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『シャーロック・ホームズの冒険』他(コナン・ドイル)――S的人物シャーロック・ホームズ|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第6回>

大好評連載の第6回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み!今回はコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』他。シャーロック・ホームズはS的人物なのか? 皆さんも考えてみてください!

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シャーロッキアンになれない

コナン・ドイルの著した「シャーロック・ホームズ」シリーズをこよなく愛する人々を、シャーロッキアンと呼ぶ――と、今更ことごとしく書かなくても、そんなことは皆さん、とっくにご存じのことだろう。かく言うわたしも、いずれは自分もシャーロッキアンと呼ばれるほどの人物になりたいものだと思って、「シャーロック・ホームズ」シリーズを熱心に読みあさっていた時期があった。

だが、どうやらわたしは、シャーロッキアン仲間には入れそうもない。理由は、主に二つある。一つは、ホームズが登場する作品は数々あるが、わたしはその全てを愛しているとは言えない、ということである。まず、長編にはそれほど心惹かれない。四つある長編のうち、わたしが熱心に何度も読むのは、『バスカヴィル家の犬』だけである。(以下、タイトル名は創元推理文庫のものに従う。)

長編に比べると、短編集のほうは全体としてかなり深く愛している。特に初期の『シャーロック・ホームズの冒険』『回想のシャーロック・ホームズ』(『シャーロック・ホームズの思い出』と表記されることもある)は、これまで何度も読み返している。

『回想のシャーロック・ホームズ』の末尾に収められた作品『最後の事件』で、ホームズは、宿敵モリアーティ教授と共にライヘンバッハの滝壺に落ちて死ぬ。実はモリアーティが登場するのはこの『最後の事件』が初めてで、「宿敵」と言うには余りにも取って付けたような存在――はっきり言うと、ホームズを殺すためだけに登場したような存在であった。なんだかバタバタとした「店じまい」という感じがする。

その後、ホームズは、『シャーロック・ホームズの生還』で復活する。「モリアーティの残党の目をくらますために死んだと見せかけていただけで、実は生きていたのだ」というわけだが、これ以降の作品になると、わたしの愛は少し冷めてくる。巷間よく言われるように、同じトリックの使いまわしが目立つようになるし、事件の概要そのものにも無理のあるものが増えてくるからである。

シャーロッキアンになれないという、そのもう一つの理由は何かと言えば、それは「シャーロック・ホームズ」シリーズのいろいろな作品を読む度に、わたしがSMというものを連想してしまうから、ということになるだろうか。

たとえば、日本のどこかでシャーロッキアンたちの会合があるとして、そこに出かけていったわたしが、「ホームズと言えば、やっぱり何といってもSMですなあ。」などと語り始めたとしたら、さてどうだろう。皆、少しばかりいやな顔をするのではないかしら。少なくとも誉められはしないように思われる。

以上のような次第で、わたしにはどうもシャーロッキアンの仲間入りはできそうもない。が、それでも、わたしはわたしなりにホームズを愛している。それも、SM的に(と言うのも妙な言い方だが)、かなり深く愛しているのである。

シャーロック・ホームズとSM

人は、次のように言うかもしれない。「ホームズ物がSMを連想させるだって? それは、ただの勘違いではないのか? あるいは、お前がSMのことばかり考えているから、何を読んでもSMに見えるのではないか?」

そうした疑問に答えるために、わたしはこれから「シャーロック・ホームズ」シリーズのあちらこちらに、どんな具合にSM的要素が散りばめられているかを示そうと思う。たとえば、『第二の血痕』の、こんな場面。これは、ある大臣から「重要な機密書類が盗まれたので何とかしてほしい。」と依頼されたホームズが、当の大臣の夫人が犯人だと知り、彼女を追いつめていく場面である。

彼女の勇気は感嘆にあたいした。その場にいたっても、どうしても敗北をみとめようとはしなかったのである。
「ホームズさま、重ねて申しあげますが、あなたは何かおかしな思いちがいをなさっています。」
ホームズは椅子から立ちあがった。
「お気のどくですね、ヒルダ令夫人。あなたのために最善をつくしましたが、それもまったくむだだとわかりました。」
彼は呼び鈴を鳴らした。執事が入ってきた。
「トレローニ・ホープ閣下はご在宅ですか」
「一時十五分前にお帰りになります」
ホームズは懐中時計に目をやった。
「まだ十五分あるね」と彼はいった。「よろしい。お待ちします」
執事が出てゆきながら扉をしめたと思った刹那に、ヒルダ夫人はホームズの足もとにひざまずいた。両手を差しのばし、美しい顔を涙でぬらしながら、ふりあおいだ。
「お許しください、ホームズさま、お許しくださいませ!」彼女は気もくるわんばかりに哀願した。
(阿部知二訳)

どうだろうか。ほんの少し前まで「どうしても敗北をみとめようとはしなかった」女。だが、ついに緊張の糸がぷっつりと切れ、ホームズの「足もとに」ひざまずく。そして、「両手を差しのばし、美しい顔を涙でぬらしながら」ホームズの顔をふりあおぐのだ。最後には、この台詞。「お許しください、ホームズさま、お許しくださいませ!」

これをSM的と言わずして、なにをSM的と言うのか! と、わたしなどはたいへん興奮してしまうわけだが、他の人々はどうなのか。ぼんやりと読み飛ばしてしまうのだろうか。それでは、余りにも鈍感ですね。(失礼。)

言うまでもなく、この場面ではホームズがサディストの立場(いわばS役)に立ち、ヒルダ夫人は、相対的にマゾヒストの立場(M役)に立っていると言える。

もちろん、ヒルダ夫人は別に、「苦痛や辱めを受けることで性的快楽を得ている」というわけではない。しかし、それは、たとえばわたしの書いたSM小説でも同じことで、M役の人物が最初から苦痛や快楽を喜んで受け入れるわけではない。初めは拒否するのだが、性的調教を経て次第に変わっていく、というのが(わたしの考える)SM小説というものである。最初から「あたしをいじめて! あたしをぶって!」などという人物では、SM小説のヒロインにはなり得ない。ただし、いつも言っていることだが、以上はあくまでわたしの嗜好であって、「いや、初めからそうでもいいじゃん」という人がいるかもしれないことは否定しないが。

「シャーロック・ホームズ」シリーズはSM小説ではないので、この場面から性的調教へと進むわけではない。わたしは「ホームズ物はSM小説だ」と言っているわけではなく、あくまで「SM的だ」と言っているのである。

ほら、こうすればSM小説に

さて、似たような例を、もう一つ。今度は、『シャーロック・ホームズの冒険』の冒頭に置かれた、かの有名な『ボヘミアの醜聞』の一場面。ホームズがワトスンに協力を依頼するところである。文中、語り手はワトスン。「きみ」や「彼」と呼ばれているのがホームズ。

「きみの手配というのは?」
「コールド・ビーフとビール一杯、ということだよ」といいながら、彼はベルを鳴らした。「いそがしくて、食べるのを忘れていたが、今晩はもっといそがしくなりそうだ。ところでワトスン君、きみに手伝ってもらいたいのだが」
「いいとも」
「法律にふれる仕事でも?」
「かまわないよ」
「つかまるかもしれないぜ」
「よいことのためなら、それもかまわない」
「おお、もちろん、よいことのためだ」
「それなら、きみのいうままにするよ」
「きっと手伝ってもらえるとおもっていたんだ」
(阿部知二訳)

どうです? 皆さん。「これは別にSMでもなんでもなく、うるわしい友情の現れにすぎない」と思いますか。けれども、「法律にふれる仕事」であっても、「きみのいうままにするよ」というのでは、ワトスン博士は全く自己の尊厳を喪失している、と言えはしないか。(「よいことのためなら」と条件を付けてはいるものの、それが「よいこと」であるという保証はホームズの言葉以外にない。)この「自己の尊厳を喪失して、相手の言うがままになる」というのは、マゾヒストの一典型ではあるまいか。

02

それとも、ワトスンは自己の尊厳をもって、言い換えると自分自身の主体的判断で、ホームズに従っているのだろうか。たしかに、そう言って言えないこともない。だが、それでも結論は同じことである。自己の尊厳をもって相手に隷従するというのは、最も良きマゾヒストの態度と言うほかないからだ。

――などと理屈をこねるよりは、このワトスンとホームズの会話を、ほんの少しアレンジして見せたほうが、もっとよくわかっていただけるかもしれない。

わたしはたしか、この連載の第四回で「女だけのSM小説を書いてみたい」と記した。ここで、その一場面を仮に作ってみようと思う。登場人物の設定や名前はどうしようか――ホームズの代わりが十九歳の美少女「理華」、ワトスンの代わりが二十七歳の美女「綾乃」ということにしてみましょう。(皆さんの中に同じ名前の方がいらっしゃったならば、お気を悪くすることのなきよう。これはフィクションです。)

「理華さまの、今夜のお道具は?」
「手錠と鞭というところかしら」といいながら、理華はベルを鳴らした。「ネットで注文していたのだけれど、さっき新しいのが届いたばかりなのよ。ところで綾乃、お前にもぜひ手伝ってほしいの」
「もちろんです」
「恥をかくことになるだろうけど、それでも?」
「かまいませんわ」
「男に……犯されるかもしれなくってよ」
「理華さまのためなら、それもかまいませんわ」
「ええ、もちろん、あたしを悦ばせるためよ」
「それなら、理華さまのおっしゃるとおりにいたします」
「お前がそう言ってくれるって、あたし、わかってたわ」

と、まあ、こんな具合にほんの少し書き換えただけで、すっかりSM小説の一場面になってしまうのである。思わず続きが書きたくなったが、この稿はあくまで名著・名作について語る場であって、わたしの小説を載せる場ではない。慎むことにいたします。

ホームズは本当に「S」なのか?

こうやってアレンジすることでより明確になるのは、やはりホームズはSの立場(S役)に立っているということである。「シャーロック・ホームズ」シリーズには、このように(わたしの目から見ると)「おっ、SM的だな」と感じる場面が、ほかにいくらでもあるのだが、そのどれを見てもホームズはS役をやっている。つまり、ホームズは常にその場とそこにいる人を支配しようとしているわけだ。したがって、「ホームズとワトスン」というセットで見た場合、ワトスンはどうしてもMの立場にいるように見える。

だが、果たしてそう単純に言い切ってしまってよいものだろうか、という疑問もある。今、わたしは、「ホームズは常にその場とそこにいる人を支配したがっているように見える、だから彼はS役なのだ。」と書いた。つまり、わたしは「支配しようとする者、支配する者」=「S」、「支配されようとする者、支配される者」=「M」という図式で、SMというものを考えていることになる。

この考えは、一応ごく真っ当に見える。そもそも相手に支配されたがるサディストなどというものはイメージしづらい。「どうかわたしに命令してください。」と言うサディストはいない。だが、この真っ当な図式も、ほんの少し深く考えてみると、すぐに怪しくなってしまうのである。

『シャーロック・ホームズの生還』に収められている短編『ノーウッドの建築業者』の中に、以下のような記述がある。ライヘンバッハの滝壺に落ちて死んだと思われていたホームズが生還した後のこと。(結婚していたはずのワトスンは、このとき独身に戻っている。妻と死別したからだろう、というのが一般の説。)

これは、ホームズがもどってきてから数カ月たったころのことで、私は彼の乞いをいれて医者の仕事を人にゆずり、ベーカー街の古巣でふたたび彼と起居をともにするようになっていた。ヴァーナーという若い医者が、ケンジントン界隈の私のささやかな地盤を、こちらからいい出せるかぎりの高値で、値切ろうともせず買い取った――この間の事情は、数年後にはじめてわかったのだが、ヴァーナーというのはホームズの遠縁で、じっさいに金を調達してきたのも、私の友人ホームズだったのである。       
(阿部知二訳)

一見すると、ここでもホームズのS的性格つまり支配的性格がよく表れているように見える。ワトスンを自分の手元に置いておきたい――自分の支配下に置きたいがために、ホームズは大枚の金をこっそり支払っていたわけだ。そのためにワトスンから医者の仕事まで奪ってしまった、と見ることができる。

けれども、これは翻って見れば、ホームズはもう、ワトスンなしでは生きていけないようになっている、ということではないか。ホームズのほうがワトスンに依存してしまっているのだ。となれば、二人の関係において、本当に相手を支配しているのはワトスンのほうだ、ということになる。

「S」と「M」の定義

では、ホームズがMで、ワトスンがS? いや、それはない!

話が少々こんがらがってきてしまい我ながら情けないが、こうなってしまったのは、最初に立てた定義が間違っていたからだろう。「支配しようとする者、支配する者」=「S」、「支配されようとする者、支配される者」=「M」という定義が、である。

では、「支配しようとしない者」が「S」なのだろうか。それもおかしい。うむ。どんどんわからなくなってきますな。

「SM」の「S」と「M」の定義すらよくできないのに、よくもSM小説とやらを何冊も書いてきたな。美咲凌介という奴は、ちょっとおかしいのではないか。

今、そんなふうに思っている読者もいるかもしれない。けれども、わたしとしては、そんなことはよくある話――いや、むしろそれが普通なんですよ、と言いたい。

プラトンが『国家』という本で、「詩人というものは、善や悪、正義や愛などについて、さもわかったようなことを書いているが、実はなんにもわかっていやしない。あれはただ神がかりになって、自分ではわけもわからず言葉を並べているだけだ(逐語訳ではありません)。」といったことを述べているが、小説というのも、たぶんそんなものなのだろう。SMについてよく知っている作者が、SM小説を書くわけではない。同じように、恋愛についてよくわかっている作者が恋愛小説を書くわけではないし、人生を知り尽くしている作者が、読者の生き方を変えるような感動的な小説を書くわけでもない。

だから、もし、このP+D MAGAZINEの読者の中で、「ひとつ俺も(わたしも)小説を書いてみるか。」と考えている人がいるとしたら、その人たちにわたしは、こう言いたい。

「何かをよくわかってから、それについての小説を書こう、などと思っているのならば、その考えはお捨てになったほうがよい。とにかく書き始めてみることだ。書いているうちに、たぶんいよいよわからなくなってくるのだが、それでも小説は出来上がる。」と。

03

閑話休題。「S」と「M」の定義の話に戻ろう。さきほどの定義で話がおかしくなってしまったのだとすれば、定義をどう変更したらよいのだろうか。いっそ「S」とは「サイコパス」のことだということにしたら? そう言えば、ホームズには異様に自分を有能に見せたがるようなところがあるが、サイコパスの特徴にもそんなところがなかったか。「SM」の「S」は、「サイコパス」の「S」なのか。いや、ちがうね。そもそも「サイコパス(psychopath)」の頭文字は「S」じゃないし。

こうするのは、どうか。「支配しているという実感が欲しい人=S」、「支配されているという実感が欲しい人=M」というのは? 「実感」を「幻想」と言い換えてもよい。これなら、たとえホームズが現実にはワトスンに依存しているとしても、そのように依存することによって「自分がワトスンを支配しているという実感」が得られれば、それでよいわけだ。うん、これでともかく理屈が通る。現在のところ(わたしの拙劣なる思考に基づけば)、これが最も適切な「S」と「M」の定義ということになろうか。少なくとも、「シャーロック・ホームズはS役である」というわたしの感触とは、矛盾しないことになる。

真のサディストはだれなのか?

だが、実は、本当の「S」はほかにいる。わたしは、それがだれかを知っている。

「シャーロック・ホームズ」シリーズの世界全てを支配している、という実感を最も強くほしがっている人物――つまり、作者のコナン・ドイルこそ、その人である。

作者は「支配しているという実感が欲しい人」ではなくて、「実際に支配している人」だろう。そう言いたくなる人がいるかもしれない。だが、たぶんそうではない。

小説の作者は、自分が書いた小説世界を完全に支配することはできないのだ。別に、小説でなくてもかまわない。詩でも随筆でも日記でも、とにかく言葉というものは、(今こうして書いているこの文章もそうだが)なかなか思ったようには綴れない。たとえ思ったように綴れたと感じたとしても、少し日が経つと、なんだが自分でないだれかが書いたもののように、よそよそしい感じがするものだ。

それでも、言葉を書く人(作者)は、自分が書いたもの(作品)を「支配している実感」を欲しがるものである。うまく書けたら「これは自分のものだ。」と誇りたい。だが、時に、作品のほうが作者に対して反旗を翻す、ということがあるのではないか。わたし程度の作者なら、作品の側からの反乱も大したことはないだろうが、世に名作と呼ばれるものを書いてしまった人は、自分の書いた作品から復讐されることさえあるのかもしれない。あるいは、作者のほうが作品にすっかり依存してしまう、ということがあるのかもしれない。

コナン・ドイルが、自分の作った人物シャーロック・ホームズを、いったんはライヘンバッハの滝壺に転落させて殺してしまったのは、その依存から逃れようとするためだったのではないか。今、わたしはそんなことを考えている。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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