の拠点である公民館に向かい、早足で歩き出した。とたん、スマホが振動し始める。ディスプレイに表示されているのは「実家」の二文字。頭を怪我して以来、週に一度は母から電話がかかってくるようになってしまった。たいてい撮影中で出るに出られず、それを言い訳に留守電に任せきりにしている。今日もこのまま放っておこうか。一瞬、その思いがよぎるが、いまはたまたま移動中だ。こういう機会でもないかぎり、話すことは難しいだろう。諦めて七菜はアイコンをタップする。
「七菜? おはよう、起きてた?」
「起きてるもなにも仕事中だよ、なに、お母さん」
 ついいらいらした声が出てしまう。
「あんた具合はどうよ」
「もう全然大丈夫」
「そう、そりゃよかった。で、拓ちゃんはどうしてる?」
 拓ちゃん。そのことばに、一気に気持ちがしぼんでゆく。
 拓とはあの夜以来、いっさい連絡を取っていない。引き上げ騒動で気持ちにも時間にもまったく余裕がなかったことがいちばんの原因だ。けれどふとした瞬間に浮かんでくるのはいつも拓のことだった。
このまま別れることになってしまうのだろうか。不安と後悔が頭をもたげるが、七菜にしても「間違ったことは言っていない」という意地がある。その意地が、歩み寄ろうとする気持ちに勝ってしまうのだった。
「ちょっと七菜」
「元気だよ。変わりない」
 つとめて平静にこたえる。ほんとうのことを話したら、あの母のことだ、広島から上京してきかねない。
電話の向こうで、母がほっとしたように息をついた。
「そんならよかった」
「用事がないならもう切るよ」
「はいはい。あんた、いまは忙しいじゃろうけど、暇ができたら拓ちゃん連れて一度こっちに戻んなさいよ。お父ちゃんも祖母ちゃんも楽しみにしてるき」
「わかった。じゃあね」
「拓ちゃんにくれぐれもよろしくね」
 満足そうに言い、母が電話を切った。
さっきまで軽かった足が急に重く感じられる。スピードを緩め、考えかんがえ七菜は歩く。
確かに拓の言ったことには腹が立つ。あたしの気持ちを理解してくれないかたくなな態度。でも――七菜のこころに迷いが兆す。 
あたしは拓の気持ちを理解しようとしただろうか。すくなくとも拓は真剣に考え、へこみきったあたしをなんとか助けようと結婚の話を持ち出したのだ。それは純粋な厚意だったに違いない。
拓の顔が脳裏に浮かぶ。
食い入るように映画を観る横顔。感動で滲んだ涙を照れ笑いでごまかしながら目じりを拭うすがた。病室に飛び込んできたときの鬼気迫る表情――
七菜の足が止まる。その横をさまざまなひとびとが通り過ぎてゆく。
 レジ袋を下げ、楽しげに会話する母親と女の子。
 互いを支え合うようにゆっくりと足を運ぶ年老いた夫婦。
 なにかいいことでもあったのか、スマホを見ながら歩く青年の口もとが嬉しげに緩んでいる。
 どのひとの顔もようやく訪れた春の陽を浴びてかすかに上気し、浮き立っているように見える。
 春が来たんだ。ものみな動き出す春が。
 七菜はおおきく息を吸い込み、手にしたスマホを見つめ直す。
 とにかくもう一度会って、直接話をしよう。たとえ別れることになっても、気まずいまま終わるよりはずっといい。
 もう一度深呼吸をしてから、七菜はLINEのアイコンをタップする。

 公民館の給湯室に入ると、こちらに背を向け、包丁を振るっているよりのすがたが目に入った。
「すみません、遅くなって」
 手早く手を洗い、七菜は頼子の手もとを覗き込む。軽快なリズムで人参を半月形に刻んでいるところだった。頼子の横には大量のごぼうがささがきにされ、水とともに大きなボウルに入っている。
「現場はだいじょうぶ?」
 振り向いた頼子は口もとを白いマスクで覆っていた。ここ数日、頼子はひんぱんに咳き込んでいる。風邪ではないかと心配する七菜に「風邪じゃないわ。軽い喘息ぜんそくのようなものよ」と頼子はこたえ、いつも通りのスケジュールをこなしている。
いわさんの顔が険しくなっています」
「そんなことだろうと思ったわ」
 明るい口調で言うと、頼子が手で山と積まれた丸のままのキャベツを指した。
「ざっと洗ったら、ひと口大のざく切りにしてくれる?」
「はい」
 ひと玉手に取り、流水で汚れを落とす。外側の葉をこうとすると頼子に止められた。
「捨てちゃだめよ。春キャベツは外側の葉がいちばん美味しくて栄養あるんだから」
「そうなんですか」
 確かにしっかりと葉の巻いたキャベツは外側も瑞々しい緑色に輝いている。七菜はまな板にキャベツを載せ、体重をかけて菜切り包丁を芯にあてた。ざくり。いい音を立ててふたつに割れたキャベツは、真ん中までみっしり葉が詰まっている。
 キャベツを刻みながら、七菜はほかの具材に目をやった。
 湯がいたばかりなのだろう、ほんのり湯気を立ち上らせたしらたきが、ざるにこんもり盛られている。別のざるには椎茸と舞茸、さらにぷぅんと香気を放つねぎの白い肌がつややかに光っている。パックに入っているのはどうやら鶏のもも肉らしい。
「今日はけんちん汁ですか?」
 ごほっと咳き込んでから頼子が首を振った。
「違うわ。せんべい汁」
「せんべい汁って、ええと青森の」
「そう、八戸の郷土料理。食べたことある?」
 七菜は首を振る。聞いたことはあるが、口にしたことはない。
「けんちん汁に南部せんべいが入ったものと言えばわかりやすいかな。八戸にいるときは週に二回は食べたものよ」
「そうか、頼子さん、青森出身でしたもんね。たまに実家に帰ったりするんですか」
 人参を刻み終えた頼子が、パックから出した鶏肉を切り分け始めた。
「ううん、もう全然。わたしひとりっ子だし、両親もずいぶん前に亡くなったから」
「そうなんですか」
「だからね、チームがわたしの家族なの」
 つぶやいた頼子の声はあまりに微かで、あやうく七菜は聞き逃しそうになる。
「え?」
「親もいなくて、親戚とも疎遠で、連れ合いも子どももいない。言ってみれば天涯孤独な境遇だけど」
 鶏肉からよぶんな脂を取り除きながら頼子がつぶやく。なんとこたえたらいいかわからなくて、七菜は黙ったまま頼子の手もとを見つめる。
「でもわたしにはチームがある。アッシュという居場所もある。だからこれがわたしの家族。そう思って――過ごしてるの。毎日を」
「確かに。頼子さんはチームのお母さんですよ」
 生真面目に七菜が返すと、頼子が軽く声を上げて笑った。その拍子にふたたび咳き込み始める。胸の奥のほうから込み上げてくるような深い咳。思わず七菜は頼子の顔を見る。目が落ち窪み、どす黒いくまが浮いている。マスクから覗く頬は、ここ数日の咳のせいか、削げたように肉が薄い。
「だいじょうぶですか頼子さん」
「平気よ。感染するようなものじゃないから安心して」
「いやそういう意味じゃなくて」
「よし、材料がそろった。仕上げに入るわよ」
 明るい声でこたえ、寸胴鍋ずんどうなべに切った鶏肉を入れてゆく。脂の焦げる香ばしい匂いがあたりに広がる。
「ほんとうは手羽中を使ったほうがいいの。骨からいいお出汁だしが出るからね。でも忙しい現場には不向きだから」
 鶏肉にこんがりと焦げ目がついた頃合いを見計らって裏返す。
「まだなかが赤いけどいいんですか」
「いいの、このあと煮込むから。七菜ちゃん、水を入れてくれる?」
 指示に従い、ペットボトルの水を鍋に注ぎ入れる。しばし待つと水は沸騰し、鍋のふちに白いあくが浮き上がってきた。
「あく取りは最小限にね。油使ってないし、あくには旨みも詰まってるから」
「はい」
「野菜を入れましょう。七菜ちゃん、まずはごぼうと人参取って」
「根菜からは出汁が出ますもんね」
 以前教わったことを口にする。頼子の目が柔らかく緩む。
「覚えていてくれたのね。嬉しいわ」
 ごぼうと人参が半分ほど煮えたタイミングでしらたき、ついで椎茸、舞茸を鍋に入れてゆく。
「キャベツとねぎは?」
「春キャベツは柔らかいし、ねぎは煮すぎると苦みが出ちゃうから、味つけを済ませたあと」
「せんべいも?」
「せんべいは最後の最後に。ちょっと火を入れすぎると、あっという間にとろけてしまうから」
「そか。せんべいの口あたりを残すところがポイントなんですね」
 頼子が目を丸くする。
「すごいわ七菜ちゃん。ずいぶん料理のコツがわかってきたじゃないの」
「いやいやいやいや」
 両手を盛大に振る。照れ隠しに、調理テーブルに置かれたせんべいの袋を手に取った。東京の、醤油で黒いせんべいとは違い、薄い肌色で、中央が丸くへこんでいる。そのへこみを縁取るように、ぐるりと薄いつばがついていた。
「これを割って入れるんですか」
「そう。その前に味つけしないとね」
 ペットボトルに入った白い出汁を頼子が慎重に注いでゆく。小皿に取って味を確かめたあと、さらに出汁を追加し、小さじ二杯ほど醤油を足した。満足げに頷く。鶏と野菜から立ち上る香気に、ほんのり優しい出汁の匂いが混じる。
「よし。七菜ちゃん、ねぎとキャベツ入れて」
 頼子がおたまで作ったすき間に、七菜は野菜を移す。出汁を吸い込んだキャベツとねぎがうっすらと色づいてゆく。鍋がくつくつと心地よい音を立てる。
鍋に顔を近づけて匂いを味わっていると、ポケットのスマホがぶるりと動いた。つづいて二度、三度。鍋から離れ、スマホを取り出す。ディスプレイに「たくちゃん」とポップアップされていた。心臓が、とん、と跳ねる。
「すみません、ちょっと」
 頼子に断ってから、七菜は給湯室を出た。誰もいない廊下に、七菜の息遣いだけが響く。ロックを解除し、LINEを開く。七菜の目に飛び込んできたのは短いメッセージ三通。
「連絡ありがとう」
「あのときは言いすぎたとぼくも反省しています」
「ぜひ会いましょう。三月十三日二十時新宿、了解です」
 よかった。拓ちゃんと会える。
 からだの奥深いところでともった灯が、またたくまに全身を明るく照らし上げる。
「ありがとう」
「ではいつものところで待っています」
 返事を打つと、すぐに既読のマークがついた。そんな些細なことがいまの七菜にはとても嬉しかった。
 給湯室に戻ろうときびすを返したとき、頼子の激しく咳き込む声が聞こえてきた。なにかが床に落ちる音、軽い振動がつづく。
「頼子さん!?」
 叫んで、七菜は給湯室に駆け入る。コンロの前にうずくまる頼子のすがたが目に入る。
「頼子さん! どうしたんですか頼子さん!」
 肩を揺さぶると、頼子がうっすらと目を開けた。
「……ごめん、七菜ちゃん。タクシーを呼んでくれる?」
 激しい咳を挟んで、切れぎれに頼子がことばを絞り出す。
「救急車のほうが」
「平気……通っている病院があるから……」
 顔にまったく血の気がない。目は開いているものの、瞳はまるで巨大な樹の洞のように暗く、光を失っている。
「すぐに呼びます!」
 無我夢中で七菜はスマホを操作し、アプリをタップする。
 視界の端に、破れた袋と、粉々に割れたせんべいのかけらが映る。

 

【次回予告】

激しく咳き込んだあと、その場にうずくまった頼子はタクシーに乗り込み、行きつけの病院に入院することになった。仕事の引き継ぎをするため、七菜は頼子の病室を訪れるが、そこで見たのは髪のない頼子の姿だった。

〈次回は5月8日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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