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ヤマ王とドヤ王 東京山谷をつくった男たち 第十三回 「福祉宿」の女将が見た山谷

大阪のあいりん地区、横浜の寿町と並んで、日本の「三大ドヤ街」と呼ばれる東京・山谷。戦後日本の高度経済成長を支えた日雇い労働者たちが住み着いたかつての街は、「ヤマ王」と「ドヤ王」と呼ばれた伝説の男たちがいた。山谷は生活保護受給者を対象としている宿泊所が全体の9割を占めており、取材に難色を示す宿主が多い。そんな中、快く取材に応じてくれたのは、簡易宿泊所「登喜和」を母の代から70年続ける女将。「福祉宿」とも呼ばれる簡易宿泊所の女将から見た、山谷の変化とは・・・・・・?

 

腹に現金を巻いて山谷通い

 折り目がついてしわしわになった和紙の文書には、達筆なペン字が縦書きで綴られている。表紙には、聖徳太子が描かれた百円の収入印紙2枚が貼られ、文書の隅は、白い紐で閉じてある。登喜和の工事請負契約書だ。菊地さんに押し入れから引っ張り出してきてもらった。
 発注者には菊地さんの母の名前が記され、工期は昭和26年10月中旬から12月中旬までの2カ月に及んだ。
「私はこういう昔のを取っておくんだよ」
 そう語る菊地さんは昭和15年9月、神田で生まれた。3人姉妹の次女。父方の祖母が神田で看護婦会という、看護師を斡旋する業者だったためだ。間もなく太平洋戦争が始まり、一家は母の故郷、群馬県新治にいはる村(現・みなかみ町)の温泉宿へ疎開した。その頃の思い出として、彼女が覚えているのはおっちょこちょいな自分の姿だった。
「群馬でズボンの前後ろを反対にはき、ポケットがないないって騒いでたらしいんです。柿の皮を干して、おやつ代わりに食べた記憶もあります」
 終戦を迎えた頃には、父の故郷、千葉県東部のそうひかりまち(現・さん郡横芝光町)へ一家で身を寄せ、そこで小学校に入学。5年生の2学期が終了したクリスマスイブに山谷へやって来た。父が結核にかかってしまい、母が叔母から「女性もできるから旅館をやってみなよ」と声を掛けられたのがきっかけだった。叔母は当時、山谷のやり手「三婆」のうちの1人と言われ、すでに複数の旅館を所有していた。
 戦争で焼け野原となった山谷の街には、昭和25年頃から次々に簡易宿泊所が建ち始めた。菊地さんの母は、浅草の老舗日本人形屋が山谷に所有していた土地を使用し、その近くに事務所を構えていた建設会社に建ててもらった。そうして昭和26年12月半ば、旅館「登喜和」が完成した。屋号は、神田の看護婦会から取ったという。菊地さんは中学生になると再び、祖母がいる神田の看護婦会へ預けられる。祖母が1人で暮らし、面倒をみて欲しいと家族から言われたためだ。週末はそこから都電に乗り、神田と山谷を往復する日々が始まった。菊地さんが回想する。
「祖母は金貸しもしていたからね。私は取り立てに行った覚えがあるんだよ。だから祖母は当時、お金を持ってたみたいだね。私が山谷に来る時は、腹に現金を巻いて母に渡しに来たんだよ」

 菊地さんは千代田区の一橋中学を卒業し、九段下の和洋九段女子高校へ進んだ。その当時の女性にしては珍しく、短大にも進学。千葉県市川市にある和洋女子大学短期大学部(2006年廃止)で、神田から電車で通いながら被服の勉強をした。
 卒業後間もなく、親戚の仲立ちで、静岡県熱川にある老舗旅館の御曹子に嫁ぐ。22歳だった。そこで4年間、女中として働き続け、子供2人を産んだ。ところが夫の妹と関係がうまくいかなくなって一家全員が追い出された。時期を同じくして、登喜和に住んでいた姉夫婦が四国へ転勤となったため、入れ替わりで山谷へ戻った。夫は知人の紹介で自動車会社に就職し、菊地さんは女中として子育てをしながら、女将の母親を支えることになった。

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