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【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第21話 冥府の女王ペルセポネはいかにして春の女神となったか

人気SM作家・美咲凌介による書き下ろし掌編小説・第21回目は、「冥府の女王ペルセポネはいかにして春の女神となったか」。誰もが虜になってしまう美しさと、人を翻弄する魅力を持ち合わせたペルセポネ。その周りではどんなドラマが展開されるのでしょうか。

ペルセポネ……ギリシア神話に登場する春の女神。コレー(乙女の意)とも呼ばれる。母は豊穣神のデメテル。父は神々の王ゼウス。地上で花を摘んでいたとき、冥府の神ハデスにさらわれた。これに怒ったデメテルがオリュンポスを去ると、地上は荒廃し作物は実らなくなってしまう。神々はハデスを説得したが、ペルセポネは冥府のザクロを口にしたため地上に戻れない身となっていた。しかし、食べたのは実の中の十二粒のうち四粒だけ。そこでゼウスの裁定により、一年の三分の一は冥府、三分の二は地上で暮らすことになった。四季ができたのはそのためである。ペルセポネが地上にいるあいだはデメテルの機嫌がよいため草木が育つ。これが春から秋。ペルセポネが冥府に入るとデメテルは鬱々として楽しまず、草木は枯れ果てる。これが冬である。ペルセポネは冥府では女王であり、ハデスの傍らで罪人の審判にあたる。また嫉妬深い一面もあり、ハデスの愛した精霊メンテを足で踏みつぶして殺し、呪いで草に変えたとも伝えられる。この草がミントである。

地上に季節というものがなく、どの月もどの月も草木が育ち、花が咲き、穀物が実っていたころのこと。

小高い丘の陰にある洞窟から、一人の男が姿を現した。冥府を支配する神、ハデスである。死ぬことのない神々にとって、年齢というものはあってなきに等しいが、人間ならば三十歳ほどに見える。ほっそりとした青白い顔は憂鬱そうで、鼻梁は鋭く尖り、引き締まった薄い唇はかたく結ばれている。

ハデスは時々、こうして地上に出てくる。出てきたところで、何か楽しいことがあるわけでもない。しかし、冥府にずっと閉じこもっていると、気が滅入ってならないのだ。冥府は常に薄暗く、たいていはしんと静まり返っている。それはかまわない。むしろハデスにとっては、そのほうがよいのだ。しかし、あの声。罪深い死者どもが上げるあの叫び声ときたら。

冥府の裁き――たいていはミノスやアイアコス、ラダマンテュスといった審判者がやってくれるので、ハデスはただそれを追認するにすぎないのだが――裁きの場に顔だけは出さなくてはならない。そして古き神であり、今は深遠そのものと化したタルタロスへ落とされる者たちの叫び声を聞かなければならない。

あの者たちは、きまって叫ぶのだ。一切の望みを絶たれ、ただ恨みだけが残った、あのいやらしい叫び声。あれを聞くのがたまらなく嫌だ。

欲張らなければよいのだ。地上は実りに溢れ、食い物は余るほどある。だが愚かな人間たちは分け合うということができず、飢えて死ぬ者すらいる。

飢えて死んだ者は、冥府ではまだ幸せだ。その者たちがタルタロスに投げ込まれることはない。哀れな、醜い叫び声をあげながら深遠に落ちていくのは、彼らではない。タルタロスに落ちるのは、地上で幸せだと思われていた者ども、自分でも幸せだと信じていた者どもだ。

なだらかな丘を降りると、草原が広がっていた。遠くに数頭の牛、その周りに何人かの人間がいたようだが、いつのまにか見えなくなった。ハデスが現れたのを知り、そそくさとその場を立ち去ったらしい。

いつもそうだ。冥府の王であるハデスを、人間どもが慕うはずもない。彼らのほとんどはなぜか、冥府に来ることを心の底から怖れているのだ。いつか必ず来なければならない場所なのに――そして、そこがどんな場所かを知りもしないのに――ただひたすらに怖れている。

右手に森が見えた。その森と草原との境目あたりに、若い女たちが群がっていた。たいていはひざまずいている。花でも摘んでいるのか――

見ているうちに、ハデスに気づいたのだろう。そのうちの一人が、慌てて森の中へと逃げ出した。すると、次から次に森の中へ入っていく。ただ一人だけ、逃げ出さない者がいた。それどころか、摘んだ花を片手に提げたまま立ち上がり、こちらに向かって歩き始めた。近づいてくるにつれて、それがまだ大人になりきっていない少女だということが見て取れた。

私のことを知らないのか――

ハデスが戸惑っているうちに、少女はもう目の前まで来ていた。小柄で華奢な、強く抱きしめたら折れてしまいそうな身体つきの、可憐な少女だった。二つの目が大きい。しっとりと濡れたように光って、ハデスの顔を見上げている。

ちらりと元の場所へ目を走らせると、逃げ出した女たちの何人かが、また顔を出し、心配そうにこちらを見ていた。そのうちの一人が何か叫んだようだったが、よく聞こえなかった。

いきなり少女が問いかけた。

「あなた、ハデスおじ様ですね。そうでしょう?」

ハデスは、黙ってうなずいた。もともと、おしゃべりが好きなほうではない。それに、地上で誰かに声をかけられるなどということが、これまでほとんどなかったのだ。

だが、ものを見る目はある。

人ではないな。精霊か――神の一族か?

だが神の一族で、この辺りにこんな少女がいるとは、これまで聞いたことがない。

「お前の名は?」

ハデスの問いに、少女は答えなかった。代わりに、別のことを話し始めた。音程の高い、だが、尖ったところのないまろやかな声だった。

「いつかお会いしたいって、あたくし、いつも思っていましたの。ハデスおじ様といえば、冥府を支配なさっている、とっても偉い方。ですから、ハデス様にお願いすれば冥府に連れて行っていただけるって、いつもそう思っていましたのよ。あっ……」

と、いきなり調子を変えて

「これ、さっき摘んだばかりのお花。水仙です。おじ様の髪を飾ってさしあげますわ。……まあ、素敵。とってもお似合いです。こっちのは、あたくしの髪に挿しましょう。ほら、これでお揃いですわ」

少女はぴたりと寄り添うと、ハデスの腕に自分の腕を絡ませてきた。

「さあ、参りましょう」

少女は腕を絡めたまま、どこまでもハデスのあとをついてくる。

「お前の母親が、心配するのではないか」

「少し心配させてほうがいいんですわ。うちの母って、とっても構いたがりなんですの。あたくしをいつも手元に置いておかないと、気が済まないんです。それにすごく……なんて言ったらいいんでしょう? 支配的とでもいうんでしょうか」

そこで、少女はハデスをまたじっと見つめた。見つめられていると、ハデスのほうも少女の目から視線が離せなくなる。

「ああしなさい、こうしなさいって、とっても口うるさいんですの。いいえ、もちろんあたくし、母を愛してましてよ。でも、いつまでも母親と娘がべったりしているのは、みっともないことじゃないかしら」

「しかし、それならなおさら、心配させてはいけないのではないかな」

「いいえ。ときには荒療治が必要ですわ。母は、そろそろ娘離れしてもいいころなんです」

「ところで、その……」

ハデスは、ためらいながら尋ねた。

「お前の母親の名は、何というのかね」

さっき少女の名を聞いて答えてもらえなかったので、母親のほうから素性を探ろうとしたのである。

「デメテルです」

「デメテルか。そうか」

ハデスは、少し安心した。デメテルならば、少しくらい行き違いがあったところで、たいしたことにはなるまい。デメテルはガイアを継ぐ地母神であり、豊穣の神でもある。人間どもに豊かな作物の恵みを惜しみなく与える、おっとりとした気のいい女だ。

そういえば、デメテルには溺愛している娘が一人いる、と聞いたことがあったような……

「では、お前の名は?」

「ペルセポネです」

「そうか、ペルセポネ。冥府は恐ろしいところだぞ。とてもお前には耐えられまい。だが、入口くらいなら、見せてやってもよい」

せいぜい冥府の王としての威厳を示したつもりだったが、あまり通じなかったらしい。

「まあ、あたくしも神の端くれ。恐ろしいものなんて、ありません。それに……ハデス様とごいっしょなら安心ですわ」

ハデスは、頬を赤くした。そんなことを言われて、少しばかり嬉しかったのだ。だが、このまま冥府の中まで連れていくわけにもいかない。どうしたらいいか――

ケルベロスを見たら、諦めるだろう。

ケルベロスとは、冥府の入口にいる巨大な犬である。首は三つあり、逆巻くたてがみは蛇、それに竜の尾を持っている。飼い主のハデスでさえ――決して自分には歯向かうことがないことを知ってはいても――見るたびにぞっとする怪物だ。あのケルベロスにちょっと唸られでもしたら、この少女も一目散に逃げだすことだろう。

「まあ、変わった犬ですこと」

ペルセポネは、洞窟の奥にいたケルベロスを見つけると、すぐに駆け出して行った。

「胴体は一つしかないのに、首が三つもありますわ。ねえ、ハデス様? この首同士が喧嘩を始めるなんてこと、ありませんの? もしそうなったら、おもしろいでしょうねえ」

突然、傍に寄られて驚いたのか、ケルベロスの三つの口が、ほぼ同時に低い唸り声をあげた。その口から、透明なよだれが滴り落ちている。

「あら、あたくしに向かって唸るなんて」

そう言うと、ペルセポネが片手を伸ばして、犬を打とうとする。

「危ない」

だが、ハデスがそう叫んだときには、ペルセポネはもうケルベロスの三つの首のうち、中央の首を細い腕で締め上げていた。空いた手で、ほかの二つの頭をピシピシと打っている。

「本当にお前は、悪い子ね。お前も……お前も。犬ころの分際で、生意気ですよ。……そう。大人しくしていれば、あたくしがたっぷり可愛がってあげますからね。ほら……ここをさわられると気持ちいいんでしょう? ほら、ほら。どう? まあ、いい毛並みねえ。とっても手触りがいいじゃないの」

ケルベロスはすっかり大人しくなって、されるままになっている。やがて背を地面につけ、腹を見せた。ケルベロスのそんな様子を見るのは、ハデスにとっても全く初めてのことだった。

「まあ、お腹を見せちゃって。情けないわねえ」

ペルセポネが、朗らかな笑い声をあげた。

「あたくしに降参したってことね。いいわ、じゃあ許してあげる。ご褒美にお腹をさすってあげるから、感謝しなさい」

ペルセポネは、冥府の奥深くまで入り込んでしまった。それだけではない。こんなことを言い出したのだ。

「ハデス様。こうして、あなたの妻となったのですから……」

「妻? 私はそんなつもりは……」

「でも、ハデス様。あたくしが冥府に来てしまった以上、そういうことになりますわ。だって、妻ということにしていただかないと、あたくしや母はいいですけれど……というより、母はきっとこの結婚に反対するでしょうけれど……ゼウス様が……」

そうだった。デメテルの溺愛している娘はゼウスとの間にできた子だ、という話も聞いたことがある。オリュンポスの王ゼウスの娘を冥府まで連れてきて、妻にもしなかったということになれば、話がこじれるかもしれない。

ゼウスとハデスは兄弟である。しかし、決して仲睦まじいというわけではない。ちょっとした話のずれが、オリュンポスと冥府との戦争にまでつながりかねない。

「では、形だけでも……」

「まあ、形だけだなんて。そんなこと、かえって侮辱的ですわ」

ペルセポネは、頬を膨らませた。

「ね、ハデス様。夫婦となった以上、あの……あの……」

両手の指を胸の前で絡ませながら、ペルセポネは少しだけうつむいて

「夜の大人の営みというんでしょうか……夫婦の体の契りというんでしょうか……そういうことを、しなければいけないと思いますの。ああっ。もちろんあたくし、ちゃんと覚悟はできていますわ。その証拠に、ほら……」

ペルセポネは、するすると着ているものを脱いでしまった。その白い裸身は、服を着ているときよりも、かえって伸びやかに見えた。まだ熟れきっていない二つの胸の膨らみの中央に、ほの赤い乳首が斜め上を向いて尖っている。ペルセポネのほっそりとした腕が、ハデスの身体に向かって伸びた。

「さ、ハデス様も早く裸になって」

気づいたときには、ハデスは夢中になってペルセポネの唇を吸っていた。

「あれが、タルタロスに投げ込まれる者たちですのね?」

「そうだ」

ペルセポネの問いに、ハデスは低い声で答えた。これから聞くことになる罪人たちの叫び声がもう耳に響くようで、気が滅入る。

「みんな情けない顔をして、ぶるぶる震えていますわ」

「地上では、人間たちのあいだで、王だの女王だの貴族だのと呼ばれていた者たちだ。分け与えるのが何よりも嫌いだった者たちだよ」

一人、また一人と、タルタロスへ投げ込まれていく。そして、決まってあの叫び声を上げるのだ。あの怨嗟に満ちた、それでいてもはや運命に抗う力も、それを受け入れる力もない、弱々しく長く響く声を――。

居室に戻ったときには、ハデスはすっかり疲れ切っていた。

なんという嫌な声だ――

寝台に腰かけ、背を丸め、両腕で自分の胸を抱えるようにして、ハデスがそう思ったときである。

「ああ、なんて素敵な声だったんでしょう!」

ペルセポネが、ハデスに抱きついてきた。

「あの声を聞いていたら、なんだか心が昂ってしまって……ね? ハデス様? あたくし、抱いていただきたいの。今すぐ、抱いていただきたいんですの」

ハデスはあきれ果てた。だが、抗うことができなかった。細かく震えながら、ハデスの指はペルセポネの服を脱がし始めた。

その日は朝から、ペルセポネの姿が見えなかった。だが、ハデスはそれほど心配していない。よくあることなのだ。ペルセポネは、冥府のあちこちを見て回るのが好きなようだ。時々はハデスの知らないようなことまで見つけて、嬉しそうに報告してくる。それに、最近はケルベロスに芸を仕込もうと一生懸命らしい。

昼すぎになって、若い従僕が心配そうな顔をして現れた。

「ハデス様。困ったことになりました。ペルセポネ様が……」

「ペルセポネが?」

「実は、メンテ様のお部屋に入ってしまわれまして」

「それはまずい」

メンテというのは、ペルセポネが冥府に来るまで、ハデスが愛していた精霊である。このところペルセポネに夢中になって、ついほったらかしにしていた。気性の激しい女で、腹を立てると何をしでかすかわからないところがある。身体も大きい。

ペルセポネに対して含むところがあるらしく――

「ハデス様も、あんな小娘のどこがいいのかしら。あたしのほうがずっと美しいじゃないの。今は珍しがってかわいがっていらっしゃるけど、いずれ飽きてしまうでしょうよ。ハデス様が飽きなくても、あたしがそのうちに追い出してやるわ。いいえ、殺してやるわ」

そんなことまで言っていたようである。

「なぜ早く報告に来なかった?」

「私もさっき気づいたばかりなのです」

従僕は、済まなそうな顔でぼそぼそと答えた。

「メンテ様のお部屋の前を通りかかりましたとき、ペルセポネ様の声が聞こえてきたのでございます。何か言い争っていらっしゃるようで……はい……」

「ますます、まずいではないか」

「ええ、まったくまずいことでございます」

ケルベロスすら怖れないペルセポネである。まさかメンテから殺されるようなことはあるまい。というより、そもそも神は不死だから、その点は心配することはない。それに、メンテもまさかゼウスの娘に乱暴を働くとは思えない。それでも、女同士の諍いなど、想像するだけで気が重いではないか。まさか、その仲裁をやらなければいけないのか?

だが、やらなければいけないようだ。従僕の手前、知らぬ振りもできない。

「わかった。私が行こう」

そう言うと、ハデスはいかにも憂鬱そうに立ち上がった。

部屋の扉を開けると、異様な光景が広がっていた。

大柄な女が丸裸になって、床の上に這いつくばっている。メンテだった。寝台には、これも裸になって、ペルセポネが腰かけている。唾液のはじける音が聞こえた。メンテが、ペルセポネの伸ばした足の指を舐めているのだ。

「あなた、ケルベロスより舐め方が丁寧で、気に入ったわ。でも……あなたはちょっと不利なの。だってケルベロスは、頭が三つもあるでしょう? だから舌も三つあるの。両足を同時に舐めながら、あたくしのお腹に鼻面をすりつけることもできるのよ。それに比べると、あなたは舌が一つしかないから、どうしても……ね?」

「申し訳ございません」

「いいのよ、メンテ。その代わり、あなたは一生懸命、心をこめて舐めればいいの。どう? 心をこめてる?」

「は、い……」

「どんな心を?」

「贖罪の心です、ペルセポネ様。メンテは嫉妬という卑しい心にとらわれて、ペルセポネ様のことを悪しざまにののしったりして、本当に愚かで、身の程知らずでした。申し訳ございません。これからは身の程をわきまえて、ペルセポネ様に歯向かった罪を償います」

「素敵。じゃあ、今度はこっちの足を舐めてちょうだい」

それまで右足の指を舐めさせていたペルセポネは、脚を組み替え、今度は左の足指を差し出した。メンテがすぐに、それを舐め始める。ペルセポネは、そこでようやくハデスのほうに顔を向けた。

「ハデス様。ちょうどよかったですわ。お呼びしようと思っていたところですの。ちょっとした誤解がありましたけど、今はあたくしとメンテ、とっても仲よしなんです」

ハデスは喉の奥で「ん……」と低く声を出しただけで、言葉では返事ができなかった。ただ小さく頷いて見せただけだ。

やがてペルセポネは、左足も引っ込めた。

「ずいぶん上手にできたわ、メンテ。ご褒美が欲しい?」

「はい」

「そう? じゃあ、ご褒美をあげましょう」

ペルセポネは、メンテの頭を右足で踏みつけた。メンテの端正な顔が床に押しつぶされ、苦しげな声が漏れた。

「はい、今度はこっちの足」

次は左足で踏みつける。

「どう? うれしかったら、ちゃんとお礼を言いなさい」

「ありがとう……ございます」

「ご褒美は、これだけでいいかしら。それとも、もっと別のご褒美が欲しい?」

「欲しい……です」

「どんなご褒美?」

「さっきのようにさわって……あたしの身体をさわってください。あたしの恥ずかしいところを……」

「可愛いわねえ。あっ、そうだ」

ペルセポネは、ハデスの顔を見て言った。

「ハデス様もごいっしょに楽しみませんこと? ほら、分け与えるって、とっても素晴らしいことですし……三人でいっしょに楽しみましょう」

「わ、私は……」

ハデスは口ごもった。身体がかたくこわばっていた。よほど気をしっかり持っていないと、そのまま言いなりになってしまいそうだった。

「私は、そういうのは好かん」

それだけ言うと、ハデスはくるりと振り向いて、急ぎ足で部屋から立ち去った。背後から、ペルセポネの高い笑い声が追いかけてきた。

そのころ、地上は大変なことになっていた。作物が全く育たなくなったのである。

デメテルは太陽神ヘリオスから、娘がハデスとともに冥府に向かったことを聞き、ゼウスに訴えた。だが、ペルセポネが正式にハデスの妻になったという報告を受けていたゼウスは、動こうとしない。腹を立てたデメテルは豊穣の神の務めを拒否し、地上に実りをもたらすことをやめてしまったのである。

人間たちが、飢え始めた。

「このままじゃ、ひどいことになりますよ」

冥府へ使いに来たヘルメスも、日ごろの楽天的な表情を失っていた。ハデスも――こちらはいつものことだったが――沈んだ顔で答えた。

「わかっている。このままでは、冥府が死者でいっぱいになってしまう」

「ゼウス様は、あなたがそうやって冥府の軍勢を増やして、オリュンポスに戦争をしかけるのではないかと疑っています」

「全くの濡れ衣だ」

「とにかく、一度じっくり話し合ってみたらどうでしょう」

「わかった。明日にでも、私のほうからオリュンポスに出向くと、ゼウスに伝えてくれ」

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とにかくペルセポネに言って聞かせなければならない――と、ハデスは思った。たとえハデスがペルセポネを返すと決めたところで、あの気儘な少女が素直に従うかどうかわからない。それに、ハデス自身もペルセポネを完全に失うことに耐えられそうもなかった。

考え得る解決策は、時々はペルセポネを地上に返してデメテルの機嫌を取らせ、ハデスの望むときには冥府に帰らせるようにする――これくらいしか思い浮かばなかった。だが、それでペルセポネが納得するかどうか――ペルセポネは今、ケルベロスに新しい芸を仕込むのに夢中になっている。そもそも、ペルセポネに事の重大さをきちんと理解させることができるのか――それ自体が問題のように思われた。

「まあ、母ったら、なんておバカさんなんでしょう!」

ハデスの話を聞くと、ペルセポネはつくづくあきれ果てた、といった顔をして言った。

「そんなことをしたら、人間が飢えてしまうじゃありませんか。今でも作物の取り合いをしているっていうのに」

「その通りだ」

「死者がどんどん増えて、冥府がいっぱいになってしまいますわ。まさか全員をタルタロスに放り込むわけにもいきませんし」

「その通りだ」

「冥府に人が増えたら、あの疑い深いゼウス様が、ハデス様が何か企んでいるんじゃないかと余計な心配を始めるかもしれません」

「全くその通りだ」

ハデスは、少し驚きながら、同じような返事を繰り返した。ペルセポネは、思っていたよりずっと利口だったらしい。

「もうっ。母ったら、何を考えているんでしょう!」

「それでだね、ペルセポネ。お前は、一度地上に帰ってデメテルを安心させ、それからまたここに戻ってくるということは、できないのかね」

「それはできません」

「どうして」

「一度帰ったら、母は二度とあたくしを傍から離しませんもの。それこそ、牢にでも閉じ込めてしまうかもしれません」

たしかにそうかもしれない。ペルセポネが冥府に来てからいくつかの月が過ぎ、ハデスにもようやくその神としての力がわかりはじめていた。ペルセポネの力は、とにかく全ての者の心を惹きつけてやまない――ということにある。たとえペルセポネからどんな仕打ちを受けたとしても、誰もがこの少女の虜となってしまうのだ。今ではあのメンテまでが、ペルセポネ様、ペルセポネ様と、後を慕って歩くありさまだ。

ペルセポネの母であるデメテルにしても、同じことだ。一度取り戻したら、二度と手元から離そうとはしないだろう。そしてデメテルには、その力がある。

「母が本気になったら、決して地上からは離れられません」

たしかにそうだ。地母神でもあるデメテルは、地上のことならどのようにでも差配することができる。あのときペルセポネを連れ出すことができたのは、まさかそんなことが起きるはずがないとデメテルが油断していたから――それに幸運が加わったというだけのことなのだ。

「では、どうする?」

「どうしましょう」

ペルセポネは、しばらく考えこんでいた。そして言った。

「あたくし、いい考えを思いつきましたわ。嘘をつくんです」

「嘘を?」

「そうです」

ペルセポネは、急に元気になって話し始めた。そして、話の終わりに、こうつけ加えた。

「最後はゼウス様自身が思いついたことのように、錯覚させる。ここが大切ですわ。ハデス様は不愉快かもしれませんけど、今は大人になってください」

「別に不愉快なことはない。それでお前といっしょにいられるなら……」

「まあ、ハデス様ったら、お上手ですわ。あたくし、ますますハデス様に夢中になってしまいます!」

11

「だから、私としてはペルセポネを返してもかまわないのだ」と、ハデスは言った。

「では、なぜ返さない」と、ゼウスは問いかけた。

「冥府の掟がある。冥府の食べ物を食べた者は、地上には戻れない。ペルセポネは、冥府のザクロを口にしてしまったのだ」

「だが、君は冥府の支配者ではないか。そんな掟は捨ててしまえばよい」

「そんなことができるものか」

ハデスは気色ばんで見せた。むろん芝居である。

「王たる者が、自分の都合で掟を破ってどうする?」

「そういうものかな」

ゼウスは、なんだか納得しかねるという様子だったが、ハデスの剣幕に押され、もごもごと口の中でつぶやいた。ハデスはわざとらしく続けた。

「不死なる神は、食事をとらなくても死ぬことはない。それなのに、あのペルセポネは冥府のザクロを食べてしまった。一つの実に十二粒あったのだが、そのうちの四粒を食べてしまったのだ」

「十二粒のうち、四粒を……」

「そうだ、ゼウス。一つの実に十二粒あったが、そのうち四粒だ」

ハデスは、ゼウスのわかりの悪さに少し苛々しながら繰り返した。

「いいか、十二粒のうち四粒だぞ」

「ああ、うまい手を考えたぞ。ハデスよ、こうしたらどうだ?」

ゼウスはやっと、気づいてくれたようである。

「一年に月は十二ある。十二粒のうち四粒しか食べなかったのなら、ペルセポネを冥府に留めるのは、四つの月のあいだだけとするのだ。残りの八つの月のあいだは、地上に戻す。こうすれば、冥府の掟も守られるし、デメテルも妥協するだろう」

「おお、ゼウスよ。それはいい考えだ」

ハデスは、大げさに褒め称えてやった。

「さすが神々の王、ゼウス。素晴らしい知略だ」

「いや、なに、それほどでも……」

ゼウスは満面の笑みをたたえながら、謙遜して見せた。ハデスが心の中で舌を出していたのは、言うまでもない。

別れるとき、ゼウスが言った。

「ハデスよ、君は以前より少し明るくなったようだ。いいことだな」

「君の娘、ペルセポネのおかげだよ」

と、ハデスは答えた。世辞のつもりだったが、オリュンポス山を下りながら、本当にそうなのかもしれない、と思った。

12

「では、ハデス様。また会う日まで、ごきげんよう」

ペルセポネが手を振った。ハデスもそれに答えて、軽く片手を上げた。

「それから、ハデス様。あのお願い、忘れないでくださいね。罪人をタルタロスに落とすのは、あたくしが帰ってきてからにしてくださるっていう、あの約束ですわ」

「わかっている」

ハデスは、ゆっくりと頷いてみせた。

ペルセポネが戻った喜びは、デメテルの豊かな胸から地上へと溢れ出した。草木はいっせいに芽吹き、色さまざまな花が咲いた。森には淡い緑が滴った。

人間どもは初めて、春を迎える喜びを知った。

◆おまけ 一言後書き◆
ああ、今回また、少し長くなってしまいましたね。次回からは、メデューサを主人公にした話を、読み切り連作で何回か続けるつもりです。乞うご期待、であります。

2020年6月17日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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