本との偶然の出会いをWEB上でも

【レーモン・クノーほか】“文体”の奥深さを味わえる「文体本」3選

レーモン・クノーによる『文体練習』など、小説や批評の“文体”に焦点をあてた本には多くの名著があります。今回はそんな“文体”の奥深さを知ることのできる本を、3冊ご紹介します。

読書家の方のなかには、小説のモチーフやストーリー展開といった“内容”そのものでなく、それがどのような形で書かれているかという“文体”にこそ関心がある──という人も少なくないのではないでしょうか。

作家の“文体”は古くから作家論や言語論の中心となってきましたが、“文体”は本来、小説家や文筆家だけの持ち物ではありません。法律の条文、辞書、関西弁の台詞、戯曲、ケータイ小説の文体がすべてバラバラであるように、“文体”はその言葉を規定する環境と媒体によって変化する、実に奥深く味わい深いものなのです。

今回は、そんな“文体”の面白さや幅広さを実感することのできる名著を3冊ご紹介します。

『文体練習』(レーモン・クノー)


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4255960291/

『文体練習』は、『地下鉄のザジ』などの代表作を持つフランスの作家、レーモン・クノーによる1冊です。本作は、バスのなかで見かけたある男に関する何気ない記述を、「メモ」と題されたごく単純な手記を起点として、99種類もの文体で書き分けていくという実験的な作品です。

S系統のバスのなか、混雑する時間。ソフト帽をかぶった二十六歳くらいの男、帽子にはリボンの代わりに編んだ紐を巻いている。首は引き伸ばされたようにひょろ長い。客が乗り降りする。その男は隣に立っている乗客に腹を立てる。誰かが横を通るたびに乱暴に押してくる、と言って咎める。辛辣な声を出そうとしているが、めそめそした口調。席があいたのを見て、あわてて座りに行く。
二時間後、サン=ラザール駅前のローマ広場で、その男をまた見かける。連れの男が彼に、「きみのコートには、もうひとつボタンを付けたほうがいいな」と言っている。ボタンを付けるべき場所(襟のあいた部分)を教え、その理由を説明する。

はじめに書かれている「メモ」は、このような内容です。続く「複式記述」、「主観的な立場から」の章では、同じ内容がまったく違った文体を用いて描写されます。

昼の十二時の正午頃、わたしはコントレスカルプとシャンペレとを結んでつなぐS系統路線の公共乗合自動車バスに乗り込んで乗車した。ほぼだいたい満員でいっぱいなので、うしろの後部についている外に開かれた開放デッキに立つと、かなり相当おかしく変な、若い青年がいるのが見えて眼についた。首は細くて太くなく、かぶって乗っけた帽子のシャッポに、編んだ組み紐の細縄を、ぐるりと回して巻いている。……
(「複式記述」より)

今日の俺は、ちょいと洒落た恰好だったはずだよ。帽子だって新品で、なかなかいかす奴だったし、コートときたら何ともみばのいい代物だったんだからな。それなのにXの奴、サン=ラザールの駅前で会ったと思ったら、さんざっぱら文句をつけやがって、俺の気分を台無しにしちまいやがった。ま、さすがの奴も、俺の帽子にだけは、文句のつけようもなかったわけだけどな。……
(「主観的な立場から」より)

本作ではこのように、同一の内容を違った人物や違った視点、違った文章の技法を用いて徹底的にスケッチし続けるという、驚くべき趣向が凝らされているのです。99通りの文体の内訳は多種多様で、喜劇の台本のような形式で書かれる「コメディー」やa以外の母音を一切使わない(母音が「ア行」になる言葉のみで構成される)で書かれた「リポグラム」、一連のできごとの匂いにだけフォーカスして書かれた「嗅覚」など、文体というものの幅広さを鮮やかかつ直感的に理解できる内容となっています。

本書の翻訳者である朝比奈浩二は、この作品について、あとがきのなかで

クノーの試みは、(中略)われわれが日頃使っていることばがどれほど空虚なものであり得るかということを暴き出す試みでもある

と述べています。99の文体のなかにはフランス語圏特有の文化や歴史を知らずには楽しめないものもあり、朝比奈はそういった文体をいかに日本語圏の読者に向けてアレンジするかに苦心した、とも語っています。「短歌」や「いんちき関西弁」の章などはほとんど朝比奈によるオリジナルと言ってもよく、訳す際に意識した点を丁寧に解説しているあとがきもあわせて、ゆっくりと味わっていただきたい1冊。文体の奥深さに焦点をあてた、“文体本”の古典とも呼ぶべき名作です。

『街場の文体論』(内田樹)


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4903908364/

『街場の文体論』は、フランス文学者の内田たつるによる文体論をまとめた1冊です。本書は、2010年から2011年にかけて、内田が神戸女学院大学でおこなったクリエイティブ・ライティングの講義をもとに構成されています。

本書では古今東西の作家や作品の文章を引用しつつ、1か所に留まらない非常に自由な文章論・思想論が展開されますが、内田が一貫してテーマとしているのは、「人に届く文章とはどのようなものか」という問いです。

たとえば、エクリチュール(社会言語/集団的言語運用)という概念を軸にした第7講、第8講では、人がいかに社会的な言語に規定されている生き物かという話題から、言語の規定を強めている文化的格差にまで話が及びます。内田はロラン・バルトが注目したエクリチュールという概念を

エクリチュールは日本語という大きな枠の中に散在している局所的に形成された方言のようなものです。(中略)大阪の町のおばちゃんの話し方、「やんきい」中学生の話し方、ヤクザの話し方、地方議員の話し方、セールスマンの話し方……いろいろな種類があって、僕たちはそれらの社会言語のどれかを選択する自由がある。(中略)選択することはできるんです。選択はできるけども一回選んだら、その社会集団から離れるまでは変えられない。

と、わかりやすく噛み砕いた上で、発話者は特定の立場や役割に“ふさわしい”話し方や言葉遣いをほとんど強制されており、階層社会はその標準化圧力を強化してしまう──と述べています。そして、個人の言葉遣いを定めてしまうエクリチュールをひとつの“檻”と表現し、さまざまな文体のあり方を検討することで、この檻から自由になるという理想を実現しようとするのです。

内田は『異邦人』などに見られるカミュの文体やアンドレ・ブルトンによる「シュールレアリスム宣言」などを例に挙げながら、“檻”に囚われないまったく新しい語法かつ、リーダブル(読みやすい)である言葉とはどのようなものかを論じています。そして、続く講義で「誰に宛てて書くのか」を考え抜こうとします。

たぶん日本人だけだと思います、「むずかしすぎるよこれ」って文句を言うのは。これをほんとうに読まなければいけない読者にこれじゃ届かないじゃないか、って。いったい誰に宛てて書いているのか。これは非常に重要な問題だと思います。

文体論であると同時に優れた思想論・文化論でもある本書は、本質的な意味で「伝わる」「届く」言語の可能性をさまざまな角度から検討した奥深い1冊です。

『文体の科学』(山本貴光)


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B00WHVQNR4/

『文体の科学』は、文筆家・ゲーム作家の山本貴光による文体論です。本書がユニークなのは、多様な文体の違いを検討するという従来の文体論の役割に加え、

文の姿かたちについて考える際、意味内容以外の要素を無視してしまってよいだろうか。その文章がどんな物質にどんな状態で表されているかということは、読み手になにかしらの影響を与えないだろうか。例えば、同じ文章を、質感もまるで異なる紙の本と電子機器で読むのとでは、なにか違いがないだろうか。

という疑問を起点に、言葉が載せられる媒体や物理的な環境にも目を向けているところです。本書の冒頭では、夏目漱石による『吾輩は猫である』を例に挙げ、仮に『吾輩は猫である』に書かれた文字を最初から最後まで1列に並べたらどのくらいの長さになるか、という想像もつかないような問いを立てています。

『猫』は一ページ当たり、縦三九文字×一七行で組まれている。つまり、一ページには約六六三文字が含まれていることになる。いま話を簡単にするために本文だけで計算すれば、約五四〇ページあるから、全体では都合三五万八〇二〇文字。(中略)これを一列に並べると一一三万一三四三ミリメートルの線になる。つまり約一・一三一キロメートルである。私たちは『猫』を読み始めて読み終わるとき、物理的に言ってざっとこれだけの距離を「移動」したことになる。読書とは一種精神のうえで行う旅のようなものだが、実際物理的にもこれだけ移動しているのである。

そして、この“距離”をひとつの媒体にいかに畳み込むかこそが“文体”を作ると山本は言います。同時に、文体を規定する条件には“時空間”や“記憶”が大いに関わっており、映画の字幕では人間が1秒間に読み取れる文字数の限界を意識した文字組みがされていることなどを例に挙げながら、インターフェイスに応じた文体が生まれ、選択されてきた歴史が紐解かれていきます。

文字・語・文章の配置だけでなく、空間上の配置にまで目を向けた山本の文体論では、古代ギリシアの哲学対話から法律上の文言、小説技法、Twitter、ケータイ小説に至るまで、実にさまざまな“文体”が解読対象となります。従来の文体論に興味がある方だけでなく、デザインやレイアウト、ユーザーインターフェイスについて改めて考えてみたい方にもおすすめの1冊です。

おわりに

今回は、“文体”の多種多様さを直感的に味わう本からその歴史的・文化的背景を知れる本まで、さまざまな角度から“文体”を堪能することができる作品をご紹介しました。読書の際に文体を何よりも重視するという文体フェチの方はもちろん、これまであまり文体には目を向けてこなかったという読書家の方にも、今回ご紹介した3冊は楽しんで読んでいただけるはずです。「こんな書き方があるなんて!」という思いも寄らない驚きを、ぜひ味わってみてください。

記事一覧
△ 【レーモン・クノーほか】“文体”の奥深さを味わえる「文体本」3選 | P+D MAGAZINE TOPへ