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美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第3話 麻子さんの話

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第3回目のタイトルは、「麻子さんの話」。麻子さんとはどんな女性なのか? 麻子さん自身が抱く、「あの人」への不思議な感情とは……? ミステリアスな雰囲気に包まれた一篇です。

Group of Diverse Friends Travel on Road Trip Together

どうしてこんなに寒いのか――と、ちらりと思ったが、一度ぶるっと身震いすると、麻子さんはまた、それまで考えていたことの続きを考え始めた。

その間も、ずんずん歩いている。時は冬の初めのある日の夕刻。場所は近所の河川敷に作られた遊歩道。時折、最近の流行なのか、なんだか妙に細いタイヤを履いた自転車が、麻子さんの横をすごい勢いで通り過ぎていく。風が冷たい。

さっきから麻子さんが考えているのは、会社の先輩にあたる、ある女の人のことである。麻子さんより、二つ三つ年上だろうか。先輩といっても、入社時以来世話になった、といったような間柄ではない。その人はつい数か月前、本社からやってきた人なのだ。それも麻子さんが所属するチームのリーダーとしてやってきた。優秀らしい。いや、たしかに優秀なのだ。それは麻子さん自身が、自分の二つの目でしっかりと確認したことなので、間違いはない。

おまけに、その人はなかなかの美人である。自己の容姿に絶大な自信を持つ麻子さんが、「まあ、あたしといい勝負するかな」と思ったほどの美人である。

気に入らないのは、そこかしら?

――と、麻子さんは思ってみる。麻子さんは、自分の心の中にある嫉妬心から目をそむけるような、そんなバカではない。いろいろと欠点も多いが、根っこが正直なので、自分で自分をだます度合いは、たいていの人よりはかなり低いだろう。麻子さんは考える。

たしかに、あの人はきれいだからね。あたしは嫉妬しているのかもしれない。嫉妬と言えば、あの人の立ち居振る舞いなんかも、ちょっと上品すぎるのかしらん。あんなのは、あたしには真似できないからねえ。あれは、だいぶ育ちがいいわ。でもでも――でもですよ? なんだか、そういうことじゃないような気がするんだなあ。これまでだって、あたしより美人な人は(ほんの少しだけど)いたし、あたしより仕事のできる人は(これはかなり)いたし、あたしより育ちのよさそうな人は(ずいぶんたくさん)いたけれど、こんな気持ちになったことなんて、なかったものね。最近のあたしときたら、気がついたらあの人のことばかり考えてるじゃないの。まったく、いやになっちゃう。

たしかに、そうなのである。最近、麻子さんはその人のことばかり考えている。しかも、考え始めると、なんだか胸の中がキューンと絞めつけられるようで、まったくもって異様な事態なのである。

この間もそうだった。会社でその人が、麻子さんに「あなたって思ったよりもずっと手堅いお仕事をするのね」などと話しかけてきたのだが、麻子さんはまたキューンッとしてしまって、妙におどおど、小さな声で「ありがとうございます」なんて、返事をしてしまった。そんなのは、まったく麻子さんらしくないことであった。

さて、このあたりで、麻子さんの人となりについて説明しておこう。といっても、これが難しい。なかなか複雑な人間なのである。まず確実なところから述べていくと、年齢は二十七歳。独身。会社員。地元の国立大学の経済学部を卒業。二人姉妹の姉の方で、自宅で両親と同居。妹はつい先日結婚して、家を出ている。家にはシロといって、五歳になる大きな白いオス犬もいる。シロという名は麻子さんが付けた名である。この犬が家にやってきたとき、両親と妹はレオだのマロンだのココアだの、なんだかこじゃれた名を一生懸命考えていたのだが、「白い犬なんだからシロでいい!」と麻子さんが一喝、そのまま何の変哲もないシロになってしまったのは、犬には少し気の毒だったか。

麻子さんの性格を上手に説明するのは、本当に難しい。そこで、ちょっとした逸話を一つ紹介して、あとは読者のご判断にお任せすることとする。

いつか麻子さんは、ある小説を読んでいた。そこには、こんなことが書いてあった。

ある男が道を歩いている。と、石がひとりでに動いているのを見つける。実はそれは、子どもが石に紐をつけて引っ張っているだけだったのだが、男は「石が勝手に動いているという天変地異を見て、それを不思議だとも何とも思わなかった自分の、疲れきった心のありようがかなしい」と、まあ、そんなようなことを思うのである。よくはおぼえていないが、麻子さんの記憶では、たしかそんな話であった。

その男の気持ちが、麻子さんにはさっぱりわからないのだ。麻子さんも似たような経験をしたことがある。ある夜、麻子さんはクルマを運転していた(麻子さんは自分の金で買った軽自動車を保有している)のだが、歩道を一足の靴だけがひょいひょいと歩いていくのを見たのだった。

あっ、靴だけが歩いているな。

と、麻子さんは思ったのだが、それをちっとも不思議には感じなかった。というのも、それを見た途端、麻子さんの思考は、当時自分が買おうと思っていたスニーカーの値段(高すぎる!)の方に高速で移って行ったためで、そのときの麻子さんにとっては、靴だけが勝手にその辺りをうろつき回ろうがどうしようが、まったくもってどうでもいいことだったわけなのだ。

なお、もちろん靴だけがひとりでに歩き回るというはずもなく、そう見えたのは、全身黒っぽい服を着ている人の履いた靴の、その踵の部分に貼ってある反射板だけが、クルマのライトを反射していた――と、ただそれだけのことであった。

そういうわけで、石が勝手に動いているのを見ても無感動な、その心がかなしい――といった気分は、麻子さんにはどうにもわからない。自分に直接の利害がなければ、石がひとりでに動こうが、靴が靴だけで歩き回ろうが、どうでもいいではないか。なぜ、「かなしい」などとメソメソしなければならないのか。

まあ、麻子さんというのは、そういう人である。

麻子さんは、まだ歩いている。そして、まだ例の人のことを考えている。が、麻子さんの偉いところは、このままぐるぐる考えていたって仕方ない、ということに気がついた点だ。もっと秩序立てて考えなければ。こう見えても、麻子さんは美貌だけでなく、自分の知性にもなかなかの自信を持っているのである。

つまり、あたしはあの人をどうしたいのか。その線から考えていくべきね。なぜって、あの人がどうだから気に障る、こうだから気にかかる――なんて、いくら考えていても、キリがないもの。いったいあたしは、あの人をどうしたいのか、あの人にどうしてほしいのか。これこそ未来志向の考え方ってものじゃないかしら。

――と、そこまで考えた瞬間、麻子さんの脳裏に浮かんだ光景に、麻子さん自身がどきりとした。あまりにも思いがけないものだったのだ。これ何? あたしが望んでいるのって、こんなことなの? 本当に?

それは、こんな光景であった。

どこか居心地のよさそうな部屋で、麻子さんはゆったりとソファに腰かけ、煙草を吸って(麻子さんは煙草を吸わない人だが、煙草を吸う自分の姿を想像するのは、ちょっと好きだ)いる。足元には、あの人が裸で――文字通りの全裸でひざまずき、ガラスの灰皿を捧げ持っているのだ。

重そうな灰皿である。その人の腕はもうずいぶん疲れているらしく、小刻みに震えている。今にも灰皿を落としてしまいそうだ。あぶない。いや、じきに支えきれなくなることは、麻子さんにはすっかりわかっている。

ほら。麻子さんが吸い終わった煙草を灰皿に押しつけると、その人は「あっ」と小さな声をあげて、灰皿を落としてしまった。灰が散らばった。

「お前は役立たずねえ」

「申し訳ありません」

麻子さんの想像の中で、その人は床にはいつくばり、上目遣いにこちらを見上げている。これから起きることが怖いのか、肩がぶるぶると震えている。

「また罰をあげなくちゃね」

そこまで思い描いたところで、麻子さんはすっきりと得心がいった。そうだ。つまり、麻子さんは、その人を罰してみたかったのである。でも、いったい何の罪で? 麻子さんの空想の中でこそ、その人は灰皿を落とすという粗相をしてしまったわけだが、現実では粗相どころか、仕事も態度も立ち居振る舞いも完璧で、だからこそ麻子さんはきりきり舞いをするような気持ちになっていたのではなかったか。

だが、それもちゃんと麻子さんにはわかってしまった。つまりは、けちのつけようがないというところが、罪なのだ。罪なきことが、まったくもって最大の罪なのである。ああ、罪なきことが最大の罪だなんて、あたしってなかなか気の利いたことを言うじゃないの。

では、次に――と、麻子さんは相変わらず歩き続けながら、思いを進めた。いったいどんな罰をあげるのがいいのかしら。少なくとも想像の中だけでは、どんな罰だって下してあげられるんだから、遠慮なんかしてちゃダメね。うんと厳しい、恥ずかしい罰をあげないと。なんてったって、ここ何カ月も、あの人のことであたしの頭の中はいっぱいいっぱいだったんだもの。

――と、ふいに横合いから声がした。

「ちょっと、そこのお嬢さん」

二十七歳にもなった女をつかまえて「お嬢さん」とは、失礼じゃないかしら。ひょっとするとセクハラか?

そう思いながら、声のした方を見ると、防波堤の土手を背に、ぽつんと一軒の露店が出ていた。全く妙な話である。この遊歩道は、夏の花火大会のときなどには露店が軒を並べるが、今は冬。別に何のイベントがあるというわけでもない。それなのに、露店が――それも一軒だけ出ているなどとは、まことにうさんくさい。

「あたしのこと?」

「そうです、お嬢さん。あなたを呼びました。ちょっと寄っていらっしゃい」

店にはランプだとか燭台だとか、西洋の骨董めいたものが、所狭しと並べられている。主人は、髭を生やした男。その髭に白いものが大量に混じっているので、かなり年寄りのようである。

「あなたの欲しい物が、ちゃんと売ってありますから」

「おじいさん、あたしの欲しい物がわかるの?」

と言うと、麻子さんはずんずんとその店の方へと近づいていった。靴だけがひょいひょい歩いているのを見ても、何とも思わない麻子さんである。ものに動じない女なのだ。

「ちゃあんと、わかりますよ。あなたの欲しいものと言えば、ほら、これでしょう」

男は、棚に並んでいるたくさんの小瓶の中から一つをとって、麻子さんの目の前に差し出した。露店には、裸電球がいくつか備えつけられている。その明りに照らされて、小瓶の中の液体は、淡い紫色にゆらゆらと揺れている。

「これ、何さ?」

「薬です」

「何の?」

「人を好きなように操ることのできる薬です」

「ほう」

――と、声を上げて、麻子さんはもう一度、その小瓶の中味をじっと見た。さっきは紫色に見えた液体が、今は緑色に変わっていた。

「インチキくさいわねえ」

「けっこう。そのインチキくさいという前提で、聞いていただきたいんですがね」

男は続けた。

「この薬を使えばね、お嬢さん。その相手に、裸踊りをやらせることだって、できるんですよ? そういうことを、あなたはお望みなのでは?」

「ほう」と、麻子さんは、また声を上げた。

裸踊り! たしかに、あの人に与える罰として、裸踊りは最高なのかも。それも、なるだけぶざまなポーズをさせたいものね。――と、麻子さんは再び考え始めた。普通の人ならば、なぜ店の主人が唐突にそんなことを言い出したのか、疑念を抱くところだろうが、そこはそれ、靴だけが歩いているのを見ても、平然と自分の欲しいスニーカーの値段のことを考える麻子さんである。くどいようだが、物に動じない女なのだ。

でも、裸踊りというのは、あんまり下品すぎるかしら――麻子さんの思いは続く。それよりも、ラジオ体操の方がいいかも。体操は健康にもいいし。もちろん、あたしのものになる以上、健康でいてもらわなくちゃ困るしね。それに、そもそも性欲だって、健康でなくては湧いてこないだろうし。

それにしても、どうして性欲なんてことがでてきたのかしら。おかしい。あたしにそんな趣味あったっけ。あったのかもしれない、今まで気づかなかっただけで。うん。性欲、それもよし、だ。あの人が裸で体操をしていると、どんどん性欲が高まるという設定もいいわね。恥ずかしくて恥ずかしくて、それで興奮してしまうの。そして最後には、涙ぐみながら、あたしにお願いする。――麻子様、もう、わたし我慢できません。

そうしたら、許してあげてもいいわね。それから、あたしの指で、あの人の裸のあちこちをさわってあげるの。どう? 気持ちいいのはここ? それともここか?

――と、そこまで考えて、麻子さんは、うんとうなずいた。これは、買っておこう。インチキだということは、ちゃあんとわかってる。もちろんインチキですとも。でも、世の中には万が一ってことがあるから……。

「どうします? お嬢さん」

「お値段次第ね」

と言って、麻子さんが薬瓶に手を伸ばしかけたときである。突然、横合いから野太い声がした。

「おい、インチキだろ? そんなもの!」

店の主人が「ひっ」という情けない声を上げる――と見る間もなく、ぐるぐるっと、あたりの空間が、渦を巻いた。ふいに、風が耳たぶのあたりをかすめる。冷たい。

「あっ」という小さな声が麻子さんの口から飛び出すのと同時に、店は主人もろとも、つむじ風に巻きこまれていった。それはなんだか妙に細長い風船のような形で、しばらく辺りをくるくるくると回っていたが、やがて消えた。

大声を出したのは、麻子さんの恋人だった。

そう言えば、二人でいっしょに、夕暮れの散歩を楽しんでいたのだ。あたしったら、この人を放り出して、自分の考えにふけってばかりで――と、麻子さんはちょっと反省した。麻子さんにだって、反省はできるのである。だが、ずいぶん長く歩き、考えこんでいたようだけれども、考えてみれば三分ほどのことにすぎない。というのも、麻子さんのいつもの散歩コースで、この河川敷の遊歩道を歩く時間は五分程度、今はその半分ちょっとのところまで来たにすぎないのだ。

やっぱり、男の人って、頼りになるわねえ。一声出しただけで、あの怪しい老人も、店も、吹き飛んでしまったじゃないの。でも、でも、何か変?

麻子さんは、また首をかしげた。どうも今日は、頭が混乱している。

そもそも麻子さんに恋人なんて、いたのだろうか。いや、そんなはずはない。じゃあ、今、隣を歩いている、この男は?

麻子さんは、気を取り直して、確かめてみた。いったいあたしは、誰と歩いているのだ?

そこには、真っ白な犬がいた。真っ白で、大きくて、フサフサの毛をした、麻子さんの愛犬、シロである。

「なんだ、シロ。あんただったの? 偉かったねえ。おかげであたし、ダークサイドに堕ちずにすんだわ」

シロは、ワンと一声、吠えた。その声が妙に得意げだったので、麻子さんはちょっとおかしくなった。立ち止まり、しゃがみこんで、シロの体をモフモフッと撫でてやった。長年のつきあいである。どこをどうしてやればシロが喜ぶか、麻子さんにはよくわかっている。

「気持ちいいのはここか? それともここか?」

シロは、ワフワフ言いながら、身もだえした。しばらくそうやってシロと遊んだ後、麻子さんは、なんだか妙に満ち足りた気持ちで、家路についた。

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◆おまけ 一言後書き◆

作中に出てくる、「石が歩いている云々」という記述のある小説とは、太宰治の『葉』のことです。初期短編集の『晩年』の中にあります。青空文庫で読めるようです。

2018年12月15日

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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