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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第四回 「暴動の街」と呼ばれて

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
昭和35年に発生した第一次騒動をきっかけに「暴動の街」と化してしまった山谷。当時マンモス交番に勤めていた警部補による日常生活の記録は、住民側とは異なる肯定的なものだった。

 

「警察は労働者の敵」

 

 そもそも山谷という地が全国的にその名を馳せるようになったのは、暴動の影響によると言われている。帰山仁之助は、週刊誌のインタビューでその原因についてこう語っている。

「キッカケは大したことはないのですが、やはり安保や三池の事件で、警察は労働者の敵、それと法の軽視が単純に反映したと言えます。安保や三池の場合は目的がはっきりしていますが、山谷の場合は目的がないでしょう、舵を失った船みたいですよ。最初の三十分くらいは、少数の者がいやがらせをやってた程度ですよ。
夕方など、暑いので涼みに大通りに労働者が大勢出ているんです。この人たちが群集心理でワイワイ騒ぐので手のつけようもないわけです」(「週刊コウロン」1960年8月16日号)

 東京都労働局が公表した『山谷地区の労働事情』(1969年)の中に、「山谷事件記録」が収録されており、昭和35(1960)年元日に発生した暴動を「第一次騒動事件」と呼んでいる。ちょうど、仁之助が言及した安保闘争(昭和35年)や、日本三大労働争議の1つと言われる三井三池争議(昭和34~35年)と時期が重なっている。
 記録には「主たる騒動」として、第一次騒動から昭和43(1968)年11月までの8年間に、暴動が計14回発生したと記されている。特に第一次から昭和42(1967)年8月までの9回は、「傷害事件の取扱いを巡っての警察官に対する不満又は、飲食店店員の客扱を不満とする等、自然発生的な要素による騒動発生であった」とされ、第十一次騒動以降は「思想的団体のデモ行進、または扇動を原因として誘発されていることが特徴とされる」と説明している。
 これまでに発行された山谷暴動に関する文献のほとんどは、この事件記録を基に「第●次騒動は……」という表記で統一されている。私が取材した警視庁浅草署によると、暴動は昭和35年1月から平成2(1990)年ごろまで断続的に約110回発生し、集まった群衆の数は最も多かった時で約3千人。日雇い労働者や暴力団関係者などの検挙人数は総計約400人に上った。朝日新聞では、昭和34(1959)年11月にパトカーが酔っぱらった住民に襲撃され、窓ガラスが粉々にされる事件が報道されている。だから正確な暴動の回数は都労働局の「14回」を遥かに超えるが、分かりやすくするためにこの連載でも同局にならって話を進めたい。
 第一次騒動が発生したのは、昭和35年元日の午後から夜にかけてだった。きっかけは、パチンコ店で起きた客同士の(けん)()で、これに山谷派出所の対応が悪いと労働者が暴れ出し、騒ぎが大きくなった。膨れ上がった群集約千人は、派出所を取り囲んで投石などを行った。交番のガラス戸十数枚が壊され、巡査1人が軽傷を負ったという。
 そしてこの第一次騒動を契機として、山谷は本格的な「暴動の街」と化すことになる。

 

1960年 交番に放火・投石する群集 東…1960年、日雇い労働者の群れが山谷のマンモス交番を取り囲み、投石などで暴徒化した。
(写真提供:朝日新聞社)

 

山谷マンモス交番

 

 その標的にされたのが派出所だ。山谷の派出所は、昭和34年に発足した。愚連隊や売春婦、ヒロポン(覚せい剤の1つである塩酸メタンフェタミンの商品名)患者の増加による治安悪化から、街を守るために行われた浄化作戦の一環だった。第一次騒動から半年後の昭和35年7月1日には、俗に言う「マンモス交番」が開所された。交番の正式名称は「浅草警察署山谷警部補派出所」。全国でも初めてという鉄筋コンクリート3階建てで、敷地面積は55.11平方メートル。定員は約60人で、当時の日本では最大規模と言われていた。
「マンモス交番」と呼ばれる大型の交番は前年末にすでに、新宿歌舞伎町と池袋の2カ所に設立されていたため、山谷のマンモス交番は都内では3番目だった。
 山谷マンモス交番の各階の間取りは以下の通り。

 1階 事務室、取調室、湯沸かし室、便所、待機室
 2階 休憩室、取調室、洗面所、バルコニー
 3階 待機室、取調室

 特徴的なのは、各階に取調室が設置されていることだ。ここは派出所員による被疑者や不審者の取り調べ、酔っ払いの一時保護目的で使用されるほか、他府県警から出張して捜査に当たる捜査員も利用できるようになっている。
 派出所の前面にあるガラス戸は、群衆による投石に備え、網入り特殊ガラスが使用されていた。3階には投光器2基が取り付けられ、派出所の前を集中的に照らすことができる。山谷マンモス交番とはまさしく、この地の実情を考慮して設計されたのである。
 浅草警察署の警ら課長は、警察機関雑誌「自警」(1960年10月号)の中で、当時の簡易宿所で生活している1万人超の属性について、このように説明している。

<主たる生活態様は日雇人夫、露店商、獅子舞、ポン引、街娼、無職者等種々雑多な下層階級であって大半は前科者であるといわれ、(中略)、夜間ともなればこれらが遊歩散策し時として夜明けに至るまで輻輳(ふくそう)し暴力事犯はもとより、当り屋、けんか、売春等各種の警察事象が頻発していることが多くこれが為一般住民に甚だしく不安感を与えている>

「当り屋」とは、故意に自動車やバイクに接触し、事故を装って賠償金を請求する者の俗称だ。
 同課長によると、マンモス交番が開所された初日は特に妨害もなく、不穏な事態は発生しなかった。ところが夕方になると、日雇い労働者や愚連隊、売春婦が立ち止まり、関心を示して何事かをささやき合っていた。やがて群衆は100人以上に膨れ上がり、一部の酔っ払いが派出所員に対して罵声を浴びせた。

「税金泥棒がでっかいの作ったな!」

 だが労働者の中には、植木鉢を持って開所を祝い、あるいは激励の言葉を贈っていた者もいたという。

 

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