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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第九回 山谷と吉原

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、東京三大ドヤ街と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた労働者たちが住み着いていたかつての山谷には、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。
昭和30年代、ヤマ王ら地元有力者たちは、山谷に出没する売春婦を追い出すため、浄化作戦を展開した。同時期には売春防止法が施行され、山谷と隣り合う吉原遊郭は廃業に追い込まれ、街から灯が消えた。

 

街から灯が消えて

 歴史を紐解いてみると、この仮宅営業は山谷と吉原の関係性を示しているが、それ以降、特に昭和に入ってから山谷に出没した街娼と吉原には、つながりがあったのだろうか。
 吉原大門交差点から目と鼻の先にある「満す美寿司」はかつて、カフェスタイルの貸座敷「マスミ」を経営していた。モルタル造りのその建物は、店から徒歩5分ぐらいのソープランド街の外れに現存しており、2階の外壁に浮き出た「マスミ」というカタカナの屋号が往時を偲ばせる。
 
ヤマ王とドヤ王 第9回 写真4「マスミ」という屋号が外壁に浮き出たこの建物は、色は塗り替えたものの、外観は当時のままという(撮影:水谷竹秀)
 
寿司店二代目店主の弟、増田茂さん(65)が語ってくれた。
「父親がやっていた貸座敷では、こまどり姉妹を3曲100円で歌わせ、女給が客の横に座ってビールを注いだりしていました。でも売春防止法の影響で店をたたみ、近くにあった倉庫を改築して寿司屋を始めたんです」
 双子の歌手こまどり姉妹はその昔、山谷の木賃宿に住み、浅草の飲食街で流しをやっていたが、10代後半の頃には吉原で歌っていたというのだ。ところが売春防止法が施行され、昭和33年春を最後に赤線の灯が消えた。約300軒あった店は廃業に追い込まれ、一部は旅館業や飲食店に転業した。職を失った女性たちの中には、結婚した者や、帰郷した者、キャバレーや飲食店に転職した者もいたが、路頭に迷う者も現れた。読売新聞の記者が、当時の街の様子をルポルタージュしているが、取材に応じた女性は「わたしたちはいざとなれば行くところはどこにでもある。山谷あたりが繁盛するようになるでしょう」と答えているから、廃業によって山谷に流れた女性はいたのかもしれない。増田さんが続ける。
「女の子たちにとって廃業は一大事。大変だったんだよね。うちは父親が、障子を作る職人や畳職人たちと結婚させたんですよ。別の遊郭の女性たちは、熱海の温泉街に移ったという話も聞きます。でも、山谷には流れていないと思うなあ。だって遊郭の中で暮らし、着物を着ていたような女性が、山谷で『立ちん坊』はやらないよ。山谷に流れたという話は想像でしかないと思う」
 売春防止法が成立して以降、施行までの間に寿司店の開業準備をしていたというこの店には後に、映画『男はつらいよ』の主人公「寅さん」を演じる渥美清が下積み時代から立ち寄っていた。増田茂さんの兄で二代目店主の英夫さん(68)は、渥美清の結婚式に呼ばれるほどの仲で、店内にはその当時のモノクロ写真が飾られている。
 吉原で有名な「(かど)海老(えび)」などと並んで大型店といわれた「(たい)()」から鳶工事を請け負っていた、一般社団法人、江戸消防記念会第五区四番組の組頭、中野克己さん(88)は、こんなエピソードを語ってくれた。
「大華は秋田出身の女性ばかりがそろっていました。遊郭の旦那が秋田へ行くと、村長らが頭を下げて迎えてくれたそうです。口減らしとして娘が預けられるような時代でしたから」
 中野さんは今でも、売春防止法が施行された当時の様子を覚えている。
「私たち若者は皆、吉原がどうなったか見に行ったんですが、街の灯が本当に消えて真っ暗になりました。赤線地帯はなくなりましたが、『青線地帯』と呼ばれる周辺の飲み屋は営業を続けていたから、職を失った女の子たちはそこで働いていたかもしれないね」
 元吉原遊郭内にある遊郭専門の「カストリ出版」代表、渡辺豪さん(42)も、山谷の街娼と吉原で働く女性に直接的な関係はなかったと力説する。
「売春防止法の影響で、吉原で働いていた女性の一部が山谷に流れた可能性はあるかもしれませんが、基本的に吉原と山谷の街娼は関係ないと思われます。山谷の街娼は、吉原へ遊びに行くお金がない日雇い労働者たちを相手にしていましたから。そもそも山谷の簡易宿泊施設は『ドヤ』と呼ばれ、一般的には軽視されていたので、吉原の女性たちがそこで働くのはプライドを傷つけられたはず。だからもしそういう事実があったとしても、公に語られてこなかったのではないか」
 

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