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『ピノキオ』(カルロ・コッローディ)――誘惑と罪と罰の物語|SM小説家美咲凌介の名著・名作ねじれ読み<第14回>

大好評連載の第14回目。SM小説家の美咲凌介が、名だたる名著を独自の視点でねじれ読み! 今回は『ピノキオ』に注目。「嘘をつくと鼻が伸びる人形の話でしょ?」と思っている方が大多数ではないでしょうか? それが、実は「誘惑と罪と罰の物語」だったとは…!

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講談社「世界の名作図書館」の思い出

今、手元に一冊の本がある。書名は「世界の名作図書館5 ピノッキオ ピーター=パン」。講談社の出していた子供向けのシリーズ中の一冊で、奥付を見ると「昭和47年7月1日 第2刷発行」とある。ということは、初めてこれを読んだのは、わたしが十一歳か十二歳くらいのとき、ということになるだろうか。

小学生のころ、わが家にはこのシリーズの本が少なくとも十数冊以上――おそらくは二十冊ほどはあったように記憶している。だが、今、わたしの手元にあるのは、この「ピノッキオ ピーター=パン」の一冊だけ。(なお、この一冊の中には、ほかに『青い鳥』も収録されている。)

他の二十冊近くは、いったいどこに消えたのか。この点については、割とはっきりした記憶が残っていて、一言で言うと、大学生になったわたしがタバコ代欲しさに、古本屋に売り払ってしまったのだ。しかも、結果としてはタバコ代にもならなかったのだから、バカバカしい。――というのは、全部合わせて百円でしか売れなかったからで、今よりずっとタバコが安かった当時でも、これではタバコ一箱も買えません。

そんなことを、なぜはっきり覚えているのかというと、その話をエッセイ仕立てにして、当時知人に誘われて参加していたミニコミ誌(学生時代、ミニコミ誌作りというのがちょっと流行っていた)の記事にしたからである。

ピノキオだけを残したわけ

さて、そうやって講談社の「世界の名作図書館」シリーズをまとめて売り払ったわたしが、なぜ、この一冊だけを手元に残しておいたのか。それは、この中に収められている三つの作品のうち、特にピノキオの物語が、どうにも捨てがたいものだったからである。

(なお、手元にある本のタイトルは『ピノッキオ』となっているが、引用部分以外、この稿では「ピノキオ」と表記することにします。わたしの頭の中でこの物語を思い浮かべるとき、その呼び名は「ピノッキオ」ではなく「ピノキオ」であるからです。)

わたしは「まじめ君」だった

わたしは、中学・高校と、表面上、非常に生真面目な生徒だった。(成績優秀だったとは言ってない。)とにかく不良というものが大嫌いで、友達と連れ立って繁華街をうろちょろするとか、体育館の裏でこそこそタバコを吸うとか、そういうことは一つもやったことがない。もちろん、夜の学校のガラス窓を叩き割って回ることもなく、盗んだバイクで走り出すこともなかった。わたしが原付バイクに乗り出したのは大学生になってから、タバコを吸い始めたのは二十歳の誕生日を迎えた後からである。

そんなふうに、ともかく上辺だけは「まじめ君」だったのは、どうしてか。これは思うに、どうやら子ども時代、ピノキオを読みすぎたためらしい。少なくとも、大学生時代のわたしはそう思っていて、だからこそピノキオの物語だけは売り払わなかったわけ。これはわたしの性向を作り上げた物語、いわばわたしの一部となった物語だ、と感じていたからである。どうして、自分の血肉の一部となった物語を、軽々に売り払うことができましょうか。

ピノキオってどんな話?

皆さんご存知の通り、ピノキオというのは木の人形である。ところが、この人形は人間の子どもと同じように口をきき、泣いたり笑ったりする。そのうえ、ひどくわがままで怠け者、おまけに嘘つきで生意気という、子どものいやなところを全部兼ね備えたような存在なのである。

このろくでもない人形が、ひょんなことから、父親代わりのジェッペットじいさんのもとから旅立ち、いろいろな事件に巻き込まれながら少しずつ成長する、そしてジェッペットじいさんと再会を果たした後、謎の「仙女さま」の力添えもあって、ついには立派な人間の子どもとして生まれ変わる、というのが、この物語の要約ということになる。

ピノキオというと、割と多くの人が「嘘をつくと鼻が伸びる人形の話でしょ?」という反応を示す。たしかにそれは間違っていないのだが、実はピノキオが噓をつき、そのせいで鼻が伸びて困るという場面は、少なくともわたしの所持しているこの本の中には二か所ほどしかない。(ただし、これは子ども向けの抄訳であろうから、原典にはもう少し多くの場面があるのかもしれません。)

「鼻が伸びる話」よりもずっと多く、何度も何度も繰り返されるのは、ピノキオが誘惑に負けては痛い目に遭い、改心してはまた誘惑に負ける、というパターンである。その繰り返しが、大人になった今読み返してみても、「ちょっとえぐいな」と感じられるほどで、つまりピノキオの物語とは、誘惑と罪と罰の物語だと言えるだろう。

たとえば、以下は、ピノキオが初めて学校に通おうとする場面。

「きょうは、学校へいったらすぐ、よみかたをならうんだ。あしたは、かきかた。あさっては算数だ。それから、頭をつかって、うんとお金をもうけて、おとうさんに、りっぱな服をつくってやろう。おとうさん、ぼくに勉強させてくれるのに、じぶんの上着を売っちゃったんだからな。」
 こんなふうに、すっかりかんげきしてひとりごとをいっていると、遠くのほうから、にぎやかなふえやたいこの音がきこえてきました。ピピピ、ピピピ、ドンドンドン……。
 ピノッキオは立ちどまって、耳をすましました。その音は、海べにできた小さな村へつうじる、とても長い横町のおくからきこえてくるようでした。
「なんだろう、あの音。いってみるかな。でも、学校へいかなきゃならないし……。いいさ、きょうは楽隊をききにいこうっと。学校はあしたからだ。」
 そうきめると、ピノッキオ、さっそく横町へはいっていくと、いっさんにかけだしました。(『ピノッキオ』安藤美紀夫 訳)

という具合に、簡単に誘惑に屈してしまうのである。この後、ピノキオは人形芝居の人形たちと馬鹿騒ぎを演じて大いに楽しんだのはいいが、結局は人形つかいにつかまって火にくべられそうになる。そこを泣き落としでなんとか勘弁してもらったものの、今度はアルレッキーノという名の人形が、代わりに燃やされそうになってしまう。

かわいそうに、アルレッキーノは、あまりのおどろきに足もがくがく、そのまま、ばったりと、ゆかにうつぶせにたおれてしまいました。
 この心もひきさかれるようなありさまを見て、ピノッキオは、思わずとびだしていって、人形つかいの足もとにひざまずきました。そして、人形つかいの、おそろしく長いひげに、おいおいなみだをながしながら、あわれっぽい声でたのみはじめました。
……略……
「かわいそうなアルレッキーノを、どうかゆるしてやってください。」
「そいつはだめだ。おまえをゆるしてやったんだから、どうしても、あいつはもやさにゃならん。でないと、ひつじが、こんがりやけんからな」
「そんなことなら、このぼくを……。」
と、そのとき、ピノッキオが、きっぱりと立ちあがり、パンのぼうしをなげすてながら、いさましくさけびました。
「さあ、番兵くん、このぼくをしばって、火にくべてください。ぼくのかわりに、アルレッキーノが死ぬなんて、そんなばかなことがあってたまるものか。」(安藤美紀夫 訳)

こんな具合に、時々、突然「いい子」になって危機を乗り越えるのも、ピノキオの特徴である。人形つかいはこのピノキオの行動に感動し、アルレッキーノを許したばかりか、褒美としてピノキオに金貨五枚を与えて自由の身にしてやる。
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誘惑、またしても誘惑

ところが、こうして「いい子」になったピノキオには、すぐに次の誘惑の手が伸びてくる。そしてまたピノキオも、その誘惑にホイホイと乗ってしまうのですね。今度は、怪しげな狐と猫が、ピノキオの金貨を狙って近寄ってくる。

「まあ、よくかんがえてみることですね。あなたの五まいの金貨が、一ばんに二千まいになるんですよ。」
「二千まいですよ。」
と、ねこがまた、おなじことをいいました。
「でも、どうして、そんなにたくさんになるんだろうな。」とピノッキオはあきれて、口をぽかんとあけたままたずねました。
「ふくろうの国にはね、『ふしぎの野原』という原っぱがあるんですよ。その原っぱに、小さなあなをほって、金貨を一まいいれるとしますね。その上に土をかけて、バケツに二はい水をやりましてね、塩を一つかみまいておくんです。すると、金貨は芽をだして、あくる朝には、りっぱな木に、金貨がどっさりなってるってわけですよ。ぴかぴか光って、チャリンチャリン音のする金貨がどっさりね。」(安藤美紀夫 訳)

と、まるで現代の投資詐欺のような甘言に引っかかり、ピノキオは狐と猫に連れられて、ふくろうの国を目指すのである。あげくの果てに、二人組の追いはぎ(実は狐と猫の変装)に襲われ、木につるされてしまう。

そのうちに、はげしい北風がふきだして、ピューピューゴーゴー。宙づりにされているピノッキオは、あんまりひどくゆすられるものですから、いまにも、いきがつまりそうです。目が、だんだんかすんできて、いよいよ、もうだめだと思いました。
「おとうさん、おとうさん。」
 いきがつまって、あとはいえません。ぶるんと一つ身もだえしたかと思うと、そのまま、ピノッキオは、ぐったりのびてしまいました。(安藤美紀夫 訳)

物語は続く

これが『ピノッキオ』の、第十五章の終わりの部分である。驚いたことに、初め作者のコッローディは、ここで物語を終わらせてしまうつもりだったらしい。まことに陰惨かつ投げやりな終わり方だが、そのほうが子どもへ与える教訓として適切だと思ったのか、それとも先を続けるのが面倒になったのか。どちらにしても、読者のほうがそれでは満足できなかったらしく、しばらくの中断の後、ピノキオは生き返ることになった。この辺りの事情は、この本の中の「作品解説」にも記されている。

……この物語は、はじめ、一八八一年に「あるあやつり人形の話」という題で、児童新聞に連載されたのですが、作者のコッローディは、連載のとちゅうでなんどか書きあぐねたあげく、はじめの十五章をもって、この作品をうちきろうとしました。ところが、小さな読者の要求があまりにも強かったものですから、コッローディもそれにこたえて、続きを書くことを約束しました。そのときのことを、編集者のマルティーニはこういっています。
「コッローディおじさんが、わたしに、こんな手紙をくれました。おじさんの友だちピノッキオは、まだ生きていて、あの子のことについては、まだまだどっさりお話することがあるんですって。……それで、さっそく、みなさんにお知らせしたのです。さあ、早く『あるあやつり人形』の第二部を『ピノッキオの冒険』という題ではじめていただきましょう。」(「作品解説」安藤美紀夫)

こうしてピノキオの物語は続いていくが、次々と起こる事件のパターンは、基本的に前半の十五章と同じである。すなわち、「ピノキオが誘惑に負ける――ひどい目に遭う――反省し、「いい子」になる――だが、また次に新たな誘惑の手が伸びる」という型が、ひたすらに繰り返されるわけ。

つまらない教訓

さて、そんな話を小学生の間に何度も何度も読んだとしたら、どうなるか。わたしのように、「なんだか楽しそうに思えるもの」すなわち誘惑に対して異様に用心深い、表面だけは真面目そうな中学生ができあがってしまうのである。

ピノキオの物語の教訓は、至ってシンプルだ。楽しそうなことには気をつけろ。うまい話には乗るな。勉強しろ。働け。ただ、それだけのことにすぎない。要するに、禁欲の勧めみたいなものである。こんな当たり前のことしか言っていない物語が、なぜ名作と評価され、後世に残ったのか。日本人にはごく平凡に感じられるこの教訓が、生来享楽的なイタリア人にとっては新鮮かつ深刻なものに思われたからだろうか。いや、おそらくは、そうではないでしょう。

実は享楽的な物語なのでは?

教訓という点から見れば、ピノキオの物語は、ごく平凡なものにすぎない。けれども、誘惑そのものの恐ろしさ、そしてそれに負け、罰を受ける者の惨めさ、あさましさを「鑑賞する」という視点から――つまり、一種の倒錯した審美的観点から見ると、この物語は実に独特の迫力をもって、読者に迫ってくるのである。

たとえば、物語の後半で、仙女さまの導きによって学校に再び通い始め、成績もよくなったピノキオが、悪い友だち(ああ、この「悪い友だち」という言葉の響きの、なんと恐ろしくも魅惑的なことか)から、いっしょに「おもちゃの国」に行こうと誘われる場面。

「ばかだなあ、ピノッキオ。ほんとの話だぜ。こないと、あとで、しまったと思うぞ。こんなにいい国って、ほかにあるもんじゃない。学校もなけりゃ、先生もいないし、本もないんだ。そのしあわせな国じゃ、勉強なんてするやつはいない。木曜日は学校が休みでさ、おまけに、一週間は木曜日が六日と日曜日が一日なんだ。それにな、いいか。やすみは、一月一日からはじまって十二月三十一日でおわるんだ。こんな国こそ、ほんとうに、ぼくの気にいりの国さ。文明国はみんな、こうでなくちゃいけないよ。」
「じゃ、おもちゃの国では、毎日なにをしてくらすのさ。」
「朝からばんまで、ぶらぶらあそんでくらすんだよ。ばんになったら、ベッドにもぐりこんで、朝がきたら、またおなじことをやるんだ。どうだい。」
「ふうん。」
と、ピノッキオは、かるく頭をふりました。(安藤美紀夫 訳)

この「悪い友だち」による説得は、このあともかなり長く続く。まるで官能小説において、ヒロインの裸体の描写が長々と続くように、長く続く。さて、これを読む者は、そのときどんなことを思うのか。

「ピノキオよ、だまされないで!」と? いやいや、少なくともわたしは、そんなことを念じながら読んではいなかった。小学生のころもそうだったし、この稿を書くために最近読み直したときもそうだったが、決してそんなふうには読まなかった。むしろ逆です。

「ピノキオはどうせまた、だまされるんでしょ? いや、むしろ早くだまされてくれ。だまされて不幸になれ。惨めな境遇に堕ちろ!」という感じ。

そして、期待通りにピノキオはだまされ、堕落し、おもちゃの国へ行って遊び暮らしているうちに、ロバに姿を変えられてしまうのである。また、それを読んでいる読者は――失礼、少なくとも一読者であるわたしは――「ああ、またしてもピノキオは不幸になった!」という、サディスティックな満足感に浸るわけだ。

われながら心が汚れているなあ、とは思うのだが、どうにも仕方がありません。ピノキオの物語の楽しみは、要するにこうしたサディスティックな喜びに尽きるのではあるまいか。この物語は、他者の堕落を楽しむという意味で、(その見かけの教訓とは反対に)おそろしいほど享楽的な作品なのではないか。だからこそ、今日まで名作として残ってきたのではあるまいか。

わたしの代わりに誘惑に身を任せ、わたしの代わりに堕落してくれる存在。それがピノキオなのである。ぶざまであさましい姿をさらしては、わたしのサディスティックな欲望を満たしてくれる存在、それもまた、ピノキオなのだ。
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悲しいハッピー・エンド

だから、わたしにとって、ピノキオの物語の一番つまらない部分は、結末の部分である。ロバになったピノキオはサーカスに売られるが、紆余曲折の末、元の姿を取りもどし、ジェッペットじいさんと再会する。そして二人で暮らし始めるのだが、その時点でついにピノキオは改心し、本当の「いい子」になってしまうのである。体を壊したジェッペットじいさんを養うため毎日懸命に働き、重い病気になって病院にいるという「仙女さま」のためにお金を贈るピノキオ。

すると、ゆめの中に、やさしい仙女さまがでてきました。仙女さまは、にっこりわらって、いいました。
「えらいわ、ピノッキオ。おまえのやさしい心にめんじて、いままでのことは、みんなゆるしてあげるわ。これからも、ものごとをするときは、よくかんがえてやるのよ。そしたら、きっと、しあわせになれるわ。」
 そのとき、ピノッキオは、はっと、ゆめからさめて、あたりを見まわしました。
 ところが、どうでしょう。目がさめてみると、ピノッキオは、もう木の人形ではなくて、りっぱな人間の子どもになっているではありませんか。(安藤美紀夫 訳)

ま、ハッピー・エンドではありますな。だが、「人間として生まれ変わる」とは、なんとつまらない結末だろうか、と小学生のころのわたしは思ったし、実は今でもそう思う。ただの人間の子どもなんて、どこにでもいる、ありふれた存在にすぎないではないか。

もう、あのトリック・スターのピノキオは、どこにも存在しない。いや、そうではない。その残骸だけは残っている。

「もとの、あの木のピノッキオは、どこにかくれちゃったの。」
「ほら、そこにいる。」
 そういってジェッペットじいさんは、いすによりかかっている、大きな木の人形を指さしました。見ると、木の人形は、首をかたいっぽうにねじまげ、両手をだらりとさげて、足をまげています。これで、いままで、よくまっすぐに立っていられたなと、まったくふしぎなくらいです。
……略……
「あやつり人形だったときのぼくったら、なんておかしなかっこうだったんだろう。でも、いまは、いい子になれて、うれしくてたまらないや。」(安藤美紀夫 訳)

正直に言います。わたしの心の中では、人間の「いい子」になれたピノキオを祝福する気持ちよりも、あやつり人形のピノキオがもう二度と動かないことを悲しむ気持ちのほうが、ずっと強い。ええ、うん。賛同してくださる方は少ないだろうとは思っていますが――「首をかたいっぽうにねじまげ、両手をだらりとさげて、足をまげて」いる、元のピノキオの残骸に、わたしは、ひとしずくの涙を注ぎたい。

プロフィール

美咲凌介(みさきりょうすけ)

1961年生まれ。福岡大学人文学部文化学科卒業。在学中、文芸部に所属し、小説や寓話の執筆を始める。1998年に「第四回フランス書院文庫新人賞」受賞。SMを題材とした代表作に『美少女とM奴隷女教師』『Sの放課後・Mの教室』(フランス書院)など。他に別名義で教育関連書、エッセイ集、寓話集など著書多数。

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