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『浄土三部経』――SM小説家、宗教を語る|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第8回>

大好評連載の第8回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回は『浄土三部経』がテーマ。その世界に即して、「浄土」とはどんなところかを追究します!

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宗教と洗脳

もうだいぶ前の話になってしまったが、例の森友学園が経営する幼稚園だが保育園だかで、園児たちが「安倍首相、頑張れ! 安保法制国会通過、よかったです!」といった文句を暗唱させられている映像が、テレビでむやみに流れている時期があった。あの様子を見て、ある人がわたしにこんなことを言った。

あれって、宗教みたいで気持ち悪いですねえ。

そう言われたときの強烈な違和感が、今も忘れられない。というのは、あの幼児たちを見て、わたしは少しも「宗教みたい」とは思わなかったからである。では、どう思ったのか。「インチキな研修会のようだ。」とは思った。あるいは「阿呆が社長をやっている零細企業の朝礼みたいだ。」とも思った。が、宗教を連想することは全くなかった。

けれども、その後、他の人にも意見を聞いてみたところ、どうやらわたしの方が少数派らしいんですね、これが。

「いや、あれは宗教っぽいでしょ。洗脳されてるみたいで。」
「宗教、宗教! だって、本人たちは何も考えないで、言わされてるだけじゃん!」

このように言う人たちは、「宗教とは人間を洗脳して、自分では何も考えない状態にさせるもの」という固定観念に取りつかれているように見える。もちろん、「宗教=洗脳」と断ずるこれらの人々の意見も、全くわからないわけではない。この世には、「宗教団体の名を借りたインチキな集団」がいろいろとあるからである。

宗教は理性から生まれる?

しかし、わたしは、本当の宗教というものは、洗脳とは正反対のものであるはずだ、と思っている。洗脳というのは、相手から理性の力を奪ってものを考えなくさせることだが、宗教は本来、理性の働きから生じたものではないだろうか。

「宗教は理性の働きから生じる」などと言うと、「バカなのか?」と思われそうである。天国だとか地獄だとか、浄土だとか輪廻転生だとか――理性的に考えると、そんなもの存在するはずないだろ、と言われそうだ。

けれども、実はわたしは、「天国も地獄も理性の要請によって生じたものだ。」と考えているのである。以下、ごく簡単にその説明をしてみたい。

この世は理不尽だ

この世――わたしたちの暮らしているこの世界というのは、理不尽なものである。人生には運というものがつきまとっていて、愚かでぐうたらな怠け者で、底意地の悪い嫌な人間が、富と健康に恵まれて穏やかな一生を送り、ついに満足しきって大往生を遂げることもある。かと思うと、頭脳は明晰で体力もあり、周囲の人には常に優しく、勤勉実直、責任感もある好人物が、運に見放されて非業の最期を遂げることもある。それがこの世のリアルというものである。

ことわざに「天網恢恢疎にして漏らさず」というのがあるが、あれは「そうだったらいいなあ」というだけのことにすぎない。この世のできごとの子細を少しばかり観察すれば、「天網恢恢疎にして漏らしてばかり」というのが、実際のところだろう。

だからこそ、司馬遷は『史記列伝』の冒頭で、善人(司馬遷の目から見て)である伯夷はくい叔斉しゅくせいが山中で餓死し、職業的強盗殺人者である盗跖とうせきが天寿を全うしたことを記したのち、「天道是か非か」と、強い疑念の意を表したわけだ。

要するに、この世を少しでも真面目に観察してみると、帳尻の合わないことが多すぎるのである。実存主義者たちが「不条理」という語で表そうとしたのも、この帳尻の合わなさのことだろう。が、「世界は不条理だ」などと言うと、話が妙に浮いてしまう感があるので、ここでは「帳尻が合わない」という言い方で話を進めようと思う。

理性は帳尻を合わせたがる

さて、この「帳尻が合わない」ことに我慢ができないのが、「理性」というものである。「ある結果が生じたならば、必ずそれに相応する原因があるはずだ。」という考えを因果律と呼ぶが、理性はこれが大好きだ。この因果律を物質世界にだけあてはめると、いわゆる「科学」というものになり、これはこれで成立している。だが、善悪だの運だのが絡んでくると、科学では手に負えない。それでも理性は、それ相応の原因を求めてやまない。

なぜ、あの人は悪人なのに、あんなにも幸福な生涯を送ったのか。なぜ、あの人は善人なのに、悲惨な最期を遂げることになったのか。

こうした疑問に科学は答えてくれない。「なぜ」と問う、その「なぜ」の内容というかレベルというか――とにかく、求めている原因の種類が、科学のそれとは異なるからである。しかし、理性は問うことをやめない。理性は偶然に耐えられないからだ。その結果、出てくるのが「神」であり「天国と地獄」であり、「輪廻転生」である、というわけ。

なぜ、あの大悪人は、あれだけ悪いことをしたのに報いを受けずに済んだのか。この問いに対して、天国と地獄を思いついた者は、こう答えるだろう。「大丈夫、あいつは、あの世で神様が裁いてくださる。悪人は、あの世では地獄の業火に焼かれるのだよ。」と。

あるいは、輪廻転生を思いついた者は、同じ質問にこう答えるだろう。「あの人が悪行の限りを尽くしたにもかかわらず運に恵まれた一生を送ったのは、前世の行いがよかったからだよ。でも、大丈夫、来世では報いを受けて、ひどい目にあうんだから。」と。

もちろん、こうした考えが、歴史的に無用の差別や虐殺を生んだということもあったわけだが、ともかく、「神」や「天国」「地獄」、はたまた「輪廻転生」などの概念が、この世の「帳尻の合わなさ」に対する理性の解答の一つとして生まれた、ということは確かなことだ。理性は仮想世界へ飛び出して、帳尻を合わせるために、天国と地獄を設定したのである。

――と、以上は言うまでもなく、きわめて大ざっぱな話である。あらゆる宗教理論は、これよりずっと緻密なはずだが、大切な点は、これらの宗教的概念が生まれる根本に、「この世は帳尻が合っていない」というリアルな認識があった、ということである。

帳尻合わせを超えた浄土真宗

さて、わたしは前回の『歎異抄(たんにしょう)』の回で、自分は先祖代々の浄土真宗の信者である、と書いた。(ただし良き信者であるとは書いていない。)今回も、この浄土真宗に即して、話を進めていこう。

浄土真宗というのは、つくづく不思議な教えだ――と、わたしはしばしばそう思う。上に述べたように、宗教というものは、「この世は帳尻が合わない」という認識から生じるものだと、わたしは考えている。言い換えると、宗教とは、善人には善人なりの報いが、悪人には悪人なりの報いがなければならない、という理性の要請から生じたものである。

ところが、浄土真宗では、どんな悪人でも「南無阿弥陀仏」と唱えれば――阿弥陀仏の本願にすがってお願いすれば、それだけで極楽浄土へ連れていってもらえる――というのだから、ただ事ではない。つまりこれは、「帳尻が合わない」世界からの脱却を図ったはずの宗教が、巡り巡って、再び「帳尻の合わない世界」を出現させてしまったことになる。これでは、この世にいるのも、浄土にいるのも、結果として違いがないではないか。

いや、やっぱり違いはあるはずだ。そうでないと、浄土真宗という教えが出てくる必然性がなくなってしまう――と、ここまで考えて気づいたのだが、その「違い」というのは、「浄土はとってもよいところ」という一点にあるはずだ。なにしろ、浄土は最高の世界。飢えもなく困苦もない。業突く張りの威張り屋からいじめられることもない。

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浄土ってどんなところ?

だが、わたしはそもそも、浄土というところがどんなところなのかを、(正確に言うと、浄土真宗において浄土がどんなところだと考えられているのかを)知らなかった。うかつな話ではないか。『歎異抄』を読んで、SM小説家でも浄土に連れて行ってもらえるらしいと安心してはいたのだが、さて、連れて行ってもらったあとで、「こんなところとは思わなかった。」と後悔するのも、よろしくない。だいたい、わたしは本当に浄土に行きたいのか、という根本的な疑問もわいてくる。

そこで、わたし、「浄土とはどんなところか」ということを教えてくれる本はないかと、いろいろ探してみましたよ。

もちろん、仏教の解説書や、偉いお坊さんの法話が載った本などもたくさんあるようだが、できるだけ根本的なところが知りたい。そう思って探していると、浄土真宗が大切にしている「お経」、すなわち『浄土三部経』というお経に、極楽浄土の様子がくわしく書かれているという耳より情報をつかみました。なにしろ「お経」だからね。これより根本的な資料は、ほかにないでしょう。

『浄土三部経』というのは、「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」という三つのお経の総称で、岩波文庫から上下二巻となって出ている。訳は中村元、早島鏡正、紀野一義の三氏。(したがって、この稿の『浄土三部経』からの引用は、全て中村元、早島鏡正、紀野一義による三氏の訳文による。)

この『浄土三部経』を読んで、いろいろと驚いた。浄土というところは、わたしがうすぼんやり空想していたところとは、ずいぶんちがったところだったのである。これまでわたしは、「浄土というところは、地味~な、静かなところなんだろうなあ。」と、なんとなくそう思っていた。また、「閑寂な雰囲気の中、清らかな池などがあり、その中には蓮の白い花がひっそりと咲いていて、葉の上には小さな青い蛙が一匹、ぽつねんと坐っている」といった情景なども思い浮かべていた。振り返ってみると、そうした空想は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』から連想したもののようだ。(一読者にそのような強い印象を与えるという点で、『蜘蛛の糸』もまた名作と言えようか。)

浄土はピカピカでにぎやか

ところが、『浄土三部経』に描かれている浄土は、全くちがっていたのである。まず驚いたのは、浄土とはものすごい金ピカの世界だった、ということである。(以下の引用で「かの仏国土」と呼ばれているのが、いわゆる極楽浄土。)

アーナンダよ、かの仏国土はこのような七種の宝石でできている木々に覆われ、また、七種の宝石でできている芭蕉の幹と、宝石(でできている)ターラ樹の並木によってあまねくとりまかれている。また、(それらの木々は)すべて金の網で覆われ、(また、かの仏国土は)あまねく、七種の宝石でできている蓮花に覆われている。かしこには半ヨージャナの大きさの蓮花がある。一ヨージャナの大きさのもある。二、三、四、五ヨージャナの大きさのもある。乃至、十ヨージャナの大きさのもあるのだ。(仏説無量寿経)

蓮の花も、むやみに大きい。(注によれば、「1ヨージャナ」とは2.5マイル。)また、その宝石でできた蓮の花からは、「百千億の三十六倍の光」が現れるとのことであり、そこに存在する「目ざめた人たち」の体は、金色に輝いているということである。

また、浄土とは、かなりにぎやかで、騒がしい世界でもあるらしい。今度は「仏説阿弥陀経」から。

また次にシャーリプトラよ、かの仏国土には、白鳥や帝釈鴫(たいしゃくしぎ)や孔雀がいる。かれらは夜に三度、昼に三度、集まって合唱し、また、各々の調べをさえずる。かれらがさえずると、(五)根と、(五)力と、覚りに至るための(七つの)要件(を説き明かす)声が流れる。その声を聞いて、かの(世界の)人々は、仏を心にとどめる思いを生じ、法を心にとどめる思いを生じ、集いを心にとどめる思いを生ずるのだ。(仏説阿弥陀経)

そして浄土では、風に吹かれる宝石の樹木も、ありがたい音を聞かせてくれる。

また次にシャーリプトラよ、かの仏国土では、かのターラ樹の並木や、かの鈴をつけた網が風に吹き動かされるとき、美妙なる快い音が流れ出てくる。シャーリプトラよ、たとえば聖者らが百千億種の天上の楽器を合奏するとき美妙なる快い音が流れ出て来るように、そのように、シャーリプトラよ、かのターラ樹の並木や、かの鈴をつけた網が風に吹き動かされるとき、妙なる快い音が流れ出て来るのだ。かの(世界の)人々は、その音を聞いて、身に仏を念ずる心が起こり、身に法を念ずる心が起こり、身に〈つどい〉を念ずる心が起こる。(仏説阿弥陀経)

うん、まあ。なかなか良さそうなところではある。だが、こうして極楽浄土の様子を読んでいくうちに、少々気になるところがでてきた。というのは、その極楽浄土にいるという「目ざめた」人たちのことである。

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「悟り」とは何か?――パルメニデスを思い出す

もちろん、この人たちは「悟りを開いた人たち」ということになるのだろう。『歎異抄』でも、阿弥陀仏によって浄土に連れて行かれた人たちは、そこで悟りを開くと書かれていたはずだ。問題は、この「悟り」とは何かということ――いったい、どんな知恵が身に備わるのか、ということである。

実は、その点についても、『浄土三部経』の中で一応、言及されてはいる。以下は、「仏説観無量寿経」の中の一節。

かの仏国土のこの上もなく美しい幸福な状態を見て、かれらの心は歓喜し、即座に、〈諸々の事物には自我というものがなく、生ずることもない、と認容し得るような精神状態〉に達するのだ。(仏説観無量寿経)

この「諸々の事物には自我というものがなく、生ずることもない、と認容し得るような精神状態」というのが、どうも「悟り」を開いた状態であるらしい。これは、漢文のお経の方では「無生法忍(むしょうぼうにん)」という語で表されていて、注を見ると「存在するものには自性というものがなく、不生不滅であるという真理を把握し、認容すること」と説明されている。これを日本の浄土真宗では、さらに解釈して独自の意味を見出しているようだ。

が、わたしとしては、原典における意味をそのまま説明した「存在するものには自性というものがなく、不生不滅であるという真理を把握し、認容すること」という解釈が気になるところである。なんだか、聞き覚えがあるような気がするからだ――と思ったら、これは古代ギリシャの哲学者パルメニデスの説と、妙に似ているではないか。

パルメニデスという人の著作は、断片的な詩篇(彼は自己の思想を詩の形で言い表したとされている)しか残っていないので、くわしいことはよくわからないのだが、「存在するもの」は「唯一」であり「不変」であって、生成も変化も存在しない、といったことを主張したらしい。わたしは学生のころから、この話を「変だな? 変だな?」と思って聞いていた。未だにピンと来ない。「存在するものは不変である(パルメニデス)」と言い、「存在するものは不生不滅である(仏説観無量寿経)」と言う。それはつまり、どういうことなのか?

世界が一冊の本だとしたら――

一つには、プラトンのイデア論的(イデア論そのものではない)に、現実世界はさまざまに生成変化するけれども、その根幹を成す法則は一定不変であり、変化することはない、といった解釈が成り立つだろう。しかし、それではなんだか(ある意味)当たり前すぎて、「だからどうしたの?」という気分になってしまう。

もう一つ、こんな解釈もできるかもしれない。つまり、世界を一冊の本にたとえてみるのである。(あるいは一冊のマンガでもいいし、一本の映画でもいい。)それは無限に分厚い本で、その中には宇宙の誕生から消滅まで全ての出来事が――全ての星の誕生と消滅から、それぞれの星の微細な分子レベルの生成変化の記録まで――あらゆることが書かれているとする。その本を読破して、全てを記憶するような知性が存在するとしたら、その知性は世界の存在自体を「不生不滅である」と見ることができるかもしれない。

本を読んでいる途中では、その物語の中で人が誕生し、生き、最後には死んでいくように見える。しかし、全てを読み終えてしまえば、それは動くことのない一冊の本であり、生まれることも死ぬことも、また変化することもなく、ただそこに存在しているだけである。

こちらのほうが、イデア論的解釈よりも、「存在するものには自性というものがなく、不生不滅であるという真理を把握し、認容すること」という境地に近いような気もする。人間にそんな境地が可能かどうかというと、もちろん不可能である。だが、極楽浄土にいるのは、もはや人間ではない。仏なのだ。仏ならば、それもまた可能なのではなかろうか。――というよりも、そうした「人間には不可能な知恵」を夢見た昔々の仏教徒たちの想いの結実が、この『浄土三部経』なのではあるまいか――などと(たぶん本格的な仏教の研究者からは笑われてしまうのだろうが)わたしは、そんなことをぼんやりと考える。

そこにわたしは「いる」が、わたしは「いない」

そして、わたしの思いは飛躍していく。

「世界の全てが記録された一冊の本を完全に記憶した」かのような知恵を身につけること。それはもう、世界そのものと同化してしまう、ということと違いはないようである。とすれば、それは死んだ後、肉体は分子レベルで分解して土に返り、精神は全て消え失せ、喜びも悲しみも苦しみも感じなくなって、ただ世界は何事もなく続いていく。そのことと、何か違いはあるのだろうか。何一つ違いはないのではなかろうか。

つまり、「浄土に行く」ということは、「わたし」というものがきれいさっぱり消えてなくなる、ということと同じことではないか。いや、そもそも、「世界の全てを記した一冊の本」などというものを考えなくても、浄土に行き、悟りを開くということは、煩悩を消し去るということにほかならないはずだ。ところで、SM小説家であるわたしは、煩悩と共に生きている。というよりも、煩悩そのものが、わたしである。煩悩を失くしたわたしとは、いったい誰のことだ?

などと考えるのもまた、煩悩具足の凡夫であるからなのか。

だが、少なくとも、こういうことだけは言える。阿弥陀仏にすがれば、浄土に連れて行ってもらえる。だから、死んだあと、わたしは浄土にいる。しかしまた、その浄土にいるわたしは、もうわたしではない。浄土にSM小説家であるわたしは、たぶんいない。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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