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『歎異抄』――SM小説家は浄土に行けるのか?|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第7回>

大好評連載の第7回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回は『歎異抄』がテーマ。その世界をもとに、「SM小説家は地獄に落ちるのか?」を読み解きます! 

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紫式部も地獄に落ちた

上田秋成の『雨月物語』の序に、こんなことが書いてある。

羅子(らし)は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、紫媛(しえん)は源語を著し、而して一旦悪趣に落つる者、蓋(けだ)し業(げふ)を為すことの迫る所(ところ)耳(のみ)。
(上田秋成『雨月物語』序)

これを勝手ながらわたしが意訳すると、以下のようになる。

羅漢中は『水滸伝』を書いた結果、三代に渡って口の利けない子どもを生み、紫式部は『源氏物語』を著した結果、一度は地獄に落ちたという。まさに、(作り話によって人々を惑わせたという彼らの罪深い)所業の報いを受けたと言うほかはない。

中国文学の大傑作のひとつ、『水滸伝』。日本の誇る傑作長編、『源氏物語』。その作者である二人の人物が、どちらも罪の報いを受けて、片方は子孫に災いが及び、片方は本人が地獄に落ちた、というのだから穏やかではない。

昔は、作り話をするということは、ことほどかように罪深いものと思われていたらしい。売れっ子小説家が文化人としてもてはやされる現代とは、ずいぶんちがう。もっとも上田秋成自身は、「自分の書いた『雨月物語』は、だれもそれを真実とは思わないであろう、ごくつまらぬ作品なので、報いは受けずに済むはずだ。」と、謙遜なのか開き直りなのか、ひどく楽観的なことを書いてはいるが。

SM小説家だって地獄行き

紫式部までが地獄に落ちたという。では、『美少女とM奴隷女教師』だの、『レイピストの学舎 女高校教師は教室で牝になる』だの、『いとこ・二十七歳と少年 美人社長淫魔地獄』だの(どれも以前わたしが書いた小説)、そんな煽情的なタイトルのSM小説を書いてしまったわたしは、死後どうなるのか。まっさかさまに地獄へと落ちていくのか、それとも上田秋成と同じように「つまらぬ作品だから大丈夫」と(といっても『雨月物語』は傑作だとは思うが)開き直っていても大丈夫なのか。

どうも、わたし個人としては、「これは地獄コースじゃないかな?」と感じるのである。もっとも、「お前は本気で死後の世界があると信じているのか。」と問われたならば、「あるとも言えないし、ないとも言えない。」と答えるほかない。(わたしは、高校時代にモンテーニュを読んで以来、その影響を受けた懐疑論者なのだ。)

だから、この地獄行きの話は、「死後の世界があるかどうかはわからないが、もしもあるとしたらという仮定の話」である。あるいは、「地獄に行くとは、罪があるということの比喩だ。」と言い換えてもよい。つまり、世間でいうところのSM小説とやらを書き、しかもそれを出版してまで人に読ませること――そんなことは、たとえ地獄などというものが存在しないとしても、やはり一つの罪深い行為なのではあるまいか、ということである。

ともかく、SM小説家の端くれとしてのわたしは、「どうも自分は地獄に行くようだ=罪深いことをしてしまったようだ」と感じている。これは、虚心坦懐に自分の心の中を精査してみた結果出てきた、一つの事実である。(もっとも、それはまた、通販番組の画面の片隅に時々出てくる「個人の感想です」というようなものでもあって、わたし以外のSM小説家がどのように感じているかについては、関知せざるところ。中には、「自分の作品は極めて文化的価値の高いものなのだから、もし極楽に行く人間がいるとするなら、それは自分以外にない。」と考えているSM小説家がいるかもしれない。)

『歎異抄』が流行ってる?

というわけで、このままだとわたしは地獄行きと決定した。だが、当然のことながら行きたくはない。では、どうすればよいか。それを教えてくれたのが、かの名著、『歎異抄(たんにしょう)』である。

中高年の人たちの間で『歎異抄』が流行っている、と聞いたのはいつのことだったか――もう数年前のような気がするが――今でもまだそれなりには流行っているらしい。本屋に立ち寄って哲学・宗教のコーナーなどをぶらついていると、『歎異抄』を解説した本が数冊並んでいたりするのを、しばしば見かける。

中高年の人たちだけでなく、まだ十代の若い人たちにとっても、『歎異抄』は気になる存在であるようだ。最近SM小説を書いていないわたしは、いろいろな仕事をやって金をかき集め、極貧ながらなんとか暮らしを立てているのだが、そのうちのある一つの仕事の関係で、中学生や高校生と話をする機会がある。そのとき『歎異抄』の話になることがしばしばあるのだ。つい先日は、ある男の子とこんな会話をした。

「悪人正機説って、浄土真宗でしたっけ?」と、その子が尋ねる。
「そうそう。」と、わたし。
「悪人こそが救われるって話ですよね。」
「そうそう。極楽浄土に行けるってこと。つまり、往生できるってことだ。」
「『歎異抄』でしょ。『善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや』って奴。」
「そうそう。」
「なんでも、そうそうじゃ困っちゃうな。だいたい、どうして悪人のほうが極楽に行けるんですか。」
「それは『歎異抄』に書いてあるから、自分で読んでみなさい。」

――と、話を途中で切り上げるのは、一つには仕事の途中で関係のない話をいつまでもしてはいられないからである。だが、もっと大きな理由は、わたしが『歎異抄』という本を容易ならざる危険な書物だと考えている、ということにある。『歎異抄』についての自分の考えをうかつに高校生にしゃべり散らし、あげくに親御さんから「うちの子に何を吹き込んだ?」などとねじ込まれたら、かなわない。

弥陀の本願とは?

この「危険さ」を、多くの『歎異抄』の解説本は意図的に薄めているように思われる。本屋に並んでいる数冊の解説本をパラパラとめくってみると、本によって説くところは微妙に異なるものの、たいていは「悪人正機説というのは、悪いことをしてもかまわないという意味ではありません。」だとか、「自分が善人ではなく悪人であると自覚する心、つまり良心の目覚めが大切だ、と教えているのが悪人正機説なのです。」だとか――まあ、だいたいそんなことが書いてある。

だが、それは本当だろうか。『歎異抄』とは、そんな人畜無害な本なのか。そんなぬるい話で、SM小説家は極楽浄土に行けるのか。

『歎異抄』という本は、浄土真宗の開祖である親鸞の語った言葉を、弟子の唯円が綴った本である。だから、『歎異抄』の話をするためには、浄土真宗の話も併せてする必要があるのだが、ここで一つ断っておきたい。今からわたしが書きつける話は、SM小説家の端くれにすぎないわたしの考える浄土真宗の話、また『歎異抄』の話であって、正統なものとはとても言えない――ということである。大いに眉に唾をつけてから聞いていただきたい。では、昔話風に始めることにしよう。

昔々あるところに、阿弥陀様と呼ばれる人がいた。この人はいくつもの願を立てたのだが、そのうちの一つに「わたしが仏になれた後に、世界中の人々が極楽浄土に生まれたいと願って、わたしの名を十回唱えたとします。もし、その人々が極楽浄土に生まれることができないようでしたら、わたしは正しい覚りを得ることがありませんように。」と、だいたいまあ、そんな内容の願があった。これを「弥陀の本願」と呼ぶ。

さて、その阿弥陀様は「阿弥陀仏」と呼ばれていることからわかるように、無事、仏になることができた(正しい覚りを得ることができた)。弥陀の本願は、かなったわけである。したがって、どんなに罪深い人間でも「わたしを浄土に連れてって」と願って、阿弥陀様の名を十回唱えたならば――南無阿弥陀仏と十回唱えた(=念仏をした)ならば――浄土へと連れていってもらえるわけだ。これがいわゆる「他力本願」の元々の意味で、自力の修業によって悟りを開き浄土に生まれ変わるのではなく、全くの他者すなわち阿弥陀仏の力にすがって浄土へ赴く、ということを意味している。

念仏は先祖のためにあらず

わたしの家系は父方も母方も浄土真宗だったので、仏壇の前に座ったときや、法事で寺に行ったときなどには、もちろん「南無阿弥陀仏」を唱えさせられた。だが、「南無阿弥陀仏と唱えると、浄土に連れて行ってもらえるのですよ。」という話は、ついぞ聞かなかったように記憶している。

今、思い出してみると、子どものころ、母親や親戚のおばさんたちから聞かされていたのは、「南無阿弥陀仏と唱えるのは、ご先祖様に感謝するためです。」とか、「悪いことをしたらバチが当たるから、南無阿弥陀仏って言って仏さまに謝りなさい。」とか、そんなことだったように思う。しかし、そんな話は、この「弥陀の本願」から考えると全くの嘘だったわけだ。

それが嘘である、ということを繰り返し説いているのが、(わたしの見るところ)この『歎異抄』という本なのである。たとえば、この本には、こんな一節がある。(以下、『歎異抄』からの引用は全て、岩波文庫の金子大栄校注『歎異抄』による。訳はすべてわたし=美咲凌介による意訳。また、「ゝ・ゞ」や「〱」(くの字点)などのいわゆる繰り返し記号は、表記の都合上、該当する文字に改めている。)

親鸞は、父母孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず。

(訳)わたし親鸞は、父母の供養のためといって念仏を唱えたことは、これまで一度もありません。

「南無阿弥陀仏」と唱えるのは、死んだ両親のためではない、何をさておいても自分が浄土に行くためだ、と親鸞は言っている。もっとも、このあとに、自分が浄土に行って仏となることができれば、その仏としての力で両親や祖先を救えばよい、とも書かれてはいるが、それはあくまで「その後の話」であって、大切なのはまずは自分が救われることだ、というのである。念仏をするのは、先祖の霊に感謝するためではない。
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悪人正機説

また、「悪いことをしたらバチが当たるから、南無阿弥陀仏って言って仏さまに謝りなさい。」という説については、まさに例の悪人正機説のところで、このように言っている。

善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

(訳)善人でさえ往生をとげる(極楽浄土へと行くことができる)。まして悪人ならば、間違いなく往生をとげることができるはずだ。それなのに、世の人は常にこう言う。悪人でさえ往生する、まして善人ならなおさらだ、と。この言い分は、一応は理屈に合っているように見えるけれども、弥陀の本願の力を頼みにして往生する、という趣旨に反したものである。その理由はというと、自力で善行を為そうという人は、ひたすら阿弥陀仏の力にすがろうという心が欠けているために、弥陀の本願の狙いからはずれてしまう。そうであっても、自力の心をひるがえして、弥陀の力にすがれば、真実の浄土に生まれ変わることができる。そもそも煩悩に支配されているわたしたちは、どんな修行をしたところで生死を繰り返す輪廻転生の苦しみから逃れることができない。それを哀れみくださって、願をお立てになった阿弥陀仏の本意というものは、悪人を浄土に生まれ変わらせてやろうというためなのであるから、弥陀のお力を頼みにする悪人こそが、往生するのに最もふさわしい存在なのである。よって、善人でさえ往生する、まして悪人が往生するのは間違いないことだ、と親鸞聖人はおっしゃったのだ。

というわけで、どこにも「悪いことをしたと、仏さまに謝りなさい。」とは書いていない。これをSM小説家のわたしの立場に即して言えば、「SM小説なんて書いて、悪うございました。」と思う必要はないわけである。それどころか、「悪人こそが往生できるのだから、ろくでもないSM小説を書いたことについては、胸を張っていてかまわない。」ということになるではないか。

もちろん、「SM小説なんて書いたのは、ろくでもないことだったなあ。」と自覚する必要はある。けれども、それを反省して今後は改めよう、などと考える必要はない。むしろ、そんなことはしてはいけない。反省などすると、自力で更生しようとしていることになってしまう。それはまさに「自力作善」を志すことであり、弥陀の本願からはずれてしまうわけである。

ん? だんだん危ないところに入ってきたのではないですかね?

SM小説を書くという、一応現在では合法的な行為だからピンと来ないけれども、これを世間からもっと悪辣な犯罪と見なされている行為――たとえば強姦殺人や強盗殺人などを例に考えてみると、この話がかなり危険な領域に入ってきていることがわかるだろう。

「人殺しなんぞして悪うございました。」と思う必要はない。それどころか、「悪人こそが往生できるのだから、人殺しをしたことについては、胸を張っていてかまわない。」ということになる。やはり、これはどこかおかしいのではないか。

だが、「そのおかしな主張をしているのが、悪人正機説というものだ。」と、わたしは考えている。「悪人正機説は、悪事をしてもかまわないという意味ではありません。」などという微温的なものでは、決してない。はっきりと「悪事をしてもかまわない、少なくとも極楽往生に関しては、ちっとも障害にならない、それどころか、(念仏をすることを前提にしてのことだが)悪事こそは、極楽往生するための最も真っすぐな道である。」と言っているのだ。そして、そこまで言っているからこそ『歎異抄』は貴い、とわたしは(真面目に)思っている。

本願誇りは悪くない

いや、さすがにそれは、お前の読み違いだろう、それはあまりにも単純な解釈だ――と思う人もいるかもしれない。しかし、『歎異抄』には、次のような一節もあるのだ。

弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪ををそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと、この条、本願をうたがふ、善悪の宿業をこころえざるなり。

(訳)弥陀の本願には不思議な力があるからと言って、悪行を為すことを恐れないのは、これを「本願誇り」と言って、そんな態度をとるものは極楽往生することができないという説――この説は、本願を疑うものであり、善悪の宿業というものがわかっていないものである。

ここでも、「悪行を為すことを恐れない者は往生できない、という説は誤りだ。」と、はっきり言っている。
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千人殺せば極楽往生

このあとに、面白い話が続いているので、紹介したい。あるとき親鸞が唯円に、「お前はわたしの言うことを信じるか。」と尋ねた。唯円が「信じます。」と答えたところ、親鸞は「それでは人を千人殺してみようか、そうすれば往生は間違いない。」と告げる。唯円が「自分の器量ではただ一人の人間も殺すことはできそうにありません。」と答えると、親鸞は次のように言うのである。

これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとおもひ、あしきをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。

(訳)これでわかっただろう。何事も、心のままになるなら、往生のために千人殺せと私が言ったら、お前はすぐにでも殺すことができるはずだ。けれども、一人だって、殺すことのできる業縁がないために、殺さないだけである。自分の心がよいから殺さないのではない。また、殺すまいと思ったとしても、百人、千人を殺してしまうこともあるだろう――と、そのように親鸞聖人がおっしゃったのは、われわれが自分の心がけのよいことを往生のためによいと思い、心がけの悪いことを往生のために悪いと思いこんで、本当は、(心がけの良し悪しなどには関係なく)弥陀の本願が不思議な力によって助けてくださる(往生させてくださる)ということを知らないでいる、ということを教えてくださったのである。

悪事を為すのも為さないのも、つまりは「縁」である。だから、「本願誇り」(悪事を為すことを恐れない心)は、全く極楽往生の妨げにはならない、と親鸞は言っている。

『歎異抄』の危うさを薄めるな

『歎異抄』を虚心に読む限り、「悪人正機説というのは、悪いことをしてもかまわないという意味ではありません。」というような話にはならない。そんな立場(世の解説書は、これに近い立場のものが多いのだが)に立ってしまうと、『歎異抄』の持つ危うさが薄まってしまう。

それでは、わざわざ『歎異抄』を読む意味がない。そんなぬるい解釈では、SM小説家は浄土には行けない。本屋の棚の前で、『歎異抄』の解説本のページをめくるたび、わたしはいつもそんなことを思う。

同時に、『歎異抄』という本は、本当はブームになどなってはいけない本なのではないか、と思ったりもするのである。

(『歎異抄』については、まだまだ語りたいことがたくさんある。もし、今後また機会があったら、別の面からアプローチして、この稿の続きを書いてみたい。)

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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