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【連載第1回】リッダ! 1972 髙山文彦

パレスチナ解放を目指す日本人青年3名による「テルアビブ空港乱射事件」から半世紀――その深層を描く髙山文彦の巨弾ノンフィクションがスタート!

 君に残された時間は短い。山奥にいるように生きよ。至るところで宇宙都市の一員のごとく生きるならば、ここにいようとかしこにいようとなんのちがいもないのだ。真に自然にかなった生活をしている人間というものを人びとに見せてやれ。観察させてやれ。もし彼らに君が我慢ならないなら、彼らをして君を殺させるがよい。

マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳

序章 水平線の向こうに

 いつもなら満開の桜の下、花見客でにぎわうころなのに、二〇〇二年は一月から春の陽気がつづき、東京の桜は平年より一〇日も早く三月一六日に開花した。二一日には満開を迎え、それから九日後の三〇日は土曜日だったが、よく晴れわたり、もう花はさかんに散りはじめていた。
 日比谷公園のかもめ広場は、緑に囲まれた中心部の噴水広場にくらべたらそれほど広くはなく、桜の木もまだ若くて数えるほどしかなかった。花見の名所というわけではないが、広場のまんなかにはライトアップされた噴水が色とりどりに水しぶきを上げており、夕刻を過ぎてあたりが暗くなってからも三人の花見客があった。
 ほかにもうひとり、彼らから離れたところに、どう見ても花見とは思えぬようすの男が地べたに結跏趺坐けっかふざを組み、風に引きちぎられ飛んでくる花びらに包まれていた。彼はどこか異国の派手な国旗のようなものを肩からたすき掛けにして、まったく動かなかった。
 花見の三人は、突然自分たちの目のまえで起きた出来事を、にわかには信じられなかっただろう。「人が燃えている」と、彼らのひとりから一一〇番通報が丸の内署にはいったのは、午後六時半ごろのことだった。
 坐りつづけていた痩身の男は、炎に包まれて立ちあがり、噴水のほうへ歩き出していった。一歩、二歩、三歩と、はじめはなんということはない足取りで歩いていたが、急によろめいて、水辺の手前でぐしゃりとくずれてしまった。それでも残り少なくなった最後の力をふりしぼり、どうにか結跏趺坐を再度組もうとして横転した。駆けつけた機動隊員が消火器で火を消し止めたとき、全身真っ黒に焼けこげて四肢を不自然な方向に折り曲げている男は、まだいくらか命をとどめているのか、「自分でやったのか」と大声で問われて、左手を上げてみせた。救急車で搬送された病院で、七時半過ぎに死亡が確認された。
 現場には、ライターと溶けかかったペットボトル、そして鞄が転がっていた。鞄には運転免許証のほかに、その場で書かれたと思われる横書きのメモがはいっていた。
 男の名はもりたか、一九四七年九月一八日生まれ、現住所は神奈川県大和市、本籍秋田県であることがわかった。メモには謎めいた内容が、横書きの文字でこのように綴られていた。

2002.3.30
まだ子どもが遊んでる。
もう潮風も冷たくなってきた。
遠い昔、能代のしろの浜で遊んだ、あの小さなやさしい海がここにもある。
この海がハイファにもシドンにもつながっている、そしてピジョンロックにも。
もうちょっとしたら子どもはいなくなるだろう。

 機動隊員にメモの内容は、到底理解できなかっただろう。しかしすぐに、彼が何者であるのか調べはついた。公安調査庁の資料によれば、檜森孝雄は日本赤軍の元活動家で、彼自身は直接その事件にはかかわっていないのだけれども、一九七二年五月三〇日、イスラエルの主要都市テルアビブ近郊の国際空港で無差別乱射事件を起こし、数多くの一般旅行者を殺傷した日本人グループと深いかかわりを持っていた。
 なぜ、こんな場所で、たったひとりで、このような死にかたをしなければならなかったのか。
 焼身自殺こそ、もっとも苛烈で痛苦を極める自死の方法だと言われる。このとき檜森孝雄が使った燃料について「灯油」と書いた新聞もあり、「ガソリン」と書いた新聞もある。灯油ならガソリンよりも燃焼温度が低く、酸素の消費にも時間を要するので、その分、苦しみが長くつづく。ガソリンなら周囲の酸素をはげしく消費するし、爆発するように燃えるので、ほとんど即座に窒息状態に陥り、苦しむ時間は短くなる。機動隊の質問に手を上げてこたえたのが本人の意志だったとしたら、灯油による苦痛に満ちた死だったのではなかろうか。
 どちらにせよ高温に焼かれる皮膚の内側では、血液やリンパ液などの体液が煮えたぎり、水分は蒸発する。息を吸い込めば気管や肺は焼け、呼吸困難になる。ところがそれでもまだ意識はあり、彼の眼球は膨張して破裂するまで黒く焼けこげて変形する自分の手足を見ることになる。はげしい脱水症状と一酸化炭素中毒、地獄の釜で焼かれるような苦しみであったろう。
 なぜこのような死にかたを彼は選んだのか。そして、その死にかたとはまるでかけ離れているような、どこか牧歌的で、涼やかな風さえ感じられる澄みわたったメモの書きぶり。この落差をどう受けとめればよいのだろうか。
 アメリカに長いあいだ戦争を仕掛けられたベトナムや中国に侵略されたチベットでは、おもに僧侶たちの焼身自殺があいついだ。これは侵略者にたいする抗議の極致の姿であって、このような死にかたをすれば、広く世界に自分たちの国と国民がいかに理不尽でむごたらしい目にあっているかを知ってもらう可能性がひらける。僧侶にはこれに「心頭滅却すれば火もまた涼し」といったような仏教的な信心の到達点が加味されて、自分のためではなく徹底して自分以外の人びとの救済を実現しようという利他の精神が貫徹される。
 犠牲となることへの確信と肉体的苦痛、死への恐怖を乗り越えた透徹した心をもって抗議声明とするからには、できるだけ多くの同胞や侵略者のいるまえでこのような自死の方法を決行してみせなければならなかった。ところが、檜森孝雄は閑散とした広場の片隅で、仲間にもだれにも見守られることなく、たったひとりで燃え落ちたのだ。
 チベット亡命政府が置かれたインドのダラムサラに長年暮らし、建築家として働きながら、中国による拷問をうけて逃れてきたチベット人の支援にあたっている中原一博が著した『チベットの焼身抗議――太陽を取り戻すために』(集広舎)という克明な報告がある。これによれば、たとえば二〇一二年一月、二二歳と二〇歳のチベット人ふたりがそろって四川省内のチベット族自治州の路上で焼身抗議をした。ふたりは炎に包まれながら、「ダライ・ラマ法王をチベットにお呼びしよう!ダライ・ラマ法王に長寿を!」と叫んだという。
 二二歳のロプサン・ツルティムは遺書を残していた。それには中国の侵略後一〇〇万人以上の人々が殺され、僧院や宝物、家々、文化が破壊され、すべての国と個人の貴重な財産が奪われたこと、チベット人にとって第一の精神的よりどころであるダライ・ラマ法王が亡命を余儀なくされ、多くのラマやリーダーたちも亡命し、投獄されていることが記され、「そして今、常軌を逸した『愛国再教育』が僧院で行われている。これは如何なるチベット人も受け入れることができない」として、このように綴られている。

 要するに、彼らは表現、移動、コミュニケーション、集会、宗教等々の権利をすべて奪った。そして、これらの状況を外の世界に知らせるどんな言葉も許さない。彼らが外の世界に知らせることは嘘ばかりであり、誰にも真実を見ることを許さない。本当の状況を知らせた者に対しては不当な非難とともに恥知らずな誹謗を浴びせ、彼らを秘密裏に殺害したり、獄に送る。
 この虐待と弾圧の証言として、世界の人々がこの事実を知るために、真実のために、犠牲となった利他的血脈のために、自由への闘いのために、私も己の貴重な身体を投げ出す。そして、高貴な死を選択した者たちは、真理と利他の力により死の恐怖から守られるという、大いなる確信と大志を持って私は己の命を犠牲にする。

 年若いロプサン・ツルティムには、妻と幼い娘がひとりいた。彼は幼少時に僧侶となり、いまは還俗していたが、妻や娘との今生の別れさえも火炎のなかに引き受けて、ふたたび僧侶の自覚に立ち返り、親友の僧侶とともにわが身を焼いたのだ。
 彼は先の文章のあとに、「私を1人の事例として、他国の武力により自由が奪われた、真理と慈悲を愛する小さな人々、、、、、の味わう拷問と苦しみについて、人々が考察するよすがとならんとする」(傍点・引用者)としるしている。この「小さな人々」という言葉にこそ力点が置かれているように感じられ、ある特定の組織によるミッションであるとか、孤立無援に追いつめられたあげくの自暴自棄的な最終手段であるとか、そうしたものとはまったく無縁の「一切衆生悉いっさいしょうじつ仏性ぶっしょう」といったような尊い教えの根幹に帰依するものであったことが感受される。
 檜森孝雄は僧侶ではないし、明らかにメモの内容はロプサン・ツルティムの遺書とは趣きを異にしている。国際テロリスト組織とみなされてきた日本赤軍のメンバーであったにしては、張りつめたような悲壮感もなく、むしろ青い空と海のあいだに孤独な魂を穏やかに解き放っていくような明るいイメージを喚起させられる。
 彼は噴きあがっては落下する水のしぶき、それを受けとめて波立つ水面に故郷の海を見出し、吹いてくる風に潮のにおいを感じとる。そして噴水の水辺は、いっさいの介在物を差しはさむことなく、はるか彼方の異国の海へとまっすぐにつながっていく。渚の人となった彼の目には、かの地から打ち寄せる波が足元を洗うだろう。しだいにそれは大きさを増し、ひときわ高い波が目のまえに立ち上がるのを見て、この世で最後の見納めとなる子どもたちの遊ぶ姿に「さよなら」を告げている。子どもたちというのは、いつか一緒に遊んだ子どもたちのことであろう。全身を炎に包まれたとき、彼は海に身を投げたのも同然で、わが身を引きさらう離岸流に乗って、かの地へ帰ろうとしていたのだ。

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