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『ギリシア哲学者列伝』(ディオゲネス・ラエルティオス)――犬のディオゲネスはSMを打ち砕く|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第11回>

大好評連載の第11回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回はディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』に注目。「最も反SM的な存在」に見える人物、それは誰なのか?

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反SM

これまでわたしは、「グリム童話にはSM心が隠れている」とか、「シャーロック・ホームズはS的人物だ」とか、「夏目漱石の『坊ちゃん』で、主人公の『俺』が下女の『清』を置いて遠く旅立つのは、SMで言えば放置プレイである」とか――まあ、いろいろな名著・名作をSM的視点から云々するという作業をやってきたわけだが、このあいだふと、「反対に最もSM的な嗜好や情緒から遠い作品はなんだろう?」という疑問にとらわれた。

以前、「トム・ソーヤーはSM的な人間ではない」ということを書いたが、あれはまあ「非SM」とでもいうべきものであった。つまり、SM的ではないという程度の話で、「反SM」ではない。では、最も明確に「反SM的」と言えるような名著・名作は何かあるのか。そう思って、これまで読んだ本のあれこれを思い浮かべたところ、思い出したのが『ギリシア哲学者列伝』という本である。といっても、この本全体がそうだと言うのではなく、その中で描かれているある一人の人物が、どうもわたしの目からは「最も反SM的な存在」に見えるのである。それは誰か。

――かの知る人ぞ知る哲学者、「犬儒派」と呼ばれる哲学者の一群の中でも異彩を放つ、あの哲学者――そう、あの「犬のディオゲネス」です!

「ギリシア哲学者列伝」とは?

と言っても、「それ誰?」とおっしゃる方も多そうなので、話をゆっくり進めよう。まずはこの人物について書かれている『ギリシア哲学者列伝』を紹介したい。この本は、岩波文庫から上・中・下の三巻に分けて出ている。著者は、3世紀前半に生きたと推定されているギリシャ人 、ディオゲネス・ラエルティオスという人。ただし、時代によっては「ラエルティオス・ディオゲネス」と表記されたり「ラエルテの人ディオゲネス」と書かれたり、どうも名前自体からしてはっきりしない――したがって、その生涯もほとんどわからない、謎に包まれた人のようである。

この本は、古代ギリシャの哲学者の学説や生活ぶりについて、まさに「列伝」の形で語った本である。ただし、全体から見ると「学説」についての説明はかなり通り一遍のもので、概説の域を出ない。それに対して哲学者の「生活」についての説明は具体的なエピソードが満載、しかもゴシップ的な小話が列挙されている。だから、哲学の本というよりも、哲学者の言行録とでも言ったほうがよいと思われる。

「この本はおもしろいのか?」と問われたら、わたしとしては「たいへんおもしろい」と答えたい。ただし、その「おもしろさ」は、すぐにはわかっていただけないかもしれない。というのも、この本は全般的には、非常に退屈なのである。「列伝」であるから、構成はもちろん平板。ただ、次から次へと哲学者の逸話が列挙されているにすぎない。しかも、一人の哲学者を扱っている一つの章の中で、同じような話が何度も繰り返される。「あんた、その話さっきもしてたじゃん!」というわけで、なんだか老人の繰り言でも聞かされているような気分になることもしばしば。けれども、そこを我慢しているうちに、じわじわとおもしろくなってくる――そんな本です。

犬のディオゲネス

さて、総勢80人以上の哲学者を紹介しているこの本の中で、ひときわ異彩を放つのが、わたしが最も「反SM的人物」と見なすところの人物、つまり「犬のディオゲネス」である。(名前が同じなので紛らわしいが、これは『ギリシア哲学者列伝』の著者であるディオゲネス・ラエルティオスとは別人。)

ディオゲネス。紀元前400年前後の哲学者。キュニコス派(犬儒派)の始祖アンティステネスの弟子で、「犬のディオゲネス」と呼ばれた。「犬儒派」という用語は、おそらくディオゲネスが「犬」と呼ばれたことから作られたのだろう。魂と身体を鍛錬し万事を克服することで、何事にも動じない平安を得る道を説いた。その思想は弟子たちに受け継がれ、後のストア派哲学へとつながっていく。

この哲学者が「犬」と呼ばれたのは、家も持たず、公文書の保管所に置いてあった大甕の中に住みついて、あちこちをうろつき回っては広場で人目もはばからず食事をするという、いわば野良犬のような生活をしていたからだと言われている。今風に言えば「ホームレス哲学者」とでもいうことになるだろうか。そしてまた、本人も「犬」と呼ばれることに、特段の不満を感じていた様子もない。といっても、それは卑屈な気持ちからではなく、反対に彼は「犬」であることに――それも誰かの飼い犬ではなく、野良犬であることに、異様なほどの誇りを感じていたようなのである。以下、『ギリシア哲学者列伝』からの一節。

彼は自分のことを、誰からも称賛されているような種類の犬だと言っていた。だが、そのような称賛者の誰ひとり、自分を連れて狩猟に出かけようとする者はいないのだと。(加来彰俊 訳)

また、別の一節には――

お前はどこの産の犬かと問われたとき、「腹の空いているときはメリタ(マルタ)産の犬で、満腹のときはモロシア産の犬だ。これらはどちらも多くの人が褒めている犬だが、いざ猟に連れて行くとなると、彼らは労苦を恐れてあえてそうしようとはしないのである。それと同様に、君たちもまた難儀な目にあうのが怖くて、このぼくと生活を共にすることができないのだ」と彼は答えた。(加来彰俊 訳)

また、こんな話もある。

彼の周りに立っていた少年たちが、「咬みつかれないように用心しようね」と言ったのに対して、「心配するな、小僧ども、犬はビート(青二才)を食べはしないよ」と彼は言った。(加来彰俊 訳)

持たざる者ディオゲネス

さて、この犬のディオゲネスの、どこがいったい反SM的なのか。まず一つは、彼が実質的にホームレスであるということ――言い換えると、持たざる者である――ということである。

サディズムの特質の一つは「奪うこと」にある、とわたしは考えている。あるいは「剥ぎ取ること」と言ったほうがいいだろうか。SM小説では、サディストがその犠牲者の衣服を剥ぎ取って裸にする、という場面が数多く出てくるが(わたしもそんな場面をいくつも描いたが)――これは、「奪うこと」「剥ぎ取ること」を象徴する行為である。

SM小説だって官能小説の一つなのだから、登場人物が裸にならなければ話が始まらないだろう。そう言われればその通りであるけれども、SM小説において、サディストが犠牲者を裸にするというのは、単なる性行為のためという以上の意味がある。(なんだったら、性行為などなくてもいいのでは? と、わたしなどは時々そう思うくらいだ。)衣服を奪い取り、剥き出しの裸体になることを強いる。それは、同時に相手の持っているもの(単なる物質的な財産というだけでなく、その属性を含めて)全てを奪い、何物でもないものに貶め、サディストの要求に応えることを悦びとするマゾヒストへと作り変える(調教する)ための第一歩なのである。

なお、このサディスティックな手法は、漏れ聞くところによると、日本の(あまり誉められたものではない三流、四流の)企業研修などに、取り入れられているようである。教官にあたる人物が研修生たちに対して、「お前の長所を言ってみろ!」などと迫り、研修生がそれに対してあれこれ答える。すると、教官側は「そんなのは長所にはならん!」と切り返し、それを繰り返すことで、研修生たちを徹底した自己否定に追いこむわけである。(これを研修生相互の間でやらせる研修もあるらしい。)その結果、彼らは「生まれ変わって新しい自分を見出す」という理屈のようであるが――これはまあ、はっきり言ってSMですね。わたしはSM小説家(の端くれ)だが、さて、企業研修がSMであることが望ましいかどうかと問われると、「いや、どうも望ましいとは言えませんなあ」としか答えようがない。

持たざる者からは奪えない

閑話休題。さて、そのように相手から全てを奪おうともくろむサディストが、犬のディオゲネスに出会ったとしたら、どうなるか。サディストは考える。「よし、こいつから何もかも奪ってやれ!」と。だが、そもそもディオゲネスは何も持っていない。持たざる者からは何も奪えない。いや、ディオゲネスだって、衣服は着ているだろう。その服を剥ぎ取ってしまえばいいではないか、とおっしゃるか。だが、どうも彼は、裸にされたところで、別段気にしたりはしないようなのである。たとえば(これは別に裸にされたわけではないのだが)誰かがディオゲネスに腹を立てて、彼に水を浴びせかけたという事件があったらしい。そのとき、彼はどうしたか。

あるとき彼は、水を浴びせかけられたままの姿で立っていた。それで、周りにいた人たちがこれを気の毒がると、そこに居合わせたプラトンは、「もし諸君がほんとうに彼を気の毒に思うなら、ここから立ち去りたまえ」と言ったが、これは彼の虚栄心をみなに分からせようとしてのことであった。(加来彰俊 訳)

つまり、ディオゲネスは、誰かから水を浴びせかけられるという辱めを受けたわけだが、その場にじっと立ち尽くすことによって、「自分はこの程度のことには全く屈しないぞ」という意思を示したのである。それを『ギリシア哲学者列伝』の著者は「虚栄心」と書いているが、まさにディオゲネスは、辱めを自己の虚栄心発露の機会にしてしまったわけ。ということは、誰かがディオゲネスの衣服を剥ぎ取ったところで、やはり彼は、そこに立ち尽くし、自己の不屈の精神を見せつけるだけのことだろう。

つまり、サディストはディオゲネスから何も奪うことはできない。といって、ディオゲネスがサディストとなって、誰かから何かを剥ぎ取るということも、またあり得ない。「持たざること」自体を誇りと考えている彼は、誰かの財産を奪い取ってやろうなどとは考えないからである。

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ディオゲネスVSプラトン

ところで、今の逸話にプラトンが出てきたが、『ギリシア哲学者列伝』には、ディオゲネスとプラトンとのやり取りが、数多く描かれている。そのうち、わたしがちょっとおもしろいと思ったものを、いくつか紹介してみたい。なお、師のアンティステネスがソクラテスの弟子だったので、ディオゲネスはソクラテスの孫弟子にあたる。プラトンは言うまでもなく、ソクラテスの弟子。したがって、この両者の対決は、ソクラテスの弟子対決ということになる。

ある日、プラトンが、ディオニュソス(王)のところからやって来た友人たちを自分の家に招待していたとき、ディオゲネスは敷いてあった絨毯を踏みつけて廻りながら、「プラトンの虚飾を踏みつけてやっているのだ」と言った。これに対してプラトンは、「ディオゲネスよ、君は見栄を張っていないと見せることによって、かえって、どれほど多くの見栄を人前にさらけ出していることか」と応じた。(加来彰俊 訳)

これは、プラトンのほうが大人の対応を取った、と評すべきだろうか。けれども、ここにもディオゲネスの「持たざること自体を誇りとする」という態度が、よく表れている。

ディオゲネスのほうが、プラトンをやりこめる話もある。

また別のとき、彼が乾し無花果を食べていたら、プラトンに出会ったので、「あなたに分けてあげてもいいよ」と言った。そこでプラトンがそれを取って食べると、「分けてあげるとは言ったけれど、全部食べていいよとは言わなかったよ」と彼は言ったのだった。(加来彰俊 訳)

「分けてあげるとは言ったけれど、全部食べていいよとは言わなかったよ」というのは、プラトンのイデア説をからかっているのである。プラトンは、真に実在するものはイデアであり、現実の事物はそのイデアの性質を「分有」している不完全な存在にすぎない、と主張していた。この「分有」に引っ掛けてのシャレというわけだ。

さらに、もっと手ひどい悪戯をしかけたこともある。

プラトンが、「人間とは二本足の、羽のない動物である」と定義して、好評を得ていたとき、彼は雄鶏の羽をむしりとって、それをさげてプラトンの教室に入って行き、「これがプラトンの言う人間だ」と言った。そういうことがあったので、この定義には、「平たい爪をした」という語句がさらにつけ加えられることになったのである。(加来彰俊 訳)

この辺りになると、事実がどうか疑わしい。おもしろすぎるのである。が、ともかくプラトンも、ディオゲネスには手を焼いたようだ。とにかくディオゲネスは、貧苦に甘んじるという点では、たしかに師のソクラテスの衣鉢を継いでいた。貴族出身のプラトンには真似のできないことだ。だから、プラトンは彼のことを「狂ったソクラテス」と評している。

ディオゲネスVSアレクサンドロス大王

持たざることを誇りにしている犬のディオゲネス。ならば、その誇り自体を踏みにじればよいではないか。ディオゲネスからは何も奪えないと知ったサディストは、次にそう考えるだろう。だが、その誇りが、これまた誇大妄想狂的に強固なのである。この点については、アレクサンドロス大王との間に生じた逸話を見るといいだろう。

アレクサンドロス大王があるとき彼の前に立って、「余は大王のアレクサンドロスだ」と名乗ったら、「そして俺は、犬のディオゲネスだ」と彼は応じた。(加来彰俊 訳)

ギリシャ世界からペルシア、さらにインド北部にまで達しようという大帝国を築いた、あのアレクサンドロスに対して、この言である。もはや、一介のサディストの手に負える相手ではない。

そして、アレクサンドロス大王もまた、「もし自分がアレクサンドロスでなかったとしたら、ディオゲネスであることを望んだであろうに」と語ったということである。なるほど。徹底的に自由であろうとしたら、他に比べようもない強大な権力の保持者になるか(つまりアレクサンドロス大王になるか)、あるいは全く何も持たない貧困の中に身を置くか(つまりディオゲネスになるか)の、どちらかの方法しかない。このアレクサンドロスの言葉は、自由という点から見て、真実を衝いている。

奴隷となった哲学者

自由。うむ。反SM的な言葉ですね。では、物理的・肉体的にディオゲネスを拘束したら、どうだろうか。つまり、ディオゲネスの自由を強制的に奪い、奴隷にしてしまうのである。当時のギリシャには、奴隷制が存在した。奴隷! 今度はまた実にSM的な言葉が出てきましたよ?

実は、ディオゲネスは、実際に奴隷として売り払われたことがあったのだ。そのときのディオゲネスは、どんな具合だったか。これも『ギリシア哲学者列伝』から。

彼が捕えられて売りに出されたとき、お前はどんな仕事ができるかと訊ねられた。すると彼は、「人々を支配することだ」と答えた。そして触れ役に向かっては、「誰か、自分のために主人を買おうとしている人はいるかと、そう触れ廻ってくれ」と言ったということである。(加来彰俊 訳)

そして彼は、自分の買主であるクセニアデスに対して、よし自分は奴隷であるとしても、自分の言うことには従ってもらわなければならないと言っていた。というのも、もし医者や船の舵取りが奴隷であったとしても、その人の言うことに従うだろうからと。(加来彰俊 訳)

ということで、ディオゲネスは、このクセニアデスという男の息子たちの教育係になって、彼らを立派に育て上げたということである。これではとうてい、SM的な意味での「奴隷」とは言えない。奴隷にこんなに威張り散らされたのでは、SMは成立しません。

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デメテルのこともアプロディテのことも

だが、しかし――SM小説家(の端くれ)であるわたしには、最後の手段がある。それは何かというと、相手の性的な行為を盗み見たり、隠し撮りをしたりして――古代ギリシャの時代にはカメラもビデオもスマホもないけれども、だ――それをネタに脅すという、実に破廉恥な方法である。要するに、「お前の恥ずかしい行為を見たぞ!」と脅迫するわけで、ではその「恥ずかしい行為」とは何か、ということになれば、これは自慰をおいてほかにはないだろう、というのがわたしの考え。この方法では、どうか?

ところが、犬野郎のディオゲネスには、この最後にして最強の手段も通用しないんですね。

また彼は、デメテルのこと(飲食のこと)も、アプロディテのこと(性交のこと)も、何でもすべて人前で公然と行なうのを常としていた。そしてそれについては、何かこんなふうな議論を持ち出していたのであった。――もし食事をとることが何らおかしなことでないとすれば、広場でとってもおかしくない。しかるに、食事をとることはおかしなことではない。それゆえ、広場でとってもおかしくはない。
また彼は、人の見ているなかで、しばしば手淫にふけりながら、こう言っていたものである。
「お腹の方もこんなふうにこするだけで、ひもじさがやむとよいのになあ。」(加来彰俊 訳)

こんな人間には、どんなサディストも太刀打ちできません。そして、以上の話を反対側から眺めると、こんな人間はどうしたってサディストにはならない、ということにもなる。つまり、この犬のディオゲネスこそ、世界史上最も「反SM的」な人間なのであります。

愛されたディオゲネス

では、SM小説家である美咲凌介は、犬のディオゲネスのことが嫌いなのか? 不思議なことに、これが少しも嫌いではないのである。むしろ、好きだ。もし、このホームレス哲学者のような人がいれば――少しでも似たような人がいれば、ぜひ友達になりたいと思っている。これはわたしのささやかな告白である。

だが、これまでの人生で、わたしはそんな人には一人も出会わなかった。そのこともまた、告白せねばならない。だから、わたしにとって、犬のディオゲネスは、見果てぬ夢の一つでもあるわけだ。

なお、ディオゲネスを愛したのは、もちろんわたしだけではない。当時のギリシャの人々もまた、この奇矯な哲学者を愛した。彼の住んでいた大甕が、心無い若者によって壊されたとき、ギリシャの人々はすぐさま代わりの大甕を用意してあげたという。また、彼が死んだときには、誰がその葬礼を差配するかということで、名乗りを上げた弟子たちがつかみ合いの喧嘩をするほどだった、という話も伝えられている。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。
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