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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第九回 山谷と吉原

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
昭和30年代、ヤマ王ら地元有力者たちは、山谷に出没する売春婦を追い出すため、浄化作戦を展開した。同時期には売春防止法が施行され、山谷と隣り合う吉原遊郭は廃業に追い込まれ、街から灯が消えた。

 

火災に伴う「仮宅営業」

 山谷を舞台にした取材を重ねていると、よくこんな質問をされる。
「山谷と吉原は関係がありますか?」
 吉原は、江戸幕府公認の「吉原遊郭」に始まる色街で、現在の東京都台東区千束4丁目界隈にあった。昭和33(1958)年4月に全面的に施行された売春防止法によって、赤線地帯として女性を置いていた店は軒並み廃業に追い込まれた。当時の面影はほとんど残っていないが、今では日本最大のソープランド街として知られる。山谷地域とは地理的に地続きになっており、徒歩圏内なので距離は確かに近い。だから「山谷に売春婦」という話を耳にすると、吉原の遊女たちの存在が脳裏をかすめるが、ここで少し山谷と吉原の関係性について説明したい。
 私が常宿にしている簡易宿泊施設「エコノミーホテルほていや」からものの5分も歩けば、吉原大門跡に辿りつく。交差点のガソリンスタンド前には、1本の柳が立ち、しだれた深緑の葉が、優しい風にそよいでいる。
<見返り柳>
 そう刻まれた石碑が、柳の根元に鎮座する。
 
ヤマ王とドヤ王 第9回 写真2吉原大門交差点に立つ「見返り柳」。奥に伸びている道路は「五十間道(ごじゅっけんみち)」と呼ばれ、ソープランド街へ通じている(撮影:水谷竹秀)
 
 遊郭で遊んだ客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったことから、そう呼ばれている。かつては少し離れた土手に立っていたが、道路や区画の整理に伴って現在地に移された。また、震災や戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられ、現在で6代目という。 
 この交差点から「く」の字に曲がった五十間道(ごじゅっけんみち)を進むと、吉原のソープランド街が現れる。メインストリートの仲之町通りには中層ビルがひしめき合い、屋号が連なって見える。平日の昼間だからか、人通りはほとんどないが、それでもタクシーや専用車が店の前に横付けされ、店員に案内されて入って行く中年男性をちらほら見掛けた。
「写真だけでもどうですか?」
 周囲を徘徊していると、呼び込みから声が掛かった。黒いベストに黒いネクタイをした男性店員に言われるまま、私は店の中へ入った。カウンターに並ぶ女性3人の写真。現在出勤中で、対応可能だという。真ん中の女性は赤いレースの衣裳を身に着け、妖艶な笑みを浮かべている。男性店員はその女性を指さしながら、しきりに勧めてきた。
「この子はうちでナンバーワンです! 本当にモデルさんみたいなんです! 3万ぐらいのお店ではなかなかこんな子いないです! 高級店でも全然通用するタイプです!」
 料金を見ると、90分で3万円、120分で3万6千円と表示されている。「22歳」という年齢が気になったので、聞いてみた。
「実年齢は30ちょいです。まあ吉原年齢ですよ。でも本当に美人な感じの子です。エステですごい手入れもしていて、きれいな体のラインで、肌の張りもむちゃくちゃいい。サービスも大丈夫です!」
 他の店も覗いてみたが、料金相場は2万〜6万5千円といったところだ。店舗数は約130店。近頃は外国人も出入りしているようで、スマホを片手に「ここですか?」とたどたどしい日本語で呼び込みの店員に話し掛け、店に入って行く東洋人の姿も目にした。外国人の場合は、通常料金に5千〜1万円がプラスされるという。
 
ヤマ王とドヤ王 第9回 写真3夕暮れ時になると屋号に明かりが灯る吉原のソープランド街(撮影:水谷竹秀)
 
 先にも触れたが、ここ吉原の歴史は、江戸時代までさかのぼる。元和3(1617)年、徳川幕府の許可を得た庄司甚右衛門が、江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋(ふき)()(ちょう)の東隣、現在の人形町周辺に集めたことに始まる。この地には(よし)が生い茂っており、そこから「葭原」、転じて「吉原」と命名された。ところが、遊郭が江戸の中心部に当たる事情に鑑み、さらに明暦3(1657)年に「明暦の大火」で焼失したため、現在のソープ街がある千束村に移転されることになった。以来、葺屋町周辺にあった頃の吉原は「元吉原」、移転後の吉原は「新吉原」と呼ばれた。地図で確認すると、新吉原は長方形で、長辺355メートル、短辺245メートル。縁起が悪いとされる北枕を避けるため、南北の軸が約45度傾いているのが特徴だ。
 この移転の前に短期間だけ、遊女屋の主人たちが幕府の指定で、今戸や山谷、新鳥越の百姓家や一般人の家を借り、遊郭復興まで暫定的に営業を行った。これが「仮宅営業」の始まりである。吉原の営業は郭内に限られていたが、火災で焼けてしまった際、遊郭が再建されるまでの間、吉原以外での営業が幕府に認められたのである。明暦の大火の時に行われたのがその始まりとされ、以来、幕末までに約20回続いた。この仮宅営業のおかげで、経営難の遊女屋が持ち直すほどに賑わったといわれる。それどころか、主人たちは仮宅営業を望むあまり、ぼやで済むような火事でも消火活動を意図的に怠ったため、大火になったそうだ。 
 当時は仮宅へ遊びに行くことを「山谷通い」と呼び、やがて新吉原へ通うことを指すようになった。新吉原へ通う客を乗せ、隅田川から山谷へ至る掘割を行き来する(ちょ)()(ぶね)は「さんやぶね」と言われていた。いずれも山谷で仮宅営業が行われていたのにちなんでつけられた呼称である。
 

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