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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十三回 「福祉宿」の女将が見た山谷

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、日本の「三大ドヤ街」と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた日雇い労働者たちが住み着いたかつての街は、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。山谷は生活保護受給者を対象としている宿泊所が全体の9割を占めており、取材に難色を示す宿主が多い。そんな中、快く取材に応じてくれたのは、簡易宿泊所「登喜和」を母の代から70年続ける女将。「福祉宿」とも呼ばれる簡易宿泊所の女将から見た、山谷の変化とは・・・・・・?

 

山谷を陰で支えた女将たち

 登喜和の朝は早い。
 午前5時40分。まだ薄暗い2階の廊下を、前掛け姿の菊地さんが黙々と箒で掃いていた。窓から見える城北労働・福祉センター周辺は、すでに路上生活者たち数人が徘徊していた。帳場の棚には、届いたばかりの朝刊が1部。静けさの中に、箒で掃く音だけがかすかに聞こえる。


 

 続いて菊地さんは階段をはたきで払い、洗面台の下にあるゴミ袋の空き缶を1つ1つ手でつぶす。ほとんどがビールの空き缶だ。トイレ掃除は、「もったいないから」とお風呂のお湯を使い、手ぬぐいをギュッと絞って床のタイルを丁寧に拭いていく。玄関、旅館の外回りも箒で掃き、最後は風呂掃除だ。トイレは和式だが、風呂はリフォームされているため、シャワーもついている。風呂場の床を石鹸とたわしでごしごしと磨く頃には、さすがに息が上がっていた。汚れを落とし、シャワーで洗い流したところで「一丁あがり!」と元気よく声を出し、1時間半にわたる朝の日課が終了する。80歳にしてはなかなかの重労働だ。菊地さんは体が慣れているのか、実にてきぱきと動いていた。


 

 5月下旬、私が登喜和に宿泊した時の朝の模様だ。山谷で取材を始めてしばらく経つが、福祉宿に泊まったのは初めてだった。実はこれがなかなか難しい。というのも福祉宿は基本、一見の観光客お断りだからだ。菊地さんも然りで、その理由はただ単に「めんどくさい」から。そもそも福祉宿の経営は、宿泊者が受け取っている生活保護費で十分成り立っているため、とりたてて一般の宿泊客を必要としていない。仮に泊めるとなれば慌てて部屋を掃除し、布団も用意しなければならない。だから気が進まず、空室があっても「満室」という札を玄関に掲げるのだ。これに対して、観光客を泊める「一般宿」は、客を呼び込む努力をしなければならない。たとえばそれはWi-Fi環境の整備であったり、ホテル予約サイトへの登録だったり、あるいは外国人観光客への多言語対応だったりと、時代のニーズに合った対応が求められる。


観光客を泊める「一般宿」の客室は禁煙だが、灰皿が堂々と用意されているのは「福祉宿」ならではだ
 

 登喜和で私が泊まった3畳一間の部屋には、14インチのテレビ、小さな折り畳みテーブルと灰皿があるだけで、壁にはカレンダーと時計、ハンガーが数本掛かっていた。冷蔵庫はない。冷暖房は廊下のみで、Wi-Fi環境も整っていない。襖のところには暖簾が掛かっているが、薄手のため、半開きにしている客室は中が透けて見える。トイレへ行く時などには、つい目に入ってしまうのだが、皆、布団の上に寝転がってテレビを見ているか、タバコを吸っているかで、たまに外に食事や酒の買い出しに行く。そんな生活スタイルだ。ところが菊地さんから見える景色は、少し違っていた。
「みんな見てますよ、エッチ系。だって廊下まで聞こえるんだもん。もうこの歳だから平気だけど。みんなDVD機器を持ってます。朝、掃除に行くじゃない? そうすっとああいう声が聞こえるんです。イヤホンつけてって言っても、つけないで見ている人もいますよ」
 先日、病気で体調を崩し、施設へ移送となった宿泊者の部屋を片付けている時に、アダルトDVDが多数出てきたことがあった。「このくらいまとまっていた」と親指と人差し指で枚数の多さを示す菊地さんが続けた。
「ええ!この人も見ているんだって驚いた。だって80歳の私と1つか2つしか違わないんだよ」
 界隈でアダルトDVDが調達できるのは朝市だ。玉姫公園の周りで朝5時ごろから始まる中古品販売市で、一部には盗品も含まれているとされ、別名「泥棒市」とも呼ばれる。衣類、作業工具、骨董品、古本、その他日用品が路上に並び、結構な人出だ。できたての温かいおにぎりやお新香を売っているおばちゃんもいて、仕事に行く前の腹ごしらえをそこで済ます人も多い。その中に、アダルトDVD(1枚数百円)や視聴機器も置いてあるのだ。
「施設に行った人の部屋にもDVD機器があったから、欲しいっていう他の宿泊客にあげました」
 山谷は日雇い労働者の街だったことから、一般的には男社会のイメージが強い。ところが簡易宿泊所をいくつかのぞいてみると、帳場で番をしている女性の姿を見掛けることが少なくなかった。日雇い労働者がまだ多かった昭和中期、元々は夫婦で経営していたが、夫は旅館組合の寄り合いやその他会合で外出が多く、宿泊所にいる労働者の世話や宿代の徴収などの実務面は、妻が担っていた。時を経て夫に先立たれ、現在も帳場に立っているのが菊地さんのような女性たちなのだ。そんな彼女たちは、日雇い労働者の街から福祉の街になるまで、山谷を陰で支えてきた存在と言っても過言ではない。
 菊地さんが思い出しながら語る。
「あの宿は旦那が亡くなって今は妻が1人でやっています。それからあそこは、確か旦那と別れたんじゃなかったかな。あそこは母子で経営、それから……」
 次から次へと出てくる女将の名前──。
 彼女たちの年齢を考えると、山谷の変遷を見つめてきた女性たちの視点から、この街を切り取れるのは今が最後のチャンスかもしれない。そう思って私は、菊地さんの元へしばらく通うことにした。
 

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