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恋人との約束を忘れ、親しかった上司とも仲違い。何もかもうまくいかない七菜を救ったのは……? 【連載お仕事小説・第20回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評連載、第20回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 様々なミスが重なったことで撮影が延びてしまい、帰るころには夜の10時を過ぎていた。午後からスマホを見ていなかったことに気がついた七菜がふとロックを解除してみると、恋人の拓から4件の連絡が来ていることに気がつき……。

 

【前回までのあらすじ】

多忙すぎる毎日の疲れからミスを連発してしまう七菜。撮影スタッフからは呆れられてしまうが、後輩・李生の機転のきいた行動のおかげで撮影場所の確保に成功。すっかり遅くまで撮影が延びてしまい、仕事のあとに予定のある新人・大基にキツくあたってしまう。これってパワハラ……!?

 

【今回のあらすじ】

10時過ぎまで続いた長い撮影も終わり、最終確認を行なっていた七菜は、午後から一度もスマホを見ていないことに気がつく。ロックを解除するとそこには、恋人・拓からのたくさんの着信が……。

 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP(アシスタントプロデューサー)、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

岩見耕平(いわみ こうへい):チーフプロデューサー。七菜の上司。

 

【本編はこちらから!】

 

「お疲れさまです」
「お疲れー」
 口々に言い合いながら、スタッフが機材をまとめ始める。
 夜の十時過ぎ、ようやく長い撮影が終わった。
 あすかたちキャストはすでに帰宅の途についている。次つぎ撤収していくスタッフを見送りながら、疲れきったからだを引きずるようにして、七菜は最終確認のため各部屋を見て回る。火の元をチェックし、簡単に掃除をする。ごみをまとめ、窓の施錠を確認し、ひとのいなくなった部屋の明かりを順に消していく。最後に玄関の鍵をかければ今日の仕事は完了だ。
 鍵、どこだっけ。朦朧もうろうとする意識で考える。そうだ、朝、ボディバッグに仕舞ったんだ。一階に降り、控え室に入る。
「七菜ちゃん、一緒に帰ろう」
 トートバッグを肩にかけた愛理がひょいと顔を覗かせた。
「うん、いま行くね」
 ぽつんと残されたバッグのジッパーを開け、公民館の鍵を捜していると、手がスマホに触れた。思えば午後から一度もスマホを見ていないことに七菜は気づく。それほどまでに今日はいろいろなことがありすぎた。
 なんの気なしにロックを解除する。LINEのアイコンに灯る「4」という数字。なかば無意識にタップした七菜は、ぐらりと地面が波打つような感覚に襲われる。ディスプレイに表示された拓からの短いメッセージ。
「新宿に着きました」
「八時で合ってるよね」
「あと一時間待ちます」
「帰ります」――
 拓との約束。今夜だった。拓はちゃんと来てくれた。だのにあたしはすっかり忘れて。連絡すらせずに――
 揺らぐからだを支えきれなくて、七菜は長机に手をついた。
「どうしたの七菜ちゃん」
 愛理が駆け寄ってくる。かろうじて保っていた細い糸が、ぷつり、音を立てて切れる。あふれ出た涙が頬を伝い、滴り落ちて机に不規則な点を描く。
「七菜ちゃん、七菜ちゃん」
 愛理が肩を揺さぶる。顎が震え、歯の根ががちがちと耳障りな音を立てる。両の足のちからが抜ける。立っていることが、できない。

「そっ……かぁ」
 自宅での喧嘩、そして今夜のすっぽかし。
 拓とのあれこれを話し終えると、黙って聞いていた愛理が低い囁くような声でつぶやいた。七菜は俯いて、ジントニックに添えられたライムの皮をそっと撫でる。
 泣きじゃくる七菜を抱えるようにして愛理が入ったのは、最寄り駅のそばのビル、その地下一階にある落ち着いたバーだった。店内には低くジャズが流れ、明かりは間接照明のみで、それも極力絞ってある。店の隅のソファ席に座り、注文を終えると、愛理はなにも言わず七菜が話し出すのを待ってくれた。落ち着いて会話ができるようになったのは、一杯めのハイボールを飲み干し、次に頼んだジントニックが半分ほどに減ったころだった。
「……もうだめだと思う。あたしと拓ちゃん」
 ライムの緑に目を落としたまま七菜はつぶやく。
「あんなひどい喧嘩して……じぶんから誘っておいた約束もすっぽかして……」
「わかってくれるよ、拓ちゃんなら。ちゃんと事情を説明すれば」
「……でも」
 七菜はテーブルに置いたスマホに視線を移す。LINEに気づいてすぐ、謝罪のメッセージを送ったけれど拓からはなんの返事もない。きっと怒りでいっぱいで、もはや返信すらする気持ちもわかないのだろう。
 愛理がスコッチのグラスをゆるりと回した。
「……七菜ちゃんはいいの? 別れることになっても」
 七菜はくちびるを強く引き結ぶ。さまざまな思いが押し寄せる。けれど思考は千々に乱れ、考えがまったくまとまらない。
「……わかんない。わかんないよ……」
 ちいさく首を振って、ジントニックをひと口、含んだ。愛理が耳の脇のおくれ毛を指さきでくるくると巻く。
「とにかくさ、もう一度会ったほうがいいよ。もしもだよ、このまま別れることになったとしても……嫌でしょう、こんな別れかたは。お互いの言い分をちゃんと話し合って、それで納得してから決めたほうがいいって、絶対に」
 ぜったい、にちからを込めて愛理が言う。
 それはそうかもしれない。このままではきっと一生後悔するだろう。でも。
「……そんな時間、作れないと思う。このさきもっと忙しくなるだろうし」
 ちらりと愛理が七菜を見る。
「……そうだね。板倉さん、このまま復帰できないかもしれないし」
「え」
 愛理のことばに驚いて顔を跳ね上げる。愛理が正面から七菜の視線を捉えた。
「あたしにまで嘘つかなくていいよ七菜ちゃん……癌でしょ、板倉さん。それもかなり進んだ」
「な、なんでそんな」
「あたしプロのヘアメイクだよ。今回の撮影に入ってすぐわかったよ。板倉さんが地毛じゃなくてウイッグだってことくらい」
 愛理が悲しげにほほ笑む。七菜は愛理の顔を見つめることしかできない。
「だいじょうぶ、誰にも言わないから。でもね七菜ちゃん、板倉さんの復帰が難しいなら、このさきずっと七菜ちゃんが現場のチーフを務めることになる。だとしたら……いまのような仕事の仕方をしていたら絶対にだめ。拓ちゃんに会う時間どころか、七菜ちゃんまで倒れてしまうよ、きっと」
 ひと息に言い、スコッチを干した。手を挙げて店員を呼び、同じもののお代わりを頼む。
 流れている曲が変わった。
 カウンターに座るカップルが、額を寄せ、なにごとか囁き合って笑う。
「……いまのようなやりかたって」
 新しいグラスが置かれるのを待ってから、七菜は口を開く。愛理がガラスのタンブラーではく色の液体を揺らせる。
「いまの七菜ちゃんはアシスタントじゃない。チーフなんだから、じぶんで動いちゃだめだよ。ひとを動かすことを覚えないと」
「……ひとを動かす……」
「たとえばね、さっきお弁当をじぶんで買いに行ったでしょ。ああいうときは佐野くんに頼まないと。幸いチーフプロデューサーの判断が必要な場面がなかったからよかったものの、もしも監督やほかのスタッフに呼ばれたらどうするつもりだったの」
「それは……」
 正直、そこまで考えていなかった。とにかく目の前の仕事をこなさなければ、それだけしか頭になかった。愛理がことばを継ぐ。
「七菜ちゃんの一所懸命さはよくわかるよ。でもねチーフになったら、他人を動かせるようにならないと。上手にひとを使うこと、それも仕事のうちなんだよ、七菜ちゃんの」
「ひとを、動かす……」
 おうむ返しに繰り返す。愛理がスコッチでくちびるを湿らせた。
「ひとりでやろうとする。なんでもひとりで抱え込む。他人に迷惑をかけたくない。その気持ちは理解できるよ。でもその結果――ミスがつづいて、けっきょく周囲を困らせることになってるでしょう、いまは。これって悪循環だよね。だとしたら最初から周りを巻き込んで、仕事を分散させるべきじゃないかな。そのほうがずっと――撮影も円滑に進むと思うけどな、あたしは」
 返すべきことばを七菜は持たない。ただじっと溶けてゆくグラスの氷を見つめる。
 ややあってから愛理が口を開いた。
「板倉さんは? なんて言ってるの?」
「……話してない、なにも」
「え、なにも?」
「仕事の連絡は取り合ってるよ。でも……個人的なことはいっさい」
「なんで? あんなに仲、よかったじゃない」
 愛理の声が高くなる。カウンターのふたりがちらりとこちらを見た。
「……なにかあったの、板倉さんと」
 声を低めて愛理が問う。病院でのやりとりを、つっかえつっかえ七菜は話した。
 ふう、とおおきく息を吐き、愛理が苦い笑いを浮かべる。
「そっか……板倉さんらしいっちゃらしいけどね。てか、似たものどうしだよねぇ、七菜ちゃんと板倉さん」
「そうかなあ」
「でもだからこそ、七菜ちゃんが変わらないといけないんじゃないの。板倉さんは七菜ちゃんを信じて現場を任せたわけでしょう。その期待にこたえないと」
 頼子の期待にこたえる。それは七菜にだっていちばん果たしたいことだ。でも。
「……できるかなあ、あたしに」
 つい弱気な声が出てしまう。愛理がソファから身を乗り出し、七菜の手を握った。
「まずは意識を変えること。そりゃすぐには難しいと思う。でも努力をつづけているうちに、きっと変わってくるはずだよ。拓ちゃんとのことだって――いい方向に進むかもしれない」
 七菜は無言のまま握られた手を見下ろした。
 意識を変える。
 じぶんを変える――
――動くことをやめないで。『なにもできない』なんて思い込まないで。悪あがきでもいい、なにかやってみて。できるはずよ、七菜ちゃんなら。だって――七転び八起の七菜、でしょう――
 頼子の声がよみがえる。
 愛理が握っていた手を離した。残りのスコッチを喉に流し込む。
「七菜ちゃん、お代わりは?」
 七菜が首を振ると、愛梨は伝票を取り上げて立ち上がった。
「帰ろう。今夜はゆっくり眠ろう。明日また元気に『おはよう』って言い合おう」
 ちから強い声で言うと、キャッシャーに向かい、歩いてゆく。
 そうだ。また朝はやってくる。そして新しい一日が始まる。あたしがどんなにへこんでいようとも、時は流れていく。けっして止まることはない。
 深呼吸をひとつしてから、スマホをバッグに入れ、七菜は愛理のあとを追う。

 

【次回予告】

自分を変えていくことを決意した七菜。険悪になっていた新人・大基との関係も改善し、チームの一員としての自覚が芽生えてきた。そんな矢先、キャストの間でインフルエンザが流行寸前の危機! 七菜がたどり着いた「免疫力が上がる飲み物」とは……?

〈次回は6月5日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

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