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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第四回 「暴動の街」と呼ばれて

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
昭和35年に発生した第一次騒動をきっかけに「暴動の街」と化してしまった山谷。当時マンモス交番に勤めていた警部補による日常生活の記録は、住民側とは異なる肯定的なものだった。

 

往時の爪跡

 

 ガラス窓と木製の面格子の隙間に、幅1メートルほどのベニヤ板が挟まったままになっている。板は当時から随分と収縮してしまったようで、表面の一部ははがれてぼろぼろだ。
 簡易宿所「登喜和」の経営者、菊地博子さん(78)は、ベニヤ板のほうを指さして説明してくれた。

「石を投げられたりでガラス戸はめちゃくちゃにされましたから、ベニヤで守っているんです。取り外すのがめんどくさいからそのままにしてあります。もうかれこれ50年ぐらい? ここまで暴動が迫ってきましたからね。都電通りだけじゃなかったんですよ」

 

写真②「登喜和」の経営者、菊地博子さんは、痕跡を示すベニヤ板の前で暴動当時の様子を語った
(撮影:水谷竹秀)

 

 都電通りとは、現在の山谷を南北に走る吉野通りのことで、登喜和は通りから数十メートル入った一角に建つ。2階にあるコンクリート製のバルコニーは、「トキワ」の文字がくり抜かれ、往時を(しの)ばせるようで微笑ましい光景だ。
 そこから目と鼻の先にある帰山哲男さんの実家の門は、鉄製である。それも暴動の影響だったと、哲男さんが振り返る。

「従兄から聞いた話では、暴動発生時に投石に遭い、壊されたから木製から鉄の門に変えたと。『帰山はけしからん!』と、扇動された労働者たちに事務所の窓ガラスを割られたこともありました。暴動は夏の夜に起きることが多かったですね」

 労働者からの標的にされていたのは、哲男さんの父親で、「ヤマ王」こと帰山(じん)()(すけ)である。暴動が激しかった昭和30年代、城北旅館組合の組合長として、新聞にコメントを出すなどして表舞台に立ってきた。
 哲男さんが続ける。

「父親は当時、ドヤ銭を上げて労働者から搾取した金で豪邸に住んでいたとして、目の敵にされていました。暴動が多発するずっと前から家は広かったし、祖父の代から結構な額の預金があったと聞きますから、『ドヤ銭による豪邸』という見方は正しくありません。『帰山は悪者だ』というストーリーが作り上げられ、間違った認識が広められたのです」

「ほていや」から徒歩数分、台東区清川にある宝珠(ほうじゅ)稲荷神社の玉垣には、寄進した氏子の名前が刻まれている。「帰山仁之助」もその中に含まれているのだが、その四角柱だけ、墨のような黒い横線で走り書きされた痕がある。

「うちの父親の柱だけ傷ついているんですよね。やはり当時、労働者の攻撃対象になっていたからかと。あくまで僕の推測ですけど」

 

写真③四角柱に残された走り書きのような痕。嫌がらせか、単なる偶然か
(撮影:水谷竹秀)

 

 確かに横線は見方によっては「傷」に見えなくもないが、別の四角柱にも同様の痕は見られるため、何かがこすれてできた偶然の可能性もある。これが嫌がらせの結果なのか否かはさておき、父親の悪評が出回っていたことに対し、哲男さんは未だにトラウマを抱えているのである。

 

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