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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第六回 「越年越冬闘争」の現場から

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
労働者の側にも立ってみなければ山谷を包括的に描くことはできないと考えた著者は、多面的に取材を行うことにした。そこで年末年始の恒例行事だという「越年越冬闘争」の代表者に取材することになったが......。

ヤマ王とドヤ王メイン画像

 

大晦日の共同炊事

 
 西の空が茜色に染まっていた。
 腰の高さほどに組まれたベニヤ板の台に、包丁の刃が当たる「ドン!ドン!」という鈍い連続音が、冷たい空気を切り裂いて鳴り響く。目の前に並ぶ野菜は、白菜やじゃがいも、にんじん、大根など。少し離れた別のベニヤ板の台では、解凍したばかりのもつから、白い湯気がもわもわと立ち上がっていた。調理作業をしている男女はざっと70人ほど。私もその一団に交じって、一緒に手を動かしていた。
 
ヤマ王とドヤ王第6回1大根を一口サイズに切る参加者たち。顔が写っていない理由については後述
(写真提供:山谷越年越冬闘争実行委員会)

 
 路上には、さび付いて赤茶けたドラム缶のかまどが並び、その中で真っ赤な火が燃えさかっている。野菜が切りそろうと、釜の中に入れ、かまどにかけて煮込む。間もなく夕食の準備が整った。メニューはクリームシチューだ。
「ご飯の量は半分、クリームシチューはたっぷりかけてください!」
 スピーカーから男性の声が響き渡る。
「俺たちはみんな共同でやっているので、共同炊事なんです。クリームシチューは味見しましたけど、非常に美味しいです!」
 ごはんとシチューが盛られたプラスチックのどんぶりが、ベニヤ板の上に並べられた。
「さあ、みんな食べるぞ!」
 人集りはいつの間にか200人ほどに増え、割り箸を手に、熱々のシチューを頬張った。足のつま先まで冷え切った体を温めてくれる、優しい味がした。
 ここは東京山谷にある城北労働・福祉センター(以下「センター」)前の路上で、50メートルほどの区間が一時的に通行止めの状態になっている。周囲には簡易宿泊所もひしめく。センター前には単管パイプで小屋が組まれ、ブルーシートで屋根がこしらえてある。そこは調理器具や調味料、野菜などが整頓された場所と、路上生活者たちの寝床に分かれている。
 
ヤマ王とドヤ王第6回2大晦日の夕食はクリームシチューだったが、この後には年越し蕎麦も提供された
(写真提供:山谷越年越冬闘争実行委員会)

 
 あと数時間で2018年が終わる。いつもの大晦日なら、暖かい部屋で日本酒を飲みながら、紅白歌合戦でも観ていたはずの私が、今年に限っては、共同炊事の作業に勤しんでいた。参加しているのは「越年越冬闘争」と呼ばれる年末年始の恒例行事。主催は「山谷越年越冬闘争実行委員会」で、この委員会の母体は「山谷争議団」という新左翼系の組織である。ライターの私がなぜ、この活動に参加することになったのか。経緯を説明したい。 
 私はこれまで、「ヤマ王」こと()(やま)(じん)()(すけ)の軌跡をたどる取材を続けてきた。その中で、東京オリンピックが開催された昭和39年前後に頻発した暴動で、ドヤ主(簡易宿泊所の経営者)と日雇い労働者たちとの対立の構図が鮮明になっていたことが分かった。労働者といっても、山谷を拠点にする活動家たちの影響を少なからず受けている。彼らの中には「ドヤ主はドヤ銭を引き上げて日雇い労働者から搾取し、豪邸に住んでいる」と主張する者もいるが、仁之助の息子、哲男さん(68)は、「暴動が多発するずっと前から家は広かったし、祖父の代から結構な額の預金があったと聞きますから、『ドヤ銭による豪邸』という見方は正しくありません。『帰山は悪者』というストーリーが作られ、間違った認識が広められたのです」と否定し、両者は平行線を辿っている。
 私は、哲男さんとその交友関係を中心に、ドヤ主の視点から取材を進めてきた。だが、戦後の歴史を振り返ってみると、山谷はやはり、日雇い労働者の街である。近年は外国人観光客や若い日本人女性たちの宿泊する姿が散見され、かつての日雇い労働者たちも高齢化し、生活保護受給者となって「福祉の街」へと変貌を遂げつつある。とはいえ労働者の側に立って取材をしなければ、山谷を包括的に描いたことにはならないのではないか。ひいてはドヤ主たちと対峙してきた組織も含め、多面的に取材をすることで、ドヤ主たちの実像が浮かび上がってくるのではないか。そんな思いで、私は山谷争議団の門を叩いたのだった。
 それは越年越冬闘争の約2カ月前のこと。私は路上でとある男性と向かい合っていた。
「作業しながらでもよければお話に応じますよ」と言われ、その場で立ち話になった。
 目の前に建つ、山谷労働者福祉会館(以下「会館」)は、山谷越年越冬闘争実行委員会の拠点だ。私が常宿にしている「エコノミーホテルほていや」から徒歩数分、センターからも同じぐらいの距離にある。会館は鉄筋コンクリート3階建てで、1階部分が青いタイルで覆われ、2階以上はスカイブルーを基調にした外観である。入口の黒い鉄の扉には、共同炊事などのイベント予定を知らせるビラが貼られている。その側の路上ではちょうど、共同炊事の準備が行われ、20人ほどが包丁を手に、野菜や肉を一口サイズに切っていた。
 男性は、その中にまぎれて作業をしていた向井宏一郎さん。越年越冬闘争実行委員会の実質的な代表者である。しばらく立ち話をした後、向井さんからこう告げられた。
「僕たちの話が出たら今後、山谷での取材がやりにくくなるかもしれない。そういう覚悟があるなら、取材に応じますよ」
 こうして最初に入った取材の現場が、越年越冬闘争だった。
  

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