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シンデレラが100m9秒99で走る⁉︎ 爆笑必至「浪曲シンデレラ」の生みの親・玉川奈々福が語る「いま、なぜ浪曲が求められているのか」 連載対談 中島京子の「扉をあけたら」 ゲスト:玉川奈々福(浪曲師)

浪曲のイメージに新風を吹き込みながら、さらなる挑戦を続ける浪曲師・玉川奈々福さん。お話を伺ううちに、生きにくい時代と向き合うためのヒントが見えてきました。

 


連載対談 中島京子の「扉をあけたら」
第三十五回

いま、なぜ浪曲が
求められているのか。
ゲスト  玉川奈々福
(浪曲師)


Photograph:Hisaaki Mihara

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玉川奈々福(左)、中島京子(右)

うっかり三味線を習い、うっかり浪曲師に

中島 第十一回()(たみ)(じゅう)(ぞう)賞の受賞、おめでとうございます。
奈々福 ありがとうございます。生まれてこのかた、賞と名のつくものを頂戴したことがなかったので、本当に光栄です。しかも歴代受賞者のお名前を拝見すると、糸井重里さんや内田(たつる)先生、池上彰さんなど、素晴らしい実績をお持ちの著名な方々ばかり。今回、どうして私が選ばれたのだろうかと、驚きました。
中島 いやいや、それは浪曲師である玉川奈々福さんのお仕事が、正当に評価されたってことだと思います。
奈々福 落語には馴染(なじ)みのある人でも、浪曲や講談にはとんと縁がない。私たちの芸に触れてもらう機会は圧倒的に少ないので、こういう賞を頂いたことで、少しでも人口に膾炙(かいしゃ)するきっかけになればいいなと思っています。
中島 奈々福さんのプロフィールを拝見したら、なんと私と同い年。しかも社会人としてのキャリアを編集者からスタートしたという経歴も同じ。今は浪曲師と作家という違う道を歩んでいますが、同じ時代を同じような世界で過ごしてきた方なんだなと、すごく親近感が湧いてきました。
奈々福 本当に似ていますよね。でも、私が編集者になったのは、ほんの偶然のこと。特に何をやりたいという気もなく、まわりに流されるように就活をしてはみたけれど、新聞社やテレビ局、出版社など全部落っこちた。自費出版物と雑誌をほそぼそと作っている出版社がひろってくれて、編集の仕事に携わることになったんです。
中島 現在の奈々福さんは、浪曲を広めるために様々な活動をしていらっしゃいます。編集者時代に相当企画力を磨いてこられたんだなという感じがします。
奈々福 イヤイヤ、編集としては全然優秀じゃなかったです。浪曲の企画はわりといろいろアイデア湧くんですけど(笑)。
Img_35007中島 三味線を始められたのには、何かきっかけがあったんですか。私たちの若いころって、まさにバブルの絶頂期。あんな浮かれた時代に三味線を習って浪曲をやろうなんて、普通は考えないでしょう。
奈々福 世の中は浮かれていたけれど、私はまったく蚊帳(かや)の外。地味に仕事をしていました(笑)。そもそも浪曲をやろうという意識はまったくなかったんです。出来の悪い編集者でしたから、作家の先生に原稿を依頼しようと訪ねても、気持ちばかり空回りしてうまくお願いできない。相手の心に届くような言葉を発せられる自分になりたかった。本を読むことはもちろんですが、生涯続けられるような習いごとで修練を積めば、身体教養がつくのではと一念発起して始めたんです。
中島 最初の出版社にお勤めのころですか?
奈々福 一九九四年ごろですから、筑摩書房に移っていました。会社から歩いていける距離に浅草の日本浪曲協会があったんです。そこで三味線教室が開催されていた。しかも、三味線も貸与してくれるらしい。ちょっと触ってみようかなという軽い気持ちで、うっかり教室に足を踏み入れてしまったんです。
中島 素晴らしいうっかりですよね。それが、人生を変えたんですから。
奈々福 人生、何が起こるか分かりませんよね(笑)。三味線教室に通い始めてしばらくしたころ、先生にちゃんとご挨拶をしておこうと水菓子を手土産に訪ねたら、「弟子からは、ものを受け取らないよ」と言われて……。それが私の師匠となる、玉川福太郎です。
中島 三味線教室の生徒になっただけですよね。それがなぜいきなり浪曲入門の話になるのか(笑)。
奈々福 そうでしょう。だから、私は出版社で正社員として働いているから弟子入りはできません、とお断りしたのです。「でも土日は休みだろう」って。
中島 簡単には引き下がってくれない(笑)。
奈々福 「舞台の表に出る浪曲師は難しいかもしれないけれども、三味線なら、会社員と兼業でも大丈夫だろう」。
中島 さすが一流の浪曲師。口じゃかないませんね。
奈々福 そんなやり取りをしているうちに、うっかり弟子入りしてしまったんです(笑)。
中島 また、運命のうっかりですね。
奈々福 それでも稽古に通ううちに、どんどん浪曲の魅力に引き込まれていきました。最初は三味線弾きだったのですが、数年()ったころ師匠から三味線の修業の一環として、舞台に立って浪曲師として一席うなってみなさいと言われて、そのまま今に至ります(笑)。
中島 お話がじょうずなので、なんだか、浪曲というか、落語か漫才を聞いているみたいです。奈々福さんは、曲師から浪曲師になられましたが、浪曲は、浪曲師と三味線で伴奏をする曲師とのふたり芸ですよね。そこが面白い。
奈々福 三味線に乗せて独特の節回しで物語るのが、浪曲です。私を主に弾いていただいているのが、芸歴七十年の大ベテラン、沢村豊(さわむらとよ)()師匠。私たちにとっては神様のような存在です。でも師匠にお稽古をつけていただくでしょう。具体的なことはおっしゃらずに、師匠独特の擬音を使って表現されるんです。
中島 長嶋茂雄監督が少年たちに「スッと来たら、バッといってガーンと打てばいいんだ」といって打撃を教えたエピソードを思い出しました(笑)。豊子師匠も天才肌なんですね。
Img_35074奈々福 はい、まさに。最初はまったく理解できなくて、豊子師匠が意図することをくみ取るのに、半年ぐらいかかりました。親子以上に長い時間を一緒に過ごしてきましたので、今はもう、()(うん)で分かりますけれども。
中島 一緒に住んでいた時期もおありになったとか。
奈々福 まだ編集者との二足のわらじを履いていたころ、秋葉原で四畳半と小さなキッチンだけの狭い部屋を借りていたんです。豊子師匠のお住まいは茨城県でしたので、舞台が終わった遅い時間におひとりでお帰しするのが申し訳なくて。「すごく狭くて汚いところですが、私の部屋に泊まりますか」って、ぽろっと言ったのが運の尽き。「あんた、ここはよく眠れるね」って、それっきり帰らなくなっちゃった(笑)。
中島 でも、なんだか憎めなくてかわいい、なんて言ったら失礼ですよね。豊子師匠は、人間国宝のような方ですものね。
奈々福 残念ながら、浪曲界からはまだ人間国宝が出ていないのですが、豊子師匠の三味線の音色は本当にすごいなと思います。皆さん、国宝級だと絶賛されます。

 

世の中が「忘れたい過去」に近づいている

中島 素朴な疑問で恥ずかしいのですが、浪曲のことを浪花(なにわ)(ぶし)と言うのはどうしてなんですか?
奈々福 一応、明治初期に東京において、浪花節という名前で芸人鑑札が下りたという史実がありますが、その由来に関してははっきりとは分かっていないんです。文化文政の末期に浪花伊助っていう人がいた。和歌山から大阪に上ったけれど、ちっとも売れない。そこで江戸まで出てきて、浪花節と名乗ったという説や、浪花亭駒吉っていう人がいたなどいろんな説があります。実際に上方では明治末期まで、浪花節ではなく浮かれ節と呼ばれていましたから。
中島 浮かれ節って、なんだか楽しそうですね。
奈々福 今の浪曲界からは想像もできませんが、昭和三十年代前半ぐらいまではすごく人気があったと聞いています。寄席が終わったあと、箱に現金を詰め込んで、足で踏んづけて運んだという逸話も残っているほどです。
中島 (もう)かって、儲かって、ふたが閉まらない。ああ、うらやましい(笑)。
奈々福 最盛期には、浪曲師は国内に三千人もいたそうです。それが、高度成長期になると、急に人気がなくなり廃れていきます。
中島 何か事件でもあったんですか?
奈々福 事件ではなく、人間の気持ちの変化ではないかと、私は思っています。先進国に追いつけ追い越せで、経済は発展し、所得は倍増していた時代です。これからは誰でも幸せになれるんだと気づいたときに、浪曲で語られる古臭い世界は、日本人にとって積極的に忘れたい過去だったのでしょう。あんな貧乏臭くて悲しい日々は、なかったことにしたい。でも、それまでそういう古い日本を背負って、庶民を励ましていたのが、浪曲のような芸能だったんです。
中島 浪曲というと『国定忠治』や『忠臣蔵』、『清水次郎長』などの古典を思い浮かべる人が多いと思います。奈々福さんは、古典はもちろん、新作として『シンデレラ』やジブリ作品の『平成(へいせい)(たねき)合戦(がっせん)ぽんぽこ』などを浪曲化するという離れ業に挑んでいます。奈々福さんのご活躍によって、今まで浪曲にまるで縁がなかった若い方たちまで、寄席に足を運ぶようになった。浪曲の人気が復活し始めているとお聞きしました。
奈々福 浪曲って、おじいさんが青筋立ててうなっているイメージがあるでしょう。それを心地よく裏切るにはどうしたらいいだろうと考えたんです。そこで、古臭い日本が嫌なら、誰でも絶対に知っている西洋の物語をと。お涙頂戴が辛気臭いというのなら、大爆笑させてあげよう。そうして出来たのが、『浪曲シンデレラ』です。古典のスタイルでもやりますが、時には白いドレスを着て三味線を持って舞台に立つ。それだけでも摩訶(まか)不思議ですが、話の中ではシンデレラが百メートルを九秒九九で走るんです。会場は爆笑。おじいさんが青筋立てているのがおっかないというのなら、若手の女性を集めて「浪曲乙女組」っていうユニットを組んでみたり、と、いろんなことをやってきました。
Img_35016中島 演者でありながら、プロデューサーでもあるんですね。奈々福さんのキャッチフレーズである、ほとばしる浪花節ならぬ、ほとばしる才気を感じます。
奈々福 いやいや、乾いた雑巾を絞るように、必死で知恵をひねり出しています。浪曲が今のお客様に響くようにするにはどうすればいのか。日々考え続ける中で、どうやらこちら側の問題だけではなさそうだぞと気がついた。芸能は社会の状況と共にある。今、生きづらい世の中ですよね。浪曲には、笑わすこともできれば、ほろっとさせることもできる。寄席の小屋の中だけは、満員電車じゃないんだから、いろんな感情をほどくことができる。そこでは自由になってほしいんです。それが明日の活力になるのであれば、それに勝る幸せはありません。
中島 やっぱり、今は生きづらさが増しているから、それを喜怒哀楽の感情で救ってくれる浪曲のような芸能が、必要とされているんでしょう。
奈々福 そうかもしれませんね。今まで否定されてきた義理人情やお涙頂戴、苦しみや悲しみに寄り添う浪曲の世界と世の中の状況がリンクしてきたんでしょうね。だから、浪曲に共感してくれる人が増えているのだと思います。
中島 先日、奈々福さんの公演にうかがわせていただいたのですが、言葉は難しいのに、スーッと耳と頭に入ってくる。すごい芸だなと驚きました。
奈々福 そう言っていただけると、うれしいですね。実は、話の内容はよく分からなくてもいいやと思っているんです。日本語を心地のいいリズムに乗せてしゃべる。それを聴いた人に日本語って面白いな、かっこいいなって、感じてもらえたらいいというのが第一なんです。
中島 一般の方にも浪曲を教えていらっしゃるとか。
奈々福 はい。そういうワークショップのときに、「ああなりまして、こうなって、こうこうしかじかで、こうなった」というなんの意味もない四行に節をつけて浪曲的にうなってみせるんです。すると、なんだか意味のあることに聞こえてくるでしょう。でも、生徒さんにやってもらうと、みなさん自分の声がコントロールできない。なんの意味もないのに、なるほどって思える説得力を持たせるっていうのが、語りの芸のテクニック。練習すれば、この抑揚を自覚的に操れるようになる。「江戸は神田お玉ケ池、北辰一刀流の道場を開いております、千葉周作の門弟、(ひら)()造酒(みき)」までうなれたら……。
中島 かっこいい。奈々福さんの声だからかもしれませんが、生で聞くと人の声ってすごいんだなと感じます。
奈々福 ナマの声って、耳でというよりも、体で受け止める感じがしますし、おなかに響きます。日常生活では感じることのできない快感があると思います。
中島 ワークショップを経験した参加者の方に、何か変化は現れるんですか。
Img_35091奈々福 すごく変わりますね。泣き出しちゃう人もいる。でも、なぜ自分が泣いているのか分からないっていうんです。これまでずっと自分を閉じていたんでしょうね。浪曲をうなる練習をしているうちに、何かのきっかけでフックが外れて心が解放される瞬間がやってくるようなんです。
中島 すごい、まさに浪曲セラピーですね。
奈々福 三味線を弾いて、この音を声に出してと教えているだけなんですが……。今の時代生きるのが大変だから、みんな心に鍵をかけているところがあるのでしょう。
中島 私、通っているピラティスの先生に、「中島さん、呼吸が浅くなっています」ってよく言われるんです。肩甲骨のあたりがガチガチに固まって、猫背になっている。空気をいっぱいためこんで吐き出せる体じゃないと、元気ではいられないらしい。奈々福さんを見ていると、浪曲はいかにも健康に良さそうですよね。
奈々福 不思議なのですが、浪曲を始めてから目がよく見えるようになったんです。しかも、生まれてこのかたずっと血の薄い女だったのに、血液の数値まで全部正常値になりました。毎日、腹式呼吸でうなっているのが良いのかもしれませんね。

 

ジャンルの枠を超えた挑戦は続く

中島 いろんなチャレンジを行っている奈々福さんですが、去年は外国で浪曲をおやりになったと伺いました。 
奈々福 イタリアやハンガリー、スロベニアなど、七か国をまわって公演しました。
中島 浪曲ですから、もちろん日本語ですよね。
奈々福 はい。舞台では字幕をつけまして、ほんの一部、現地語を入れる以外は日本語でやりました。
中島 海外のお客様の反応は、どうでしたか。
奈々福 皆さん、楽しまれていたようです。()れた亭主が(ばく)()好き。それを女房がたたき直す『仙台の鬼夫婦』という話をしたのですが、女房がすごく詰めた声で夫をたたき出すシーンでは、現地の言葉を使ったんです。
中島 現地語で! すごい、かっこいいなぁ。
奈々福 「一日だけでも、休ませてはくれぬか」「なりませぬ」程度の短いフレーズですが、一瞬「えっ?」となって、二言目くらいで自分たちの国の言葉だと気づいてくれる。「ブラボー!」のような歓声があがって、すごく盛り上がりました。
中島 言葉も文化も違う国での公演ですから、不安もおありだったでしょう。
奈々福 江戸時代の古典のお話を持っていったので、家の様子や風俗や着物など、海外のお客様の頭の中ではどういうふうな絵が思い描かれるだろうということが、一番心配でした。舞台が終わったあとの交流会のときに、お客様に感想を聞いたんです。すると「何を言っているんだ、きみは。私は、小津安二郎も成瀬巳喜男も全部()ている。もちろん黒澤明も全部見ているから、侍のことならなんでも聞いてくれ」。
中島 恐れ入りました(笑)。
奈々福 通訳の人たちは、マンガやアニメーションがきっかけで日本語を勉強し始めたと言っていました。
中島 さっきまで生きにくい世の中になったと悲観していましたが、政治はともかく、芸術や芸能などの文化交流においては日本もまだまだ捨てたもんじゃありませんね。奈々福さんの、バイタリティにはまったく脱帽です。最後になりましたが、今日はもうひとつお祝いがあるんです。この度レコードデビュー……じゃなく、CDデビューされたそうですね。おめでとうございます。
奈々福 ご縁があって六月十九日に日本コロムビアさんから、刀剣歌謡浪曲「舞いよ舞え」と歌謡曲「恋々芝居」で歌手デビューさせていただきました。浪曲界は、これまでも三波春夫先生や村田英雄先生、二葉百合子先生など時代を代表する歌手を輩出しています。私も偉大な先人たちに、少しでも近づけるよう精進してまいります。
中島 歌手になったからには「目指せ、紅白」ですね!(おお)晦日(みそか)に奈々福さんの晴れ姿を拝見できることを楽しみに、これからも応援しています。
 

構成・片原泰志

プロフィール

中島京子(なかじま・きょうこ)

1964年東京都生まれ。1986年東京女子大学文理学部史学科卒業後、出版社勤務を経て独立。1996年にインターンシッププログラムで渡米、翌年帰国し、フリーライターに。2003年に『FUTON』でデビュー。2010年『小さいおうち』で直木賞受賞。2014年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。2015年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。『長いお別れ』で中央公論文芸賞、翌年、日本医療小説大賞を受賞。最新刊は『夢見る帝国図書館』。

玉川奈々福(たまがわ・ななふく)

1964年横浜市生まれ。1995年玉川福太郎に曲師として入門。三味線の修業をしていたが、氏の勧めにより2001年より浪曲師として活動。2006年12月、芸名を美穂子から奈々福に改め名披露目。様々な浪曲イベントをプロデュースするほか、自作の新作浪曲や長編浪曲を手がける。第11回伊丹十三賞受賞。今年6月、刀剣歌謡浪曲「舞いよ舞え」、歌謡曲「恋々芝居」で歌手デビュー。

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豪華執筆陣による小説、詩、エッセイなどの読み物連載に加え、読書案内、小学館の新刊情報も満載。小さな雑誌で驚くほど充実した内容。あなたの好奇心を存分に刺激すること間違いなし。

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