本との偶然の出会いをWEB上でも

ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第六回 「越年越冬闘争」の現場から

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
労働者の側にも立ってみなければ山谷を包括的に描くことはできないと考えた著者は、多面的に取材を行うことにした。そこで年末年始の恒例行事だという「越年越冬闘争」の代表者に取材することになったが......。

ヤマ王とドヤ王メイン画像

 

撮影禁止区域

 
 「よいしょ!よいしょ!……」という掛け声に合わせ、杵が振り下ろされる。
 「おお、いいね!さあラスト5、4、3……。ご苦労様です!」
 周囲を取り囲む参加者たちは皆、笑顔だ。元日と2日は、隅田川沿いの山谷堀広場と上野公園でそれぞれ、毎年恒例の餅つきが開かれた。抜けるような青空が広がり、和やかな雰囲気に包まれた正月の風物詩。ついつい写真に収めたくなるものだが、カメラを向けるとどこからともなく声が飛んできそうだ。
 
ヤマ王とドヤ王第6回5スカイツリーをバックにした元日の餅つきは、抜けるような青空の下で行われた
(写真提供:山谷越年越冬闘争実行委員会)

 
 周囲の木々には、こんな注意書きの札が何枚も貼られている。
「撮影はお断りしています。ご協力お願いします」
 札の中央には、カメラに×印の絵が描かれている。
 この札はセンター前の現場から持ち込んだもので、越年越冬闘争期間中はセンター周辺の電柱など複数カ所に貼られている。たまに通りがかりの人がスマホ片手に撮影しようものなら、すぐさま制せられる。撮影の行為が確認された場合は、データ削除を呼び掛けるほどの徹底ぶりだ。この理由について、古くから越年越冬闘争に参加している男性はこんな説明をしてくれた。
「ネトウヨに以前、勝手に撮影されたことがありました。そういう連中が面白半分でアップするケースが増えてきたのです。あとは色々な事情で世間に自分のことをさらされたくない人もいるので」
 参加者の中には、路上生活者や生活保護受給者たちも含まれているので、自身の姿を公にされたくない人もいるだろう。
 そもそも、委員会のメンバー自体も公表されていない。大晦日には参議院議員の山本太郎氏らが応援に駆け付けたが、一緒に写った代表者の向井さんとの写真がネットにアップされると、向井さんの顔だけモザイクがかけられていた。委員会の中心メンバーは数人程度とみられるが、向井さんは「50人ぐらいですかね」と冗談交じりに答えた。
 向井さんも自身の素性については多くを語らない。共同炊事などの活動にはいつも、黒いニット帽をかぶり、薄汚れた作業着姿で現れる。普段は穏和でゆったりとした話し方をするが、ここぞという時には主張する。私に明かしたのは「40代半ば」という年齢、「大卒」という学歴、そして日雇い労働者として生計を立てていることぐらいだ。それ以外、現段階で私は、向井さんの詳しい経歴や活動に傾倒する経緯などついてはよく知らない。
 このように、委員会メンバーの素顔がよく見えないため、山谷地域の住民たちにとっても、彼らが謎のベールに包まれている可能性はあるだろう。
 山谷における活動家の系譜を辿ると、昭和39(1964)年ごろに結成された「さんや同人」と「山谷労働者協力会(山労協)」が最初と言われる。山谷で最も暴動が激しかった時代だ。前者は梶大介という活動家兼作家が中心人物で、山谷ではその名は広く知られており、著作も多い。
 この2つの組織の後、様々な活動家や団体が現れては消え、あるいは分裂といった離合集散を繰り返してきた。このため、山谷における運動体は非常に多岐にわたり、複雑化している。現在、山谷で活動している新左翼系組織は2つ。山谷争議団以外には、「山谷日雇労働組合(山日労)」と呼ばれる組織が現存しているが、両者は元々、1つの組織だった。それがいつの間にか分裂し、軋轢を生んでいる。
 山谷争議団は、昭和56(1981)年10月に創設された。初期の実質的なリーダーは山岡強一という活動家である。山谷を縄張りにする暴力団、金町一家の構成員に昭和59(1984)年12月に刺殺された映画監督、佐藤満夫(享年37歳)の遺志を継ぎ、山谷の日雇い労働者と向き合ったドキュメンタリー映画「山谷(やま)−−−やられたらやりかえせ」を制作。完成後の昭和61(1986)年1月、今度は山岡強一(享年45歳)が銃弾に倒れて死亡した。犯人は同じく金町一家の構成員だった。
 その当時すでに、日雇い労働者からピンハネする手配師の裏にいた金町一家と、労働者支配に反対する山谷争議団との衝突は頻発していた。ところがこの監督2人の殺害事件を受けてさらに激化。双方には逮捕者や負傷者が相次いだ。当時を知る関係者の1人は言う。
「渦中にいた争議団のメンバーたちは、金町一家に実名を知られないように、仮名で呼び合っていました。越年越冬闘争の現場に、迷彩服を着た右翼の集団が鉄パイプで襲撃にきましたから、さすがに恐かったです。当時は金町一家の事務所が近くにありましたから、深夜も交代で外を見張っていました。情報宣伝などの行動に際しても、攻撃された時の防衛のために、竹竿やオロナミンCなどの瓶を携帯することもあり、凶器準備集合の容疑で何十人もが逮捕されるという弾圧もしばしばありました」
 度重なる衝突は数年間に及び、沈静化はしたものの、現在も緊張状態が完全に解消されたわけではないという。委員会のメンバーたちが公にされるのを避ける背景には、こうした抗争史が少なからず関係しているとみられ、彼らの多くは現在も「活動家名」を名乗っている。
 越年越冬闘争に参加する前、向井さんはこんな話をしてくれた。
「私たちの組織は過去に暴力団と激しい軋轢を持っていました。その渦中で仲間2人が殺害された重みは消えておらず、彼らの影響はこの界隈で今も残っています」
 

記事一覧
△ ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第六回 「越年越冬闘争」の現場から | P+D MAGAZINE TOPへ