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【新連載】SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第1回>  

新連載がスタート!SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!第1回目は『赤毛のアン』。今まで知らなかった、新しい世界が覗けます!

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 なぜ出版されなかったかと言うと、要するに引き受けてくれる出版社がなかったからだが、ではなぜ引き受けてもらえなかったのか。これはわたしの想像だが、裸の女がいっぱい出てくるのはいいとして、どの女も裸のままむやみにおしゃべりをするばかりで、なんだか一般に考えられている SM小説らしくなかった、というのが、その理由の一つだったのではあるまいか。つまり、わたしはアンの際限のないおしゃべり からインスピレーションを受け取ったと同時に、マシュウやマリラと同様、一種の魔法にかかってしまい、その魔法から醒めないまま、七百五十枚も延々と書き続けてしまったようなのだ。

ところで、世間には『赤毛のアン』を少々バカにしている人がいるようなので、そのことについても一言触れておきたい。わたしの知人に「『赤毛のアン』は大好き。」という女性がいるのだが、その人ですら「でも名作とまでは言えないと思う。」などと言ったりするのである。その理由を聞いて、わたしは少し驚いた。「だって、あれは純文学じゃないでしょう?」

純文学と言うと、先日、又吉直樹氏の『火花』が芥川賞を受賞したとき、それが「純文学」なのかどうか、ということが一部で話題になっていたが、わたしはちょいと変な気がしたものだ。純文学かどうかということが――というよりむしろ問題になっていたのは「純文学と呼ばれるかどうか」ということのように感じられたが――作品の良し悪しに少しでも関係があるだろうか。そもそも「純文学」という言葉の定義自体を明確にすることが可能だろうか。

今のわたしなりの結論を一言で言うと、純文学論議には大した意味はない。 そして、『赤毛のアン』が純文学に属するのかどうかは知らないが、世界文学史上でも指折りの傑作小説の一つにはちがいない、とわたしは考える。(ただし、その後モンゴメリが書き続けた『アンの青春』や『アンの愛情』などの、いわゆる「アン・シリーズ」の全てが傑作揃いとは言えないだろうが。)

わたしが近代以降の小説を読んで傑作かどうかを判断する基準の一つは、それが小説家の「健全な精神」を十分に表現できているかどうか、という点である。ただし、ここで「健全」というのは、「健全な精神は健全な肉体に宿る」式の「健全」ではない。あくまでわたしが小説家に求める「健全さ」であって、その中身を具体的に言うならば、「社会に安住することのできない者に寄り添う精神 」といったことになるだろうか。

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世に大作家と呼ばれる人たちは皆、この「社会に安住することのできない者に寄り添う精神」、ぶっちゃけて言えば「ダメ人間に対する愛」を持ち、しかもそれを十分に表現した。だからこそ、ゲーテは、男と遊んだ挙句に生まれた子を殺してしまった愚かな少女をヒロインにして『ファウスト第一部』(これは小説ではなく戯曲だが)を書き、ドストエフスキーは人殺しを主人公に、売春婦をヒロインにして、『罪と罰』を書いたのである。また、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の主人公は、パン泥棒をして刑務所に放り込まれた挙句に恩人の銀の食器を盗んだ男だし、フローベールの『ボヴァリー夫人』のヒロインは不倫と借金のせいで自殺した女である。わが日本では、森鷗外が『舞姫』で、出世のため女を捨てた男の悔恨を描き、夏目漱石は『吾輩は猫である』で、時流に取り残された怠け者の一教師の愚痴を綴った。また、破滅的私小説作家と呼ばれる一群の作家たちは、ダメ人間を描くだけでは飽き足らず、自分自身がダメ人間にならなければという脅迫観念に取りつかれたような生活を送り、その結果、中には本当に破滅しちゃった人もいたわけである。

『赤毛のアン』にもまた、その「健全」な作家精神は明確に認められる。アンは別にダメ人間というわけではないが、そもそも彼女は寄る辺ない孤児、つまり「社会に安住することのできない者」の一人である。その孤児をマリラが引き取ろうとしたとき、隣人のレイチェル・リンド夫人が、次のように忠告する場面がある。

「いいかね、マリラ、はっきり言っとくがね、あんたはおっそろしくばかげたことをしているんですよ――あぶないことをですよ、まったくのところ。(…略…)そうそう、つい先週のこと、新聞で見たんだが、この島の西のほうで、ある夫婦者が孤児院から連れてきた男の子に、夜なかに火をつけられて――それもわざわざ、つけ火をしたんですよ、マリラ――(…略…)」

この夫人は、その率直な物言いが好感を抱かせるが、 しかし要するに(この時点では)「社会に安住する者」の一人にほかならない。自分の暮らす社会の秩序に満足して安らかにまどろみ、そのまどろみを乱す者の侵入を拒もうとしている。

だが、結局、アンはやってくる。(もっとも、やってこなければ小説は始まらないわけだが。)そして、さまざまな事件を経て、最後には社会に自分の居場所を見出していく。この物語の構造は単純だが、それだけに作者モンゴメリの「社会に安住することのできない者に寄り添う精神」、つまり「健全な精神」をよく表している。

ひるがえって、最近の日本の様子を眺めると、小説家はすっかり社会の名士となってしまい、それはそれで結構なことだが、いろいろな場所で時に「社会に安住している者」に媚びるような発言をしているのを、耳にしたり目にしたりする。(全員が、というわけではない。ごく一部。)これは、どうも、わたしにははなはだ情けなく感じられる。小説家たるもの、社会とその中に安住する自分にすっかり満足して眠りこもうとしている人々に、子守歌など歌ってやってよいものだろうか。それは小説家にとって全く「不健全」なことなのではなかろうか。

わたしが『赤毛のアン』を傑作と考える、もう一つの理由がある。それは、この作品が単に一少女の成長の物語としてだけではなく、多様な面から、多様な解釈によって読まれ得る、ということである。

名作と呼ばれる作品は多面性を持つものだ、ということについては、特に説明の要はないだろう。たった一つの面からしか評価できないような作品は、退屈でしかない。ただし、「本当に『赤毛のアン』が、そのような多面性を持つ作品なのか?」と尋ねる人がいるかもしれない。

しかし、その問いに対する答えは、既に述べた。

なんといっても、このわたし自身が、『赤毛のアン』に触発されて、原稿用紙七百五十枚に至る長編SM小説を書きあげてしまったではないか。この事実こそ、『赤毛のアン』が多様な鑑賞に耐えうるということの一つの証左にほかならない。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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