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SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第4回>『豆つぶの上に寝たお姫さま』(アンデルセン)―女王様よりお姫様

大好評の連載第4回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!今回はアンデルセンの『豆つぶの上に寝たお姫さま』。美咲凌介が抱く、「お姫さま」のイメージとはいかに?

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女だけのSM小説?

ときどき、「男が一人も出てこないSM小説」を書きたいと思うことがある。SM小説と言えば、やはり主流となっているのは、なんといっても美しい女が無慈悲な男のサディストによって辱めを受けたり、肉体的精神的な苦痛を受けたりする、といったタイプのものだろう。もちろんこれは、ものすごく大ざっぱな話で、中には反対に男が女から虐待される話もあるだろうし、女が女を辱めるけれども、その背後に男がいるとか、またその反対のものだとか、それらの要素を満遍なく散りばめたものだとか――もちろん一口にSM小説と言っても内容はさまざまだ。

だが、SM小説という名がつく以上、ごくぶっちゃけた話をすれば、やはりSに該当する人物(ここでは仮にS役とでも呼びましょう)と、Mに該当する人物(同様にM役と呼びましょう)が登場しなければならない。そして、現実に存在するほとんどのSM小説では、そのS役、M役が男女の両性に振り分けられている。(ただし、そのS役とM役は固定したものではない。SとMが一編の小説の中で入れ替わる、ということはよくある展開で、わたしも割と好き。)

古典的なパターンでは、M役が貞節で上品な絶世の美女、S役が卑怯で下劣な男、ということが多かった。ちなみに、(今回は都合上、好き嫌いの話が多くて恐縮だが)わたしはこのパターンが大嫌いで、もう数十年も昔、SM小説を読み始めたころ、S役にヤクザなんかが出てきて、その笑い声の擬音に「ウヘヘ……」などと書いてあるのを読むと、実にうんざりさせられたものだ。なぜこんなふうに書くのだろう、と不思議でならなかった。

だが、あれからずいぶん年齢を重ねた今となって思うのは、結局それも嗜好の問題であって、(文章の上手い、拙いという点はいったん措くとして)どちらが良い、悪いというものでもなかろう、ということだ。そして、その嗜好はおそらく、読者としての自分がSとMどちらの側に身を置いてその小説を読んでいるか、という点に関係しているように感じられる。おそらく若いころのわたしはSの側に身を置いて読むことが多かったので、いわば自分の分身であるS役の男が、ただの下品な中年男だったりすると、なんとなく嫌な気がしたのではあるまいか。

けれども、今ではわたしもすっかり年をとり、そのうえSM小説一つ読むにしても、以前よりは少しは多面的な読み方ができるようになった。だから、「上品なM女、下品なS男」という過去の王道パターンにも、それなりの理解を示すことができそうではある。「自分は中年男ではあるけれども、ここは一つ美しい女になったつもりで、卑怯で汚らわしい男から無惨に凌辱されてしまう屈辱と、その屈辱の中に潜む被虐的な悦楽を感じてみよう」というわけ。老いぼれてくると、肉体的には若い頃にできたことがだんだんできなくなってくるが、反対に精神的には、若い頃にうまくできなかったことが少しはできるようになるものである。

ともあれ、現実に存在するSM小説の多くに(どちらがSでどちらがMになるかは、多様なバリエーションがあるとしても)男女両方が登場する。これは、SM小説が性を扱うものである以上、当然のなりゆきのように思われる。だが、今のわたしは、もしこれから自分がまたSM小説を書くのならば、女しか出てこないものを書いてみたい、と強く思っている。なぜか。

男女間の性的な関係を、否定したいのだろうか。いいえ、そうではありません。

メタフィクションと究極のハーレム小説

実は、これはSM小説という「小説」だからこそ、出てくる思いなのである。今、わたしが小説ではなく、実際のSM的な行為を行うとしよう。その場合、「女しか出てこない状況」でそれをすることは不可能である。なぜなら、その状況の中にわたしはいないから。そこにいないのに、行為を行うことはできない。

だが、こと「小説」ということになると、話はちがってくる。たとえ小説の中に女しか出てこなくても、それを書く作者のわたしは男である。また、それを読む読者が男であるならば、その小説が成立する世界には、「その読者=男」が存在することになる。

わたしは、ここで仮に「小説世界」という概念を提起してみたいと思う。これは、「小説の中の世界」のことではない。「小説が成立する世界」のことだ。小説が今まさに書かれつつある間、「小説世界」は、「作者―登場人物たち」から成っている。次に、出来上がった小説がだれかに読まれるとき、「小説世界」は、「読者―登場人物たち」から成っている。

この「小説世界」の構造を利用して、作者が読者に悪戯をしかけると、P+D MAGAZINEでも記事になった「メタフィクション」に通じていくのだろうか。(「メタフィクション」については、P+D MAGAZINEの該当記事をご覧ください。)

というわけで、わたしの場合、「男の出てこないSM小説」を書きたいというのは、男女間の性的な関係を否定することではない。むしろ、「小説世界」という面から見れば、男は「作者あるいは読者」一人がいればよい、その一人の男が小説に登場する全ての女と(潜在的な)性的関係を持つ、という、まさに究極のハーレム嗜好に通じるものであるわけです。

思えば昔からだった

思えば、この「俺の書くSM小説には、男は出てこなくていいや」という嗜好は、わたしが初めて書いたSM小説において、既に現れていたように思う。以前にもちょっと触れたが、この小説は未だ出版されていない。わたしはこれまでSM小説の長編を九作品書いたが、日の目を見ていないのは、この最初に書いた作品だけである。しかも、それが最も長く、四〇〇字詰めの原稿用紙で七五〇枚を超える。そのうちの五〇〇枚目くらいまでは、女しか出てこないのだ。(その間、男は会話の中にしか登場しない。)

もうずいぶん昔のことなので、はっきりとは記憶していないのだが、書いている途中、何度も「もういっそ、男は出さないままで終わらせてしまおうか」(このときわたしは、大雑把な組み立てだけを決めて、細かいところは書きながら作っていた)と、非常に悩んだことだけは覚えている。というのも、その小説に出てくる男とは、ヒロインである少女の兄――「お兄様」なのだが、女たちにこの「お兄様」についてさんざんおしゃべりをさせているうちに、イメージだけがどんどん膨らんでしまって、自分の手に負えなくなりそうな予感がしたためである。

二人の人物が、ひたすらゴドーという名の第三の人物を待っている。だが、そのゴドーはついに最後までやってこない。こういう筋立ての『ゴドーを待ちながら』という有名な戯曲があるそうだ(不勉強で、まだ読んだことはない)。わたしのSM小説もいっそのこと、「ああ、ついにお兄様はおいでにならなかったわ。」で済まそうか、とも思ったのである。けれども、当時のわたしは、SM小説ならばどうしたって男女の性行為は必要だろうという固定観念に、あまりにも強く捕われていた。結局、半ば「仕方ないなあ。」という思いで、「お兄様」を登場させてしまったわけ。まことに思いこみとは恐ろしい。

その次に書いた二作目の(初めて出版された)作品でも、わたしは、男は一人だけ、しかも端役でしか出さなかった。女は主要な人物だけでも四人登場させたのに、である。振り返ってみると、そのころから「作者―登場人物」という「小説世界」の中で「男は作者(読者)=自分だけでいい」という嗜好は、よほど強くわたしの中にあったらしい。

この「男は作者(読者)=自分だけでいい」という嗜好を実現させた作品は、他の人の書いたSM小説の中には、あまり見当たらないように思われる。探せばあるのかもしれないが、今のところわたしは、「これだ!」という作品には出会っていない。
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『あずまんが大王』と『けいおん』

けれども、(SMではないが)マンガには、まさにこの「男は読者である自分だけでいい」という世界を実現させた作品がある――と、こんなふうに言うと失礼なのかもしれないが、その一つが、あずまきよひこの『あずまんが大王』である。この作品は「ちよちゃん」「榊さん」「ともちゃん」「よみさん」「神楽さん」という五人の女子高生(ただし、「ちよちゃん」は天才なので、飛び級で高校に入学した十歳の少女――という、とんでも設定)の送る日々を描いた四コマ漫画だが、ほとんど男が出てこない。まして登場人物の女子高生が、男の子と恋愛関係に陥るということなどあるはずもなく、とうとう五人とも男女交際未経験のまま、そろって高校を卒業してしまう。

では、このマンガが性的な魅力を有していないかというと、わたしの見るところ全くの逆だ。作者にはまたまた失礼なのかもしれないが、直接には性的な描写など一切ないにもかかわらず、極めて性的なくすぐりに富んだ名作なのである。

また、この『あずまんが大王』のあとにヒットした『けいおん』(作者は「かきふらい」)というマンガも、非常に似た構造を持っていたように思う。これは、ガールズバンドで演奏する少女たちを扱った、やはり四コマ漫画だが、『あずまんが大王』と同様、男がほとんど出てこない。登場人物の少女たちが男女交際を一切しない、性的な描写は一切ないにもかかわらず性的なくすぐりを感じさせる、などの点でも、『あずまんが大王』と重なるところがある。(そして、わたしはこちらも愛読した。)

わたしが知っているのはこの二作品だけだが、この「女しか出てこないがゆえに、男の読者にハーレム妄想的な何かを抱かせる」という作品は、今、ほかにもたくさん出てきているのではないか、という気がしないでもない。つまり、この傾向は年々、強くなってきているように感じられるのだ。最近目立っている百合小説だの、百合マンガだのいうものの多くはこの類ではないか、という気がする。あれはまさか、レズビアンの人々「だけ」のために、作られているのではないだろう。

『あずまんが大王』の出版が2000年。わたしが例の初めてのSM小説を書いたのが、たしか1998年のこと。だから、(だれも言ってくれないので自分で言うが)この傾向に先鞭をつけたのは、実はこのわたしだったのではあるまいか。

――というのは冗談として、さて、「女しか出てこないSM小説」を書きたいものだ、ということになれば、当然、S役も女が担わなければならないことになる。S役の女、すなわち、いわゆる「女王様」を出さなくてはならないわけです。

女王様よりお姫様

ところが、わたしはこの「女王様」というイメージが、あまり好きではない。実は本物の女王様にもSMの女王様にも、まだ一度もお目にかかったことがないので、こんなことを言うのはたいへん僭越なことではあるけれども、一口に言ってしまえば、女王様という言葉からは、あまり可愛らしさが感じられない(全国のSMの女王様ごめんなさい)のである。まことに、思いこみとは厄介なものだ。

わたしが書く小説に登場するS役の女は、なによりも可愛らしくあってほしい。そこで、わたしは、「女王様」ではなく「王女様」、もっと言うならば「お姫様」を登場させたいものだと思っている。その「お姫様」のイメージは、「女王様」とはどう異なるのか。わが抱きたる「お姫様」のイメージや如何に?

ズバリ言うと、それはアンデルセンの童話、『豆つぶの上に寝たお姫さま』に登場する「お姫様」のイメージである。

十九世紀デンマークの生んだ詩人にして、世界的童話作家アンデルセン――と言えば、『マッチ売りの少女』や『人魚姫』、『みにくいアヒルの子』などが有名だが、この『豆つぶの上に寝たお姫さま』は、それらとはかなり毛色の異なる作品である。

昔、ひとりの王子が、「ほんとうのお姫様」を妃にしたいものだと考え、世界中を旅して、たくさんのお姫様に会ってみた。だが、どのお姫様にも、どこか「ほんとう」とは思われない、具合の悪いところがあった。ある嵐の晩、一人のお姫様がずぶぬれの姿で王子の住む城に現れる。そのお姫様が「自分こそほんとうのお姫様だ」と言うので、年とったお妃(王子の母親)は試してみることにした。ベッドの上に一粒のえんどう豆を置き、その上に敷布団を二十枚、羽根布団を二十枚重ね、そこに一晩寝かせてみたのである。さて、翌朝、寝心地はどうでしたかと聞かれたお姫様は――

「ああ、ほんとうにひどい目にあいましたわ!」と、お姫さまは言いました。「わたし一晩じゅう、ほとんどまんじりともできませんでしたわ。いったい、ベッドの中に何がはいっていたのでしょう、なんだか堅い物がふとんの下にあったものですから、からだじゅうに赤や青のぶちがついてしまいましたわ。ほんとに、おそろしかったこと!」(山室静訳)

そういうわけで、このお姫様こそ「ほんとうのお姫様」だということがわかり、王子はこのお姫様と結婚をしたという、ただそれだけの話です。そう――ただそれだけの話なのだが、高校生のころ、初めてこの話を読んだときの妙な気分は、今でも忘れられない。

『豆つぶの上に寝たお姫さま』は名作です

初めにわたしの心に浮かんだのは、「これはひょっとすると、何かひどく不道徳な話なのではないか?」という、泡立つような気持ちだった。たぶん、そのころのわたしが思う「ほんとうのお姫様」とは、たとえば「民に対して慈悲深い」とか、「民の苦労をわがことのように感じる」とか、まあそういった、いわゆる道徳的に「良きお姫様」のイメージだったのだろう。それがものの見事に裏切られてしまったので、妙な気がしたのだと思う。
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そもそも、二十枚の敷布団に二十枚の羽根布団という手厚いもてなしを受けた挙句に、こう文句たらたらの台詞を吐くなど、このお姫様はぜいたくすぎやしないか。たとえ体中が痛くても、「昨晩はご親切にありがとうございました。」と言うのが、礼儀というものではないか。

同時に襲ってきたのは、これまた妙に心をざわつかせる性的なイメージだった。二十枚の敷布団の下にある一粒の豆で「からだじゅうに赤や青のぶちがついて」しまう、その「からだ」とは、どれほどやわらかく繊細なのか。どれほどたおやかで優美なのか。そして、その「赤や青のぶち」は、どれほど痛々しく、かつ美しいのか。

その後、SM小説に限らず、さまざまな小説で女の体の描写を読んできたが、これほど短い言葉でこれほど鮮烈に「女体」の存在の危うさを、存在することが難しいという文字通りの意味での「有り難さ」を感じさせる文章に、まだ出会ったことがない。

性的な表現が一切ないにもかかわらず、不思議と性的な何かに導かれるという点で、この作品は先に述べた『あずまんが大王』や『けいおん』と似ていなくもない。だが、アンデルセンのこの作品のほうが、非・性的な見かけの表現と、性的な読後感との間のギャップは、ずっと大きい。

だから、このごく短い『豆つぶの上に寝たお姫さま』は、わたしにとって、アンデルセン最大の「名作」である。もちろん、『マッチ売りの少女』も『人魚姫』も、また『おやゆび姫』も『みにくいアヒルの子』も、それぞれ素晴らしい作品だとは思うが、それらはどれも(ものすごく乱暴な言い方をすれば)想定内の結末を迎えるものにすぎなかった。

もちろん『マッチ売りの少女』や『人魚姫』では、「なんとか主人公を、もう少し現実的に幸せにできなかったの?」と思いはした。思いはしたが、「そんなふうに幸せになってしまったら、やっぱり名作にはならなかっただろうなあ。」と、冷静に振り返る気持ちも十分にあったわけだ。

だが、この『豆つぶの上に寝たお姫さま』は、一応ハッピーエンドの形になっているにもかかわらず、おっそろしくわたしの心をかき乱してくれちゃったわけである。

危険な美

それからもう一つ、この作品を読んでからずっと、わたしが考えていることがある。それは、いわゆる道徳的な「善」と、ある種の「美」は、ひょっとすると両立し得ないものなのではないか、という疑念だ。世間ではよく「真・善・美」と、まるでこの三者が一体であるかのように論じられる。それは遠くプラトン以来の伝統でもあるだろう。だが、果たしてそれは本当なのか。「真」や「善」とはどうしたって両立し得ない危険な「美」というものが、どこかに存在するのではないか、わたしに限らず、人がSM小説(あるいはもっと広く小説全般、あるいは詩)なんぞをつい書いてしまうのは、心のどこかでこの美を求めてのことではないか。そして、アンデルセンもまたその危険な美の存在を知っていて、この『豆つぶの上に寝たお姫さま』で、既成の退屈な道徳にちょっとだけ反抗してみたくなったのではないか。そんなことを考える。

ともかく、もしわたしがまたSM小説を書くとしたら――それも男の出てこないSM小説を書くとしたら――ぜいたくでなよやか、わがままで無邪気、そしてことによると極めて無慈悲にもなれそうな、こんな「お姫様」をヒロインにしてみたい。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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