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色川武大、傑作『狂人日記』誕生秘話

“昭和最後の無頼派作家”と知られ、『狂人日記』を始めとする純文学作家「色川武大」と、『麻雀放浪記』等のエンターテインメント作家「阿佐田哲也」という多面な顔をもつ色川武大。2019年は彼の生誕90年、没後30年にあたり、その記念企画として「色川武大・阿佐田哲也電子全集」が、4月26日より配信開始されました。傑作の誕生秘話を、監修を務める大槻慎二氏が明かします。

「色川武大・阿佐田哲也電子全集」第1巻とは――

第1巻は、作家・色川武大の出世作『怪しい来客簿』(第5回泉鏡花文学賞受賞)と、晩年の傑作『狂人日記』(第40回読売文学賞受賞)の豪華2本立てです。雑誌「海燕」の編集担当者として、「狂人日記」を担当し、「色川武大・阿佐田哲也電子全集」の監修を務める大槻慎二氏が、ありし日の色川武大との思い出を熱く語ります。

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新宿コマ劇場前にて若き日の色川武大

「狂人日記」の日々と、永遠の別れ
大槻慎二

 色川武大、および氏が主として麻雀を題材にしたエンターテインメント作品を発表するときに用いたペンネーム「阿佐田哲也」の電子版全集をお届けする。
 色川氏が亡くなられたのが一九八九年の四月十日。すなわち平成元年であり、奇しくも三十年を数えた平成が幕を閉じる時に本全集が配信されることに、ある因縁を感じる。昭和四年生まれの色川氏が、ほぼ齢を重ねて生きてきた「昭和」という時代。その色川氏がまるまる不在だった「平成」という時代。
 ちょうど還暦を迎えた日(三月八日)のおよそひと月後に没したので、今年が生誕九十年にも当たる。再び全集が出るには実に区切りのいい年である。

     

 『狂人日記』は文芸雑誌「海燕」に一九八七(昭和六十二)年一月号から翌一九八八年六月号まで連載された。「海燕」の編集長、寺田博氏は河出書房新社の「文藝」で長年編集長を務め、作品社を起こして「作品」を、そして福武書店では「海燕」を創刊させた名うての文芸編集者である。そしてごく初期から色川さん(ここからは「さん」づけで記させていただく)を書き手として重く見ていて、「作品」「海燕」と自らが事を起こすときには必ず原稿を依頼し、雑誌の特等席に迎えていた。その寺田さんが長いあいだ狙っていた原稿が、この『狂人日記』である。
 「昭和六十一年、以前からしばしば小出しにお願いしていた長篇小説執筆について、話を詰める機運が高まっていることを、お目にかかる度にそれとなく感じていた。その頃はすでに新宿大京町に住んでおられたが、阿佐田哲也名で書くべき仕事が少なくなってきたこと、作家はやはり長篇小説を書くべきであると考えていること、どこか田舎に引き込もりたいと思っていること、を何度か伺った。その都度、こちらも強い調子でおすすめした。当初は、発表形式について、一〇〇枚ぐらいずつ四、五回にわたって分載する、書き下ろして出来た分からいただいていって、完結したところで一挙に掲載する、連載にする、などといったことも話し合った。色川さんにもこちらにも、肉体的、時間的条件に不安があり、簡単には踏み切れない事情があった。しかし結局、肉体的条件は色川さん自身に調整していただくしかないが、時間的条件の方はこちらで無理をする決心さえつけばよい、と考えるに至った。偶々、新任の担当者、大槻慎二が締切日前後には日参できるという態勢がととのったこともあった。」(「『狂人日記』まで」別冊・話の特集「色川武大・阿佐田哲也の特集」所収)
 少々長い引用になったが、ここに連載が始まる経緯がすべて記されている。色川さんの「肉体的条件」というのは主として持病のナルコレプシーのことであり、寺田さんの言う「時間的条件」を解消するために私は担当者として張り付き、毎月月末には「日参する」どころか校了前一週間はほぼ毎日、色川宅に泊まらせていただくことにもなった。
 色川さんの『狂人日記』執筆における自律自制の覚悟は並々ならぬものがあり、その様子は孝子夫人の著書『宿六・色川武大』に詳しいが、執筆にかかる時は食べるものから気を遣い、どんな誘いも断っていた。あの食いしん坊で人の誘いを断ることが大の苦手だった色川さんが、である。実際、玄関先で麻雀の誘いにきた何人かや、時には井上陽水さんや黒鉄ヒロシさんなども玄関先で帰された姿も目にしたし、しばしば「『海燕』の若造は色川さんの友達にずいぶん恨まれているらしい」と噂されていることも耳にしたが、その甲斐あって、一年半にわたる連載のうち休載したのはわずかに二回のみ。一九八八年の四月末で完結した。
 連載のあいだ、日に一枚、多くてせいぜい四、五枚の原稿用紙を、市ヶ谷の大日本印刷に置いていた出張校正室に着実に運ぶ以外、創作のお役に立ったことはなかった。ただひとつ、「ケースワーカーについて調べて欲しい」とのリクエストがあり、そのときは嬉々として図書館に向かった。
 当時「海燕」には色川さんのほか三浦哲郎氏、田久保英夫氏も小説を連載していて、内情をわきまえた編集者からは同情を買っていた。三人とも「超」がつくほどの遅筆だったからだ。原稿が入ると三浦さんや田久保さんの担当者と並んで、急いで赤鉛筆で指定をし、入稿する。そのとき気づいたのは、傍から覗いていた阿佐田哲也名義の原稿は枡目の中に小さくかしこまっているが、本名を使うときの原稿は枡目いっぱいに強い筆圧で記されていた。その鉛筆の減り具合まで伝わってくるような筆蹟だった。
 色川さんはつねに「ほかのふたりは、どう?」としんがりを気にしていたが、それは三浦さんも田久保さんも同じらしかった。
 とにかく連載は無事終わり、そこから単行本化までにはおよそ半年ほどかかるのだが、雑誌連載完結の段階で、いち早く取り上げたのは、朝日新聞で文芸時評を担当していた富岡多恵子氏だった。
 「色川氏の小説は『狂人日記』という題からしてもわかるように、その内容は軽くほがらかなものではない。しかし短いとはいえないその小説を読み進むことは苦痛ではなく、生の奥を舌で味わう気がする。言葉を読むことで虚構の内臓へ手がとどく。つまりその言葉を読んでゆくことでしか得られぬ悦楽があり、記録でも報告でも論文でもない、『小説』というものを読みたいと思ってきたのはそれ故だった。」(朝日新聞 一九八八年六月二十八日夕刊)
 前段で、当時流行していたポストモダン小説の文章が、内輪に向けた言葉でどんどんとシノプシス化していくことを憂いた文脈の後に置かれた批評だが、この小説の魅力と本質をこれほど的確についているものはないと感じ、単行本の帯に使わせていただいた。
 その単行本の刊行は同年の十月。四ヶ月あまりの時間をかけて加筆修正を施していたことになる。連載中溜めていた仕事の合間の作業だったとはいえ、ゲラにかける執念も並々ならぬものがあり、半年温めていてもなお、ゲラを手放すのが未練そうだった。
「どうも鰻の寝床のようになっちゃっててね」
 その呟きがいまも耳に残っている。連載中全力疾走を重ねた結果、毎回高いテンションが続いており、終わって振り返ってみると案外起伏に乏しいことを危惧した言葉と思われた。そのことなどを調整するために、ゲラには全般にわたり、助詞に至るまで細かく赤字が入っていた。
 装丁は菊地信義氏に依頼した。四六判上製の函入り。青と白の矩形を組み合わせたデザインは、北欧の木のおもちゃ箱から発想を得たとのことだった。
 装画には小説が生まれる直接的な触媒となった有馬忠士氏の絵が使われた。単行本の「あとがき」では、「いわゆるモデル小説ではない」と断っているが、主人公の設定としては重なる部分も多い。そしてまた、連載開始の五年前に亡くなった有馬氏の作品集(『有馬忠士作品集夢宇宙の闇と光をめぐる旅』一九八三年、飛鳥新社刊)に寄せた色川さんの文章「異能」にある、次のような一節に注目したい。
 「忠士さんの作品はまがうかたなく知の力でまとめられているけれど、その底にやっぱり(こういういい方はどうも概念で計るようないい方とまぎらわしくなって嫌だが)もろもろの不充足に支えられた異能を感じる。」
 これは形をかえた自己言及とも読め、有馬さんの絵を見て「他人の作品に思えぬものがあった」(『狂人日記』あとがき)と記す根拠がうかがわれる。
 発売と同時に評価する声が高く、さまざまな媒体に書評が掲載された。編集部としては間違いなく近年の文学界における大収穫と考えて、当然のことながら文学賞を期待した。そして実際、刊行の翌年には当該年度の読売文学賞を受賞した。
 一九八九年二月一日の読売新聞には賞の発表とともに短い選評が掲載されている。そこでは選考委員を代表して井上ひさし氏が、ドン・キホーテと重ねて読みながら、「他にもさまざまな読みの成立する、ふところの深い作品」とし、「狂気と正気との境目をみごとに言語化した作者の力業に脱帽する」と、絶賛の言葉を寄せている。いま改めて紙面を飾る受賞者の顔ぶれを見ると、ああ、こういう時代だったのだな、との感慨に打たれる。列記すると、随筆・紀行賞に陳舜臣『茶事遍路』、詩歌俳句賞に北村太郎『港の人』、研究・翻訳賞に中井久夫『カヴァフィス全詩集』、評論・伝記賞に大岡昇平(氏だけは前年に亡くなっているが)『小説家夏目漱石』、という並びである。
 ちなみにその紙面では、丸谷才一氏が研究・翻訳賞の、川村二郎氏が評論・伝記賞の選評を書いているが、丸谷氏は色川氏の葬儀で原稿化した色川武大・『狂人日記』論を読み上げ、川村氏に至っては朝日新聞の文芸時評のみならず、複数の追悼文で『狂人日記』に言及している。一つ年長だがほぼ同い年の川村氏にとって、色川さんの文学はそれこそ「他人ごとではない」主題を抱えているように見え、福武版全集でも色川武大の巻の解題をお願いした。
 授賞式は二月にあったが、その時にはもう色川さんは岩手県の一ノ関へ転居することを決めていた。その引越し、および早すぎる逝去については後の巻で触れることもあると思うが、とにかく三月には荷物を新居に移さねばならず、授賞式の前後には一ノ関と東京との往復も含めてかなりの肉体的、精神的負担がかかっていたことと思う。
 四月三日。新年度を迎えて当時会社があった九段坂上のあたりは桜が満開だった。その日、すでに一ノ関に移っていた色川さんのお宅に電話をかけた。かねてより溜まっていた『狂人日記』の愛読者カードをお見せする約束をしていて、ご挨拶かたがた伺う日取りを決めるためだった。電話に出たのは色川さんではなく、他の誰かだった。その受話器の向こうの様子がおかしい。とにかくいま大変なことになっているから、と慌ただしく電話を切られた後、胸騒ぎがして孝子夫人に連絡をとると、色川さんが倒れて、これから急いで東北新幹線に乗るところだという。そんな事情で偶々リアルタイムにことの次第を知ってしまった私は、皆押し寄せると大変なことになるから、他の編集者には内緒で、という条件付きで一ノ関に向かうことになった。
 救急で運ばれた一ノ関病院から、色川さんはすでに古川の瀬峰病院に移されていた。たくさんの管には繋がれていたものの、こちらを向いてニコッと笑った病床の色川さんの顔を見て、助かったんだな、と安堵した。
 その夜は、孝子さんと交代でベッドの脇に付き添った。ひと晩明けてほぼ小康を得たと判断し、東京に戻った私の元に突然の訃報が入ったのは、一週間後の四月十日だった。

 「『狂人日記』にとんだおつり、、、が来ちゃったね」
 深夜の病室でふたりきりになったとき、どこか照れ臭そうに色川さんが呟いた。そしてそれが、色川さんの口から『狂人日記』について伺った最期の言葉になってしまった。

大槻慎二

Shinji Otsuki
1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。編集者、田畑書店社主。
福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、で出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。

色川武大・阿佐田哲也 電子全集1 色川武大の神髄『狂人日記』『怪しい来客簿』

色川武大・阿佐田哲也電子全集_1
“純文学作家・色川武大”の代表作、『狂人日記』と『怪しい来客簿』を同時収録した豪華な組み合わせ。

色川武大、最後の長篇小説となった『狂人日記』は、文芸誌「海燕」編集長・寺田博氏の勧めにより見せられた、ある神経の病気を患っていた飾り職人の画集からインスパイアされ、自身が精魂込めて記された長篇。狂人と健常者の狭間に身を置き、他者を求めながらも得られずに自ら死を選ぶ男の狂気を内側から描き、1988年、第40回読売文学賞を受賞した“純文学作家・色川武大”を代表する晩年の傑作。

『怪しい来客簿』は、雑誌「話の特集」に1975年から翌年にかけ連載された小篇17篇からなる連作小説。社会の片隅へと押し込められる、この世からはみだした人たちとの触れ合いを描き、1977年、第5回泉鏡花文学賞に輝いた。執筆当時、麻雀小説作家・阿佐田哲也で名声を得ていた氏が、“純文学作家・色川武大”として狼煙を上げた重要な作品である。

解説は、色川作品を敬愛してやまない作家・佐伯一麦氏。解題は、元担当編集者で当電子全集の監修を務める大槻慎二氏が担当。
付録として「狂人日記」第1回の生原稿のほか、吉行淳之介、津島佑子両氏からの追悼文等を収録する。
https://www.shogakukan.co.jp/books/09d06562

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