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連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第2話 開高健の名言

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間では、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない作品の裏側をお伝えする連載の第2回目です。「開高健」は、多くの名言でも知られていますが、担当編集とのやりとりにもその粋で優しい言葉や、人柄が表れています。当時のエピソードを振り返ります。

今も鮮やかに蘇る、開高流・心に沁みる言葉の数々

編集者を大事にする作家だったという開高健。壽屋(現サントリー)のコピーライターとして洋酒文化を日本に根付かせ、釣り、旅、美食に対しても造詣が深かったことでも知られています。
徹底した言葉選びへのこだわりや、普遍的なダンディズムもさることながら、時代を経ても古びない躍動感を感じさせる作品ばかりを遺しました。
担当編集者だけが知るエピソードについて、宮田昭宏氏が語ります。

担当編集者だけが知っている、粋で優しさに溢れたやりとりとは……?

 開高健さんのお宅は、いまは記念館になっている茅ヶ崎市東海岸に移ったが、その以前は杉並区井草にあった。
 一九七四年に「群像」編集部に異動した私は、翌年の半ば過ぎに開高さんの担当になった。そのころ、開高さんは「群像」に「街の眺め」という一ページのコラムを一九七五年七月号から、半年の約束で書いていた。
 開高さんは、一九五八年に「裸の王様」で芥川賞を受けたあと、「文学界」に掲載しなくてならない短篇小説が書けなくて、思い悩んだ末、講談社の「群像」に預けてあり、まだ掲載などが具体的に決まっていない原稿を取り戻し、それを受賞第一作にあてて、その場をしのいだ。もちろん、「群像」編集部は気分を害し、それ以降十六年間というもの両者は断絶していた。
 「小説現代」の編集長だった大村彦次郎さんが異動によって、「群像」編集長になったのを機に、開高さんと「群像」の縁が復活した。一九七四年二月号の、二ページの随筆「さまよう人びと」がその証しである。
 そして、はじまったのが、一九七五年七月号から半年の約束の、連作随筆「街の眺め」だった。この連作は私がはじめから企画したものでも、依頼したものでなく、後半の三回をいただいてくるだけの、いわば、使い走りのような仕事だった。
 だから、仕事としては、三回とも、会社の行きがけにお宅に寄って、玄関先で原稿を受け取るだけのことだった。
 「街の眺め」の最後の原稿「一難去って、また……」を受け取りながら、私は、こんどは、小説のお願いで改めてお伺いしたいと申し込んだ。これから担当者としての、本当の仕事をはじめるのだと思っていたのだ。
 開高さんは、すぐに、「いいよ」と言ってくれた。それから直ぐ、顔を緩ませて、「二日酔いが治ったら、おいでなさい」と付け加えた。
 なんの因果か因縁なのか、開高さんのお宅のドアを叩く時、私はいつもひどい二日酔いだった。読み物専門の小説雑誌から純文学の極北とまで呼ばれた「群像」に配属になって、精神のバランスを失していたのかもしれない。
 新宿のゴールデン街や二丁目はじめ、いろいろなところで、毎晩のように、朝方近くまで酒を飲み、いまとなってはどんな話だったのか憶えていないが、同僚たちや他社の文芸編集者と、小説のことや文学のことと思っていたことを語りあったりしていたのだ。
 そんな朝に、私は自分のものとは思えない身体をベッドから引きはがすようにして、シャワーを浴び、着替えを済ませて、開高さんのお宅に向かった。まだ酔いが完全に抜けていなくて、自分でも顔を背けたくなるくらい臭い息を吐き、充血した眼をしていたはずだ。
 誰の目から見ても、明らかに二日酔いだと分かる態で現れた私に、三回とも玄関まで出てきた開高さんは直接、原稿を手渡してくれた。
「二日酔いが治ったら、おいでなさい」
 この言い方は、とてもやさしく響いた。
 会社に向かいながら、二日酔いなんか吹っ飛んだような気がした。
 ところで、このころの開高さんは、こんなように自分のことを書いている。つまり、
 「確か一昨年(一九七五年)のことだった。某日、書斎にすわりこんだきり仕事が一歩もすすめられなくている私」(『オーパ!』)
 小説はほとんど書かずに、「サンデー毎日」の一九七五年1月2日号から二年間、エッセイ「開口閉口」の連載はしていた。
 開高さんがそんな状態でも、私は茅ヶ崎の東海岸に新築した、日当たりのいいお宅に何度か足を運んで、これから「群像」に小説を書いてほしいと頼んだ。
 開高さんは、すぐに書くとか書かぬとか言わずに、
「ま、そのうち」
 と、口を濁しながら、ときどき催促に来てちょうだいとつけくわえた。
 これだけでも嬉しかった。ようやく、自分の仕事がはじまったと思った。
 開高流に言えば、「毒蛇は急がない」だ。
 開高さんの書斎は、ワイン色の絨毯が敷いてあって、壁に造り付けの大きなテーブルがあり、堀こたつみたいに足を下ろせるようになっていた。机の上に、大ぶりなオールド・ファッションド・グラスが置いてあった。そのグラスに氷をいっぱい入れて、ジンか、ウオッカを注いで、それを飲みながら書いていく。そして、酔ってきたら、筆を置く。
 それが開高さんの書くスタイルだった。命を削りながら書いていると、ぼくは思った。
 そう言えば、私が、酒にキックが強いとか弱いとか言う表現があるのを知ったのも開高さんのお宅でだった。
 開高さんは、編集者を戦友のように、とても大事にしてくれる作家だった。亡くなったあとの追悼番組や当時の担当編集者の回顧的談話でも、誰もが開高さんに一番愛されたのは自分だと思っている節がある。
 私も、開高さんと話し込んだあと、お宅を出て茅ヶ崎から電車に乗って、東京に向かう間、編集者になってよかったとしみじみ思いながら帰ったものだ。
 
 開高さんの新築の家のトイレの壁に、一枚の紙が貼ってあって、そこには開高さんの字で、
「悠々として急げ」
と書いてあった。
 古代ローマ帝国の皇帝アウグストゥスの言葉だと言われているが、トイレの中にあるにはうってつけの言葉だし、御叱呼や雲古をしながら人生を考えるにふさわしい言葉でもあった。
 開高さんの言葉は、心に染みる言葉が多い。
「漂えど、沈まず」
 これも開高さんがよく口にした言葉だ。ラテン語で、「Fluctuat nec mergitur」と書く。揺れども沈まずといったような意味だという。パリでは、古くから市の紋章の中に書かれている。成熟したパリが好きだった開高さんにぴったりの言葉だ。
 一九七六年に、「オーパ!」のplayboy誌の連載が決まり、一九七七年の八月から九月 までが取材となった。その頃のことだと思う、開高さんの書斎の壁に、大きな鱒の剥製が飾られるようになったのは。ほかのことには、自慢めいたことは言わない開口さんだったが、この剥製のことを話すときは、実に、自慢げな顔をした。

 開高さんは食通だったし、ワイン通でもあったが、しかし、世界の下町やスラム街の屋台料理や、ゲテモノなども果敢に食べる人だった。
 開高さんのお宅に伺うと、必ず、なにか酒をご馳走になった。私が二日酔いになるほど、酒飲みだということを知っているせいだったかも知れない。
 老酒の瓶の底に、鼠の胎児が何匹も浮かんでいるのを見せてもらったこともあった。
「田鼠の胎児。田鼠は田圃の根だけを食べる鼠だから清潔なんや。アルコールが染みてるから、老酒を飲んだあとで、料理したら旨いぜ」
 そう嘯きながら、私の手元のグラスに注いでくれた。私も浮かんでいる鼠の胎児たちから目をそらしながら、平然とした顔を装って、飲み干した。それをじっと見ていた開高さんは少しつまらなそうな顔をした。
 あるとき、緑色をした瓶を出してくれた。瓶を傾けて、私の目の前の小さなショット・グラスに酒を注いでくれた。酒は透明だった。そのとき、傾けた瓶の口から、褐色がかった青い色の、干からびた青虫が飛び出してきて、私のグラスの中に飛び込んだ。
「おや、失礼」
 澄ました顔をした開高さんは、そう言って、指先でその虫を摘んだ。それを元の瓶に放り込むと、
「テキーラや。サボテンにだけ住む虫がおってな。サボテンに小便をかけるんだが、それが太陽に照りつけられ、白い塩分だけが残って塩になるんやな。それを舐めながら飲むのが、本場の正式な飲み方」
 私は顔色を変えないようにしながら、一気に飲み干した。少し苦いような味がした。
 このときもやっぱり、開高さんは、少しつまらなそうな顔をしたと思う。

 私がいまでも拳拳服膺している開高さんの言葉がある。
 ある日、お宅にうかがったとき、たまたま、カルフォルニア・ワインが届いていた。たぶん開高さんに試飲を頼んで、送りつけたものと思われた。いまから五十年近くも前の話だから、日本のワイン文化が成熟する前の時代のことだ。
 目の前に、おかしな格好の瓶に入った白ワインがあった。PAUL MASSONと書いてあった。 
普通のワインのボトルと違って、実験に使うビーカーを思わせる形をしていて、広がった口の蓋はもちろんコルクではなくて、アルミニウムかなにかの金属でできて、開高さんは、その蓋の縁に両方の親指の腹を当てがって、上に押し上げるようにして蓋を開けた。その瞬間、プシューという音が聞こえた。
 当時の値段で、八百円近くしたろうか。安いワインだった。
 味は淡白だったように思う。
 開高さんはこのとき、
「ワインは普段は安物を飲むべし」
 と、言った。
 私は耳を疑った。
 骨董だって、普段からいい物を見て目を肥やすというではないか。
 ワインだった同じではないのか?
 私はそんな疑問を顔に貼りつけていたのだと思う。開高さんは、その私の顔に向かって言った、
「日ごろ、安いワインを飲んでいると、いいワインに会ったときの感激が大きいんだよ」
 それはそうだろうが……。
「じゃあ、君のウチで、マルゴーに合う食事を作れるかい」
私にはひと言もなかった。その通りだ。ウチでマルゴーに合う食事なんて作れるわけはない。
私は、いま、安ワインを通販で取り寄せてはそれを飲むようにしている。そのとき、口には出さないが、「ワインは普段は安物を飲むべし」という開高さんの言葉を繰り返す。
 ただ、くれぐれも口惜しいのは、ずいぶん長い間、マルゴーが飲めるような食事の機会がないことだ。

【執筆者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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