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【新連載】美咲凌介のSM掌編「どことなくSM劇場」第1話 縛られる男

人気SM作家美咲凌介による、書き下ろし掌編小説が連載スタート! 第1回目のタイトルは、「縛られる男」。幻想的なストーリーに漂う「どことなくSM」な香り……。美しい描写と、驚きのラストは、必読です!

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夏の初めの、空気が重く湿った、ひどく寝苦しい夜だった。ぼくは夢を見たらしい。いや、ひょっとするとそれは夢などではなく、何もかも本当にあったことなのかもしれない。しかしそれは、どちらでもいいことだ。ただ、たしかに夜だった。ふと気がつくと、その女はぼくの腹の上にいて、シャツの内側で汗ばんでいるぼくの胸に、細い指をゆっくりと這わせているのだった。

ぼくの目には、暗がりの中に光る、女の大きな二つの目が見えた。それからぼくの胸の上をしずかに這いまわる白い、何本かの指が見えた。やはり夢なのかもしれない……と、ぼくは思う。こちらを見つめる女の視線とその手の動きは、互いにどこか不自然な、奇妙な位置関係にあるようだった。起き上がろうとする……が、できなかった。いつのまにか、ぼくは縛られているのだった。白く細い、そしてどこまでもやわらかな無数の糸が、ぼくの身体を動けなくしていた。

女が目を閉じる。するとそこには、ただぼんやりとした、白っぽい霞のような塊しか見えなくなった。指が伸びてきた。その数本の白い指が、ぼくの鎖骨のあたりにまで、そろそろと這い出してきた。

その途端、それまで少しも動かすことのできなかったぼくの身体のどこかが、ぴくりと痙攣した。と、瞬く間に女の手はぼくの身体から離れた。するすると糸がほどけていくような感触がして、視界の隅にわだかまっていた白い塊は、薄い絹がひるがえるようにその形を変えた。そして、音もなくベッドの脇にある本棚の方へと移動していった。見る間に彼女は……そんなことがあるはずもないのだが……壁と本棚とのあいだの、わずかな隙間の中へと入りこんでしまった。

ぼくの身体は動きそうでいて、やはり動かなかった。目だけを動かして時計を見ようとしたが、それもできなかった。そのまま、ぼくはまた眠ったのだろうか。気がついたときには、夜が明けていた。

次の夜も、その次の夜も、女はぼくの部屋に現れた。ベッドの脇から少しずつ、本当に少しずつその身体を動かして、今度はぼくの首筋や頬に、自分の頬をすり寄せてくるのだった。女の身体も、そして指も、夜の中で奇妙なほどに白く見えた。彼女はごく薄い、半ば透明な衣装をまとっていた。その衣装がぼくの汗ばんだ肌にそっと触れ、同時に細い、ひそやかな動きをする何本もの指が、ぼくの首筋を、頬をそっと愛撫した。ぼくの身体はやはり動かなかった。あの不思議にやわらかな糸だけではなく、妙に冷たい彼女の肌の感触が、ぼくを縛りつけているようだった。

女はいつも、朝になると消えていた。本棚と壁のあいだのわずかな隙間から彼女は現れ、そしてまたそこへ帰っていくようだった。夜が明けるたびに、あれは夢だったのにちがいない、とぼくは思った。が、夜になり、彼女が再び現れると、これは夢ではない、夢でなどあるはずがない、とぼくは確信するのだった。彼女の指の感触はひどくかすかな、しかしこの上なくたしかなものだった。

女は次第に大胆になった。一週間も経つと、彼女はぼくの額や頬に口づけをするようになった。その口づけはなぜかひどく涼しくて、いっそ冷たいといったほうがよいほどの独特の感触がした。空気の濁った重苦しい夏の夜に、それは透き通るような快さだった。

彼女の唇は、いつぼくの唇に触れるのだろう。

夜ごと、眠るのが楽しみになった。

ぼくの生活は、少しずつ変わっていった。テレビを見ることもなくなった。本や雑誌を手に取ることもなくなり、ぼくは時々会社を休んだ。窓を閉じてカーテンを引き、薬の力を借りて昼間から眠ろうと努めた。彼女に会いたかった。少なくとも一度眠りにつかないと、彼女は現れないのだった。食事の量は減り、しかも不規則になっていった。ぼくはずいぶん痩せたらしい。しかし、それはどうでもいいことだった。あの女は何者だろう、と時折ぼくはそう思うこともあった。ただ夢の中にいるだけの存在なのだろうか、夜ごと、眠りの度に現れ、ぼくを縛りつけては、ぼくにそっと触れるだけのあの女は……

しかし、それもまた、どうでもいいことなのかもしれなかった。ただ、彼女に会うことだけが重要だった。ぼくはまだ、彼女の顔をはっきりと見たことさえなかった。声を聞いたこともない。ただ、涼しく光る二つの大きな目と、何本かの白い指、それだけが重要なことだった。それ以外のすべては……たとえば日々の生活や、届かなかった夢、あるいは未来、そしてぼくの元から去って行ってしまった人々の思い出など、それまでぼくが大切にしていたものが、次々とその意味を失っていった。何もかもが変わっていった。

ぼくが彼女から与えられているものは何だろう。ごく稀に、そんなことを思ったりもした。愛が人と人との結びつきの一つの形であるのならば、それは愛ではなかった。快楽が火のように人を焼き尽くすものならば、それは快楽でもなかったろう。それはただ微かな、そしてひそやかなよろこびでしかなかった。しかし何物にも代えがたい、不思議なよろこびだった。

秋が終わろうとしていた。ぼくはもう数日、会社に出ていなかった。最後に食事をしたのがいつか、思い出すことができない。薬を使いすぎているのかもしれない。自分が衰弱していることはわかっていた。だが、それは少しも重要なことではなかった。ぼくは眠るために、また薬を使った。

今が何時なのか、わからない。女の指が、ぼくの両の耳からこめかみ、そして頬へと少しずつ動いていく。彼女の大きな目がぼくの目の奥をのぞきこむと、次に血の気のない薄い唇が視界の隅をよぎったようだった。わずかに開いたぼくの唇に、何かが触れる。指だろうか。いや、そうではない。唇だった。彼女の唇とぼくの唇が、ついに触れ合ったのだった。身体全体に冷たい透明な衝撃が、稲妻となって走る。同時に、ぼくは初めて彼女の声を聞いたように思った。このまま、と彼女は言った。このまま、わたしたち……と、彼女はたしかにそう言ったようだった。わたしたち、ずっとこのままで……。

あるいは、それは声ではなかったのかもしれない。波打つ心の動きが、胸から胸へそのまま伝わっただけなのかもしれなかった。ぼくはしずかにうなずいた。わずかにあごの先が動く。彼女の両の手の指が、そっと包みこむように、ぼくの頬に触れていた。

ぼくは眠った。

その男の死体を発見したのは、彼のアパートを訪れた三人の会社の同僚だった。彼はベッドに横たわったまま死んでいた。部屋はよく片づいていた。ドアの鍵は開いたままだった。

三人の訪問者は、ひどく驚いた。それは、彼が死んでいたためばかりではなかった。死体の顔の上に、手のひらほどの大きさもある、真っ白な蜘蛛が一匹、ぴったりと張りついていたのである。

三人のうちの一人が、蜘蛛を追い払おうと、その体をボールペンの先で軽くつついた。蜘蛛は動かなかった。もう少し強く押してみると、その気味の悪い生き物はあっけなく床に落ち、よろぼうように移動を始めた。ベッドの脇の本棚をよじ登り、壁とのあいだにある隙間に入ろうとしたところで、それは再びぽとりと床に落ちた。やわらかそうな白い腹が見えた。

死んでいた。

蜘蛛を追い払った男は、なぜともなく、ひょっとしたらそんなことをしないほうがよかったのではないかと、その後幾度もそう思ったという。

◆おまけ 一言後書き◆

実はわたし(美咲凌介)は、SMも好きですが怪談も大好きです。これはSM的怪談のつもりです。十年ほど前にざっと書いていたものを、今回気合を入れて仕上げてみました。
                                                                     2018年10月1日

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