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【SM小説】美咲凌介の連載掌編「どことなくSM劇場」第44話 幸福銀行――嗜虐性を持ったある男がその嗜好を満足させられなかった話――

人気SM作家・美咲凌介による、書き下ろし掌編小説・第44回目は「幸福銀行」。人生を設計できるようになった未来。「幸福銀行」では、それまでの幸福を預けて結婚や死に際などの大切なときにそれを引き出すことができるようになっていた。幸福銀行の特別調査員である主人公は顧客の老人に会いに行くが、彼は幸福と合わせて“不幸”も預けており……?

誰もが認めることだが、この数十年の間に人々の人生観は、劇的に変化した。「第三自然哲学」――通称「魔学」の驚異的な発展のお陰である。

人生を本当の意味で設計することができる、というのが現代の特徴だ。それまでに得た幸福を幸福銀行に預け、大切なときにそれを引き出す。入学、卒業、結婚――それらには失敗もつきものだ――しかし、幸福銀行に十分な蓄えがあれば――そして死――そう、幸福に包まれた死。

我々の先達である旧人類(自らをホモサピエンス――賢い人間――と呼んだ旧人類)も、古文書の記すところによれば、その大多数は幸福な死を迎えられなかった。しかし、今や我々にとって、それはごく当たり前のことにすぎない。ただしその人が、死の苦痛と恐怖を補って余りある幸福を、わが幸福銀行に預けていれば――の話ではあるけれど。

幸福と不幸の取引に関するトラブルも少なくない。幸福銀行には、そうしたトラブルを円満に解決するために、特別な職務に就く者を定めている。これは単なる苦情係ではなく、不正な取引を監視する役目をも併せ持った、きわめて重要な役職だ。幸福銀行特別調査員。私もその一員なのである。

春も終わりに近い、ある午後のことだった。私はその家の応接間で、一人の老人と向かい合っていた。ひどく金のかかった部屋だった。ぜいたくで趣味のよい家具が適度に配置され、壁には数枚の大きな絵が飾られている。その中のどの絵を見ても、暗い色調の陰鬱な風景画で、それがこの部屋の持ち主――つまり私が今向かい合っている老人の人柄を表しているようにも感じられた。

「私はもう長くない」

挨拶が済むと、老人はいきなりそう切り出した。低いが、力のある声だった。

「もうすぐ死ぬだろう。それに形式的なことが嫌いでね。用件は手短に願いたい」

「もちろんそのつもりです」

私は答えた。

「実は、あなたが当銀行に預けていらっしゃる幸福と、それに……不幸のことなのです」

私は老人の顔を見た。深い皺がたたまれているその顔には、特別な表情は何も浮かんでいなかった。仕方なく、私は先を続けた。

「現在のあなたの状況について説明いたします。あなたは莫大な幸福を当銀行に預けていらっしゃいました。そして、馬鹿にはできない量の不幸も……」

「そうだ」

老人は答えた。

「私は、よい客だったと思うよ」

「その通りです。昨日までは、たしかにそうでした。しかし今朝になって、あなたは突然、すべての幸福を、甥御さんをはじめとするたくさんの親戚の方々に分配なさってしまった。そうですね?」

「そうだ」

「当方では、そのときまで気づかなかったのです。もちろんそれは、ある意味ではこちらの手落ちでもありますがね。つまり、適切な助言を怠ったという面から見れば……しかし法的には、私どもに助言をおこなう義務はないのです。とにかく、あなたは私どもが気づかないうちに……」

「何に気づかなかったというのかね」

「あなたが、ご自分の分の幸福をとっておかれなかった、ということにですよ。そして、不幸がすべて残ったままになっているということに」

私は続けた。いやな気分だった。本来これから言うことは、死にゆく者に対して言うべきことではない。そんな気がした。

しかし、私は同時に、微かな愉悦も感じていた。相手を純粋な不幸の中に突き落とす体験は、一般の人間に許されるものではない。ある意味で、それは幸福銀行特別調査員だけに――それも、こうした特殊なケースに携わる調査員だけに許された特権なのだ。

「あなたは、この不幸をご自分の幸福で相殺することもできたのです。少しばかり手続きは面倒ですが。しかし手持ちの幸福を、あなたはすべて処分されてしまいました。もう、どうにもできません。あなた自身に引き受けてもらう以外は。私は、それを伝えに参ったのです」

「そんなことか」

老人は、無造作に言った。

「むろん、初めからそのつもりだった。これからすぐに死ぬ者に、幸福など要らんよ。幸福は、生きている者に与えればよい。不幸は老人が始末しよう」

「おできになりますか」

私は、妙に高揚した、 嗜虐的な気分で言った。

「できるさ」

老人は答えた。

「自分の不幸じゃないか。皆、私には親しい者たちだ。その箱を、さっさとこちらによこすといい。その中に私の不幸が入っているのだろう」

老人は箱を受け取ると、隣の部屋に入った。しばらくすると、老人の低い、しかしよく響く声が聞こえてきた。そして、その声に応えるように、さまざまな物音が――。

「無礼者!」

(椅子の倒れる音)

「下がっていろ!」

(花瓶の砕ける音)

「俺を誰だと思ってる!」

(窓ガラスの割れる音)

そんなやりとりが、二十分ほど続いた。それからひっそりした。静かだった。とても静かだった。

ふいに扉が開き、老人が戻ってきた。片手に箱を持ったまま、ひどく疲れた表情だった。深いため息をついて、老人は言った。

「ざっと済んだ。少し手間取ったがね。この箱の中には、もうほとんど何も残っていない。少し休むこととしよう」

「いったいどうしたんです?」

「決まってるじゃないか。追い払ったのさ。不幸なんぞというものは、こちらが一喝してやれば、すぐに逃げ出していくものだ」

「しかし」

私は尋ねた。

「それなら、なぜ今まで放っておかれたのです? 失礼ですが、最期になるまで」

「忙しかったからな」

老人は無愛想に答えた。

「不幸になんぞいちいち構っている暇はなかった。私はこれでも、働き者だったのだよ。もっとも、何のために働いてきたのか、今ではよくわからんのだがね」

老人は椅子に腰かけると、目を閉じた。口を少しだけ開いて、なるほど疲れ切った表情だった。時が過ぎていく。夕暮れがきて、次に夜がきた。私はじっと、老人が目をさますのを待っていた。箱の中にはまだ不幸が一つだけ残っていたが、急かすわけにはいかなかった。そんなことをしたら、遺族がどんな因縁をつけてくるかわからない。幸福銀行特別調査員たる者、万が一にも遺族から訴えられるようなことがあってはならないのだ。

ふいに老人は目を開いた。そして言った。

「急いで終えてしまおう。あと少しだ」

老人は、用心深く箱を開けた。箱の中から最後の不幸が飛び出し、老人へ襲いかかるのが見えた。彼はこぶしを振り上げ、そして、次にそのこぶしをゆっくりと解いた。それから、その不幸をやさしく抱きとめた。

「おやおや」

老人は呟いた。

「おかしなことだ。これが、不幸だとは……」

老人が胸に抱きとめたのは、ひとつの短い言葉だった。彼の妻が若くして死んだときの、短い別れの言葉。

「さようなら」

それは言った。

「あなたは、あたしのこと、あまり構ってくださらなかったわね。それはとても――とても、いけないことだったと思うのよ。あなた、そのことについて、いったいどうお考えになって?」

老人は、その問いには答えなかった。いや、答えたのか――

「すぐに行くよ」

老人は言った。

「待っておいで。きっともう、すぐにね」

そう言い終えると、椅子に腰かけたまま、老人はもう死んでいた。胸に片手を当てて、少しだけうつむいて、その口元に、初めて微かな笑みを浮かべていた。

◆おまけ 一言後書き◆
副題とは別の意味で、私は微妙にサディスティックな気分を感じつつ、この話を書きました。「自分はこの話に出てきた老人のように幸せに死ぬことはなさそうだ」という、つまりは自分自身に対してサディスティックになっているような――まあ、そんな気分ですな。(それは、いわゆる自虐とは、またちょっと違う気がするのです。) さて、そのように「自分自身に対してサディスティックである」ということは、SMで言うとSなのか、それともMなのか、判断に迷うところです。

2022年5月16日

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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