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美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第8話 デッサン人形マリーの沈黙

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第8回目のタイトルは、「デッサン人形マリーの沈黙」。その人形がいつ、「わたし」の部屋にやってきたのか? そしてその人形と交わされる艶めかしい会話……。不思議な世界に誘われる一篇です。

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その人形がいつ、どんな経緯でわたしの部屋にやってきたのか、よくわからない。自分で購入したのでないことだけは確かだ。だから誰かが持ってきた、ということになるのだろうが、さて、それは誰か。わたしは二十歳を少しすぎたころ――つまり今から三十五年ほどの昔――友人数人と古い大きな一軒家を借りて、共同生活をしていたことがある。当時はそれぞれの知人が家に出入りすることも多く、そのうちの一人が持ちこんだものかもしれない。その後、共同生活者は一人去り、二人去りして、最後には私一人だけがその家で暮らしていた。去っていった人たちは皆、不要な物を残していったが、そのうちの一つがこの人形なのかもしれない。

一人で住むにはさすがに広すぎたその一軒家を引き払ったとき、たくさんの物を処分した。が、人形一体ならば別に場所を取るわけでもなし、元は誰のものとも知らないまま、その後の数回の引っ越しの度、わたしがその人形をずっと連れてきてしまった、ということかもしれない。

とにかく、気がついたときには、その人形はわたしの部屋の、小さな本棚の上にいたわけである。

ここでその人形の姿形について、ちょっと説明しておこう。素材は木。身長は三十センチほど。スレンダーな体型。形のよい頭には顔は描かれておらず髪もなく、男なのか女なのか、それもはっきりしない。わたしは勝手に女だと思いこんでいたのだが、今改めてみると非常に中性的な肢体をしている。そして――この点が重要になってくるのだが――この人形は、関節が動くのである。

今、この文章を書きながら、ネットで「人形 木製 関節」で検索してみた。どうやら、この手の人形を「デッサン人形」と呼ぶらしい。興味のある方は検索して、どんなものなのか確かめていただきたい。さて、そんな名前がついているということは、絵を描く人が使うものなのか。確かに関節が動くので、好きなポーズをとらせることができる。だから、デッサンの練習などには便利なのだろう。

そして、わたしもまあ、同じような目的で、この人形を使ったわけである。

以前にも書いたが、わたしは自分でSM小説と考えているものを、何冊か世に出した。その三つ目か四つ目の作品を書いていたころ、つまり今から十七、八年前のころのこと。登場人物の姿勢の確認をするのに、この人形を使えばいいということに気がついた。

SM小説というやつでは、登場人物たちは裸になるだけでなく、四つん這いになったり平伏したり、しゃがんだり吊り上げられたりと、いろいろな姿勢をとることになる。そのときの裸の見え方というものが問題で、「そんな姿勢をとっているときに、その部分は見えるはずがないだろ!」というようなことがあっては、はなはだまずいわけである。そのまずい事態を避けるべく、わたしはこの人形を大いに活用した――つまり、人形にいろいろと恥ずかしい姿勢をとってもらったというわけ。

そんなことをしているうち、わたしは人形と話をするようになった。

――などと書くと、頭が変になったのかと言われそうだが、そうではない。いや、少しは変になっていたのかもしれないが――まあ、聞いていただきたい。それはこんな次第である。

今とちがって、当時のわたしは、SM小説を書く以外の仕事をしていなかった。そして、その小説は雑誌に連載されるものではなく、書き下ろしで出版される予定のものであった。だから、編集者との連絡も一月に一回程度、いや、もっと少なかったか。それで家族もいない一人暮らしであるから、ほぼ一日中誰とも会わず、口もきかず、ただワープロ(当時はまだワープロを使っていた)で、文字を打っては消し打っては消しするだけの日々が、延々と続くのである。すると、どうなるか。

少しばかり、変になってきますな。

たとえば、部屋に面した道路で中学生の男女がひそひそ話を続けている、その声が異様に気になったり、次には、ああ、またあいつらが話をしていると思って、窓からのぞいてみると誰もいない、ただひそひそと話をする声だけが耳に残っていたり、あるいは大学時代、アパートの部屋でウサギを飼っていた女の先輩がいたはずだが、その先輩の名前がどうしても思い出せず、なぜだか涙があふれてきたり。

そして、夢と現実が妙に入り交じってくる。そもそも道路でひそひそ話を続ける中学生の男女も、ウサギを飼っていた先輩も、それはただ夢で見ただけのものかもしれず、その実在を確かめることができないのである。

人形のマリーとよく話をしたのも、そのころのことである。人形が自分でマリーと名乗ったのか、わたしが名づけたのか、今では憶えていない。

「ねえ、おじさん。いつまであたしのこと、こんな格好で放っておくのさ」

「ああ、悪かった。つい寝こんじゃってたよ」

わたしは、開いていたマリーの脚をそっと閉じて、お行儀よく本棚の上に座らせてやる。

「よくもまあ、次から次にいやらしいポーズを考えつくものねえ」

「まあ、それも仕事の一つだからね」

「そんな仕事、よくないと思う。頭の中、エッチなことでいっぱいにしてさ」

「エッチなことだけじゃないよ」

「じゃあ、ほかに何があるの?」

「あのね」

――と、わたしは少しだけ威儀を正して、

「人間の誇りとは何か、自立するとはどういうことか、愛と依存とはどうちがうものなのか、それとも少しもちがわないものなのか、そういうことも考えないと、SM小説は書けないんだよ」

「言い訳しちゃってさ」

マリーはそう言って、ぷいと横を向く。いや、人形が横を向くはずはないが、そんなふうに感じるのである。

今思うと、マリーと話をしたとき、部屋はいつも薄暗かったように記憶している。とすれば、それはわたしが原稿に疲れて寝入り始める明け方か、それとも昼過ぎに目をさましたあと、ぼんやりテレビなどを見て昼間を過ごし、そろそろ仕事にかかろうかという夕暮れ時だったのか――

だが、要するに、わたしは人形と話をする夢を見ていただけなのだろう。そして、その夢が現実の中に少しだけはみだしてきた、それだけのことなのだろう。

そのころ、わたしの周囲はいつも曖昧だった。曜日の感覚もなくなっていくし、昼と夜の感覚も鈍くなっていく。目が覚めたとき、明け方なのか夕方なのかすぐには判別がつかない。そんなことも珍しくなかった。

そして、たいていのことがどうでもよくなっていくのである。気になるのは遠い先にある締め切りと、本になったら入ってくるはずの印税の多寡、そしてその印税でその後の数か月(場合によっては一年)の生活が成り立つのかどうか、という漠然とした不安。そうしたこと以外については、今思えばおかしなくらい無関心になっていて――だから、自分が毎日人形と埒もない会話を繰り返している――そうした夢を見ていて、それが現実と区別がつかなくなっているという不思議な事態を、不思議とも感じなかったのだろう。

だが夢とばかりは言えない、そんなことも、ないわけではなかった。

マリーがひどく腹を立てた翌日、姿が見えないということも、時々あったのである。そんなとき、マリーはたいてい隣の部屋の、いくつもある本棚のうちのどれかの上に、ちょこんと座っていたりするのだった。

また別の日のマリーとの会話。

「ねえ、おじさん。おじさんは、あたしのおかげで、その小説を書くことができるのよね。あたしにいやらしいポーズをとらせて、いろいろ調べてるおかげで」

「いや、君がいなくても書けるさ。ただ、君がいてくれたらちょっと手間が省けるだけだ」

「感謝知らずねえ。感謝できないっていうの、人として最低だと思う」

「失礼な。君にはいつも感謝してる」

「そう? じゃあ、あたしによくしてやろうっていう気持ちはあるの?」

「どうしてほしい?」

「あたしの体、あちこち汚れてるみたい。きれいにしてほしいな」

「そうか。それなら、拭いてあげるよ」

「拭いてあげるですって。いやらしい」

「じゃあ、どうしろと言うのかね?」

「そうねえ」

マリーは、しばらく考えこんで

「やっぱり拭いてもらうしかないみたい」

「だろ?」

というわけで、わたしはティッシュを使って、マリーの体を隅々まで、丹念に拭いてやった。確かに汚れていた。わたしがむやみに煙草を吸うせいだろう。

「これからは、ときどきこうして、きれいにしてくれなくちゃ、いやよ」

「了解」

そして、わたしは眠ったのだろうか。そうだ。確かに眠ったのだった。だから、やっぱりあれは皆、夢だったのだろう。

そんな日々が続いていたある日のこと。

数年ぶりに、わたしの部屋に来客があった。従妹が夫と娘を連れて遊びにきたのである。

もちろん当時のわたしは、親戚に自分がSM小説を書いて暮らしているなどとは言っていなかったし、今でも言っていない。だから親戚の間では、わたしはフリーライターだということになっている。それは全くの嘘というわけではなく、SM小説を書き始きはじめる前まではそれに近い仕事を引き受けていたし、今ではまた、小説ではない原稿を書く仕事に戻っている。

従妹の夫は、そのころ地場の出版社に転職して営業を始めたということで、なにか参考になる話を聞きたいと、近くに遊びにきたついでに、わたしの家に寄ったというわけ。もちろんこちらには、参考になる話の持ち合わせなどはなく、転職の苦労について聞かされるだけの会合に終わってしまったが。

従妹の娘は、四歳になったばかりということだった。大人たちが話をしているあいだ、わたしはその子に、マリーを貸してやった。

「お人形さん、貸してあげる」

「お人形さん、お人形さん」

「その子は、マリーっていうんだよ」

「マリー、マリー」

従妹がちょっと笑って、わたしに言った。

「あんた、人形に名前つけてるの?」

「今、適当に思いついただけさ」

従妹の子は大人しく遊んでいたが、しばらくして突然、「あっ」という声をあげた。振り返ると、困ったような顔で、わたしたちを見上げている。その小さな手の中で、マリーは妙な格好に折り曲げられ――

左の腕がもげていた。

「こわれちゃった」

女の子は、泣きそうになっていた。

「大丈夫、大丈夫。気にしなくていいからね。古い人形だから、もう壊れかかっていたんだよ」

その夜の、マリーとわたしの会話。

「おじさん、ひどいじゃないの。今、適当につけた名前だなんて。あたし、ずっと前からマリーじゃないの」

「いや、夜な夜な君と話をしているなんて言うのは……ちょっと、ね」

「ちょっと、なに?」

「つまり、恥ずかしかったんだ」

「恥ずかしい小説ばっかり書いてるくせに。それに、もう壊れかかってたなんて。ひどいわ、噓ばっかり。あたし、少しも壊れてなんていなかったのに。あの子って、乱暴でさ」

「子どもは、力の加減を知らないんだよ。許してあげなきゃ」

「そりゃ、許してあげてもいいけど。ほら、あたしって、心がとっても広いから。でも、この腕、どうしてくれるの? 腕がもげちゃったのよ。痛い。痛くってたまらない!」

「痛いって、変だな」

「どうして」

「だって君は……」

「君は、なに?」

「君は、人形じゃないか」

「まあ」

――と、マリーは言った。そして、しばらく黙ったあと、もう一度だけ言った。

「まあ!」

それから十数年、一言も、マリーは口をきかない。

そして、今のわたしは、新しいSM小説を書いてはいない。初めて書いて、まだ出版されていないただ一つの作品の手直しを、いつか世に出ることを期待して続けているだけである。その代わりにSM小説ではない――いや小説ですらない原稿、名前の出ない原稿を、毎日毎日書き続けて糊口をしのいでいる。この仕事では編集者との連絡を小まめにとらなければならない。さらに物書きの仕事だけでは金が足りず、別の仕事にも手を出したので、人と話す機会が当時よりはだいぶ増えた。おかげで夢とうつつの境が紛らわしくなるということもなくなったようである。

マリーは、今でも隣の部屋の本棚の上に、ちょこんと座っている。そばには、もげた腕がそっと置いてある。

わたしは今でもときどき、マリーの体についた埃を拭いてやる。

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◆おまけ 一言後書き◆
念のためにお断りしておきますが、この話の三割くらいはフィクションです。ただ、人と話をせずに原稿ばかり書いていると、いろいろなバランスが崩れてくるというのは実体験でありまして、今後も注意をしなければと考えています。

2019年5月15日

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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