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【映画『ドライブ・マイ・カー』原作ほか】村上春樹『女のいない男たち』の魅力に迫る

第74回カンヌ国際映画祭にて、日本映画としては初の脚本賞を受賞し、上映後にはスタンディングオベーションを浴びた映画『ドライブ・マイ・カー』が話題を集めています。そこで、今回は村上春樹の同名短編小説を含む短編小説集『女のいない男たち』の魅力をご紹介します。

日本のみならず海外からも高い関心を集めている2021年8月20日より公開の映画『ドライブ・マイ・カー』。メガホンを取った濱口竜介監督は、「原作が村上春樹だから、映画が注目されている」と、カンヌ公式上映後の囲み取材にて語っています。
妻を失った男の喪失と希望を描いた本作。人を愛する痛みや信じることの難しさ、人間の複雑な心情を繊細に感じる作品です。

映画には『ドライブ・マイ・カー』以外にも、同じ短編集『女のいない男たち』に収録されている『シェエラザード』や『木野』のエピソードも入っています。映画に投影された3作品を中心に、さまざまな事情で女性を失った男たちが描かれた作品をご紹介します。

妻の残した秘密、次第に浮かび上がる真実『ドライブ・マイ・カー』

『ドライブ・マイ・カー』の主人公は、美人女優の妻を亡くした個性派俳優の家福という50代の孤独な男性。家福は事故で緑内障になり、妻の想い出が宿った愛車、サーブを運転するドライバーを探していました。ある日、紹介された寡黙な20代の「みさき」を運転手として雇うことに。それ以来、10年ほど前に亡くなった妻のことを考えるようになった家福が、妻の残した秘密愛する人を失った男の葛藤をみさきに打ち明けていく物語です。

家福は妻を心から愛していて、周りからも仲の良い理想の夫婦と見られるほど良好な関係でした。しかし、妻には他に男がいることを知ります。妻が生きている間にそのことを問いただすことはなく、妻は病に倒れてしまいました。なぜ他の男と寝ていたのか? その答えを探す家福は、妻と関係のあった俳優の高槻と友達になります。高槻もまた、妻に心から惹かれていた様子が伺えました。ふたりは次第に仲良くなり、妻の想い出話をつまみに頻繁に飲みにいくようになります。

しかし、結局のところ、妻がなぜ高槻と寝たのか家福には理解できないままでした。そのことを黙って聞いていた運転手のみさきは、こう言います。

「そう言うのって、病のようなものなんです、家福さん。考えてどうなるものでもありません。私の父が私たちを捨てていったのも、母親が私をとことん痛めつけたのも、みんな病がやったことです。頭で考えても仕方ありません。こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」

家福は、妻が生きている間も死んでからも、他の男に抱かれている情景が行き場のない魂のようにずっとまとわりついて離れないことに、苦しんでいました。高槻に会っても、それが解消されることはありませんでした。しかし、みさきに言われた言葉に妙に納得した家福は、少し眠ることにします。

絶望や喪失という感情にどう向き合うか、大切な人を亡くしたり、信じていた人に裏切られた経験のある方なら、特に心に滲み入る作品です。

「失う」を意識して、感じる魅力『シェエラザード』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4167907089/

『シェエラザード』は、何らかの事情で地方小都市にある「ハウス」に送られた31歳のばら。その彼と彼の世話係を任された小学生2人の子どもを持つ35歳の主婦の代わり映えのないような関係から垣間見える不思議な魅力と、そこから生まれる心のざわつきが癖になる作品です。

羽原と4歳年上の彼女は、見えない海流に運ばれるようにして自然と男女の仲になります。しかし、そこには情熱的な思いは一切なく、与えられた課題を協力してこなすようにしてお互いを満たしていました。

羽原は彼女の名前を知りませんが、情事のあとに必ず惹きつけられるような話を聞かせてくれるので『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードの名前を密かにつけます。ある日、いつもの様に情事が終わると、シェエラザードは「前世はやつめうなぎだった」話をしてくれました。彼女がやってきた日は、日誌に「シェエラザード、やつめうなぎ、前世」などと話してくれた内容を簡単にメモしました。

そして、また明くる日、代わり映えなく、情事が終わりシェエラザードは話を始めました。

シェエラザードが10代のときに、好きだった男の子の家に空き巣に入り、使いかけの鉛筆を持ち帰る代わりに、自分の生理用品をこっそりと部屋に隠す事を「愛の盗賊」と呼んでいたこと。そして「愛の盗賊」がどれほど彼女を興奮させたかを話してくれました。さらに「愛の盗賊」がエスカレートしていく話をしていたシェエラザードは、話しているうちにカラダごと、熱くなってしまいます。そうして羽原とシェエラザードは、いつも1回しか行わない義務的な情事を、これまでになく情熱的に長い時間をかけてお互いを求めました。

満たされたこの夜に、羽原は「シェエラザードはもうこのまま姿を見せなくなるかもしれない」ということを考えて、心が乱れました。名前も知らない彼女とのかろうじてつながっている関係をこう思います。

「シェエラザードが去ってしまえば、語られるはずのいくつもの未知の不思議な物語は、語られないまま消えてしまう。女を失うというのは結局のところそういうことなのだ。現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間、それが女たちの提供してくれるものだった」

出会いもあれば、そこに別れも必然的についてくるというのが人生です。代わり映えのない日課、一見して「平凡な女性」と「静かに暮らす男性」というリアリティのある背景やキャラクター設定が、シェエラザードの魅力と「失う」という哀しい気持ちがじわじわと読む人の心に浸透していくような物語です。

怪しい気配の、正体とは?『木野』

妻に裏切られた39歳の木野きのは、仕事をやめて『木野』というBarをはじめます。順調に思えたBarでしたが、ある時を機に、怪しい気配が店を包んでいきます。喪失したことで「傷ついた心」をテーマに、登場する個性的なキャラクターや、次々と摩訶不思議な現象が巻き起こるストーリーは短編集の中で、最も村上春樹らしさが滲み出ていると言える作品です。

ある日、出張から1日早く家に戻った木野は衝撃を受けることになります。夫婦がいつも寝ているベッドのそこには妻と木野が会社でいちばん仲の良かった同僚が重なりあっていました。怒ることもなく木野はその場を後にし、二度とそこに戻ることはありませんでした。そして翌日、会社に退職届けを出します。

木野は、あの日見た衝撃に向き合うことなく、強い怒りや憎しみの感情をどこかにしまうようにして淡々と自分の分身のような小さなBarをひっそりと開店させました。自分の好きな音楽をかけ、お客を呼ぶことはなく、たまたま来て気に入ってくれたお客だけが、そのBarに集まります。いつも奥の席で分厚い本を読みながら静かに飲む「カミタ」という常連客も付き始めました。そのうちに灰色の野良猫も居座るようになり、Bar「木野」は小さい灯りをともし続けます。

しかし、そんなある日、木野は妙な女性客と一晩を共にしてしまいます。それを機に、野良猫は来なくなり、その代わりに何度も気味の悪い蛇を目にします。不穏な何かを感じ取った木野は、お店の所有者の叔母に、蛇のことについて尋ねましたが、叔母は見たことがないと言い、続けて蛇の持つ意味についてこう話しました。

「蛇というのはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもいちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別のところに隠しておくの。だからもしその蛇を殺そうと思ったら、留守のときに隠れ家に行って、脈打つ心臓を見つけ出し、それを二つに切り裂かなくちゃならないの」

その後、木野はカミタの助言により、店を閉めて旅にでます。その時に、カミタに言われた約束を破ってしまった木野。真夜中に、眠る木野を叩き起こすかのように、ドアのノックの音で目が覚めます。そして、木野はその不穏なノックにより、あの日に受けた強い衝撃について、気がつくのです。

「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった」

人というのは、「心の痛み」と向き合おうとせずに何かで誤魔化したり、逃げようとしてしまいます。しかし「心の痛み」という感覚は、向き合わない限り形を変えてそこに永遠にあるものです。その複雑な心理を巧妙に描き出した物語になっています。

おわりに

オバマ元米大統領のお気に入りの一冊としても挙げられたこの短編小説は、世界中で愛され続けています。村上春樹が得意とする「喪失感」は、今回も完璧に映し出されています。今回は、男たちがテーマではありましたが、「喪失感」というのは男女関係なく経験する感情です。

人を失うという辛い出来事は、誰にとっても高いハードルです。その厳しい困難をしっかりと乗り越えてこそ、人としても、人生としても前に進めるのかもしれません。映画『ドライブ・マイ・カー』をきっかけに村上春樹に興味を抱いた方や、村上春樹は知っているけど、この短編集はまだ読んでいないという方、ぜひ、手にとってその世界観を感じてみてください。

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