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【直木賞・馳星周『少年と犬』が受賞!】第163回候補作を徹底解説!

2020年7月15日に発表された、第163回直木賞。文芸評論家の末國善己氏が、今回も予想!結果は、5年ぶり7度目の候補入りとなっていた、ベテラン作家馳星周氏の『少年と犬』でした。末國氏による当初の予想はどうだったのでしょうか? 候補作5作品のあらすじと、その評価ポイントをじっくり解説した記事を、ぜひ振り返ってみてください!

前回の直木賞(第162回)を振り返り!

 今回の直木賞予想も、前回の答え合わせから始めたい。
 前回は、川越宗一『熱源』を本命、湊かなえ『落日』を対抗、誉田哲也『背中の蜘蛛』を穴と予想した。結果は樺太アイヌのヤヨマネクフ(日本名・山辺安之助)を主人公にした川越宗一の歴史小説『熱源』だったので、久々の的中となった。選考会の2日前、麻生太郎副総理兼財務大臣が、アイヌを「先住民族」と明記した「アイヌ民族支援法」の精神に反する発言をしたことも、受賞の追い風になったのではないだろうか。これで借金を1つ返し、通算成績は3勝4敗である。
 浅田次郎の選考経過によると、

1回目の投票で、川越さんの『熱源』に票が集まった

次点は小川哲さん『嘘と正典』、3番手が誉田哲也さんの『背中の蜘蛛』だった

という。受賞作は的中だったが、『嘘と正典』は

選考委員の理解の外側にあるので、受賞はないと見る

としていただけに、まったく予想外の展開だった。『熱源』と競り合うと見ていた湊かなえ『落日』は、再び浅田次郎の選考経過を引用

すると

この3作に湊かなえさんの『落日』を加えるかどうかで議論となった

数を書いていて読者に支持されている方。ストーリーテリングに一日の長があるのは歴然としている。決戦投票に残さないのはおかしい(「朝日新聞」夕刊、2020年1月22日)

という意見があり4作での選考になったとあるので、おまけ的な扱いだったことがうかがえる。『落日』の低評価も意外で、またしても“湊かなえは直木賞と相性が悪い”説が補強されることになった。

 今回の直木賞は、候補者の中では最多7回目のノミネートとなるベテランの馳星周と、(文芸の世界では)新人、中堅の枠内に入る4人の戦いといえる。一時期、直木賞はベテランに功労賞的に贈られるケースが増えていたが、近年は設立時の理念だった新人の受賞も増えており、どちらになるかもポイントの一つといえる。

 選考委員は、宮城谷昌光が辞め新たに三浦しをんが入ったので、浅田次郎、伊集院静、角田光代、北方謙三、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆきの8名。前回からは角田光代が選考委員になっており、2回続けての交代で選考委員の若返りがはかられているように思えるので、これが選考結果に与える影響にも注目したいところだ。

候補作品別・「ココが読みどころ!」「ココがもう少し!」

伊吹有喜『雲を紡ぐ』(文藝春秋)


https://www.amazon.co.jp/dp/4163911316/

 伊吹は、家族の再生をテーマにした第151回の候補作『ミッドナイト・バス』、戦前に少女たちの憧れだった「少女の友」をモデルにした少女雑誌の編集者になった女性を主人公にした第158回の候補作『彼方の友へ』に続く3回目のノミネートである。
 小学校の受験は失敗、ようやく母が望む私立の中高一貫の女子校に入学した美緒だったが、高校2年の現在、いじめが原因で引きこもっていた。父の広志は育児を妻に任せ、私立中学の英語教師をしている母の真紀、元教師の母方の祖母は、美緒を元の生活に戻そうとしているものの親子の溝は深まるばかりだった。父方の祖父母が手作りで染め、織ってくれたショールにくるまることで心の平穏を保っていた美緒は、ある日、母が大切なショールを捨てたと思い込み、祖母を亡くした祖父が暮らす岩手県に向かう。
 祖父の紘治郎は、イギリス伝来の織物ホームスパンの糸を染色する職人で、織物の天才だった亡き祖母・香代とのコンビで数多くの名品を残していた。紘治郎は捨てられたショールの代わりを自分で織ることを勧め、職人の見習いになった美緒は伯母の娘・裕子の下で働き始める。
 作中には、羊の糞で汚れ悪臭をはなつ「汚毛」を手作業で洗浄する、紡ぐ途中で切れた糸を繋ぐなど、ホームスパンの製作過程が丁寧に描かれている。ただ本書は、単なる技術小説ではない。「汚毛」は友人たちからきたないと呼ばれ避けられるようになった美緒を、途中で切れた糸は学校生活も、家族との関係も継続が難しくなっている現状を象徴しており、美緒がそれらを克服する技術を身に着けるプロセスは、そのまま自分の力で今後の身の振り方を考える葛藤に重ねられている。物語が進むにつれ、美緒が引きこもったことで母がいわれなき批判にさらされ、父が勤務する家電メーカーが窮地に陥り、両親とも自分の親との間に確執があることが分かってくる。美緒が織り上げようとしているホームスパンのショールは、美緒だけでなく、家族の再生までを左右する重要な意味を持ってくるのである。
 長く日本社会は、つらくても逃げ出さず辛抱することを美徳にしてきた。それが、いじめやパワハラが原因の自殺、ブラック企業の横行を許した原因ともいえる。これに対し本書は、つらければ逃げ、逃げた先で再起する道を模索すればいいというメッセージを前面に押し出しているので、美緒と同世代の若者はもちろん、職場で苦労している親の世代も共感できるように思える。その一方で、新たなチャレンジをすることで未来を切り拓く展開は予定調和すぎ、ラストも感動的ではあるが驚きはなく、手堅くまとめた印象が強かった。『ミッドナイト・バス』は、直木賞の選評(「オール讀物」2014年9月号)で

登場人物の心理は読みごたえがあるのだが、彼らの苦悩はどれも過去の出来事に起因しており、それを一元的に現在に押しこめてしまったがゆえに、せっかくのストーリーが平坦になった

(浅田次郎)

中盤から家族幻想が、霧のように物語を覆い始めると、たちまちありきたりな話に終わってしまった(桐野夏生)

と評されていた。本書も似た欠点を抱えているだけに、同様の評価をされる可能性がある。

 

今村翔吾『じんかん』(講談社)


https://www.amazon.co.jp/dp/4065192706/

 今村は、2017年にスタートした文庫書き下ろし時代小説のデビュー作〈羽州ぼろ鳶組〉シリーズで、いきなりブレイク。文庫書き下ろし出身の作家は、単行本で歴史時代小説を発表しても評価されないことがあるが、今村は、「童」の蔑称で呼ばれていた者たちが、差別のない社会を作るために戦う伝奇小説『童の神』が第160回直木賞と第10回山田風太郎賞の候補作になり、賤ヶ岳七本槍の視点で石田三成を捉えた『八本目の槍』で第41回吉川英治文学新人賞受賞と第8回野村胡堂文学賞を受賞するなど、常に賞レースにからむ活躍を見せている。『じんかん』は、2回目の直木賞候補作である。
 江戸時代の儒者・湯浅常山が武将の逸話をまとめた『常山紀談』には、徳川家康が織田信長に対面した時、松永久秀を「将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる」と紹介したとある。この逸話の影響もあって、戦国を代表する“梟雄きょうゆう”とされる久秀だが、近年の研究で、久秀は室町13代将軍の足利義輝を殺す現場にはおらず、大仏殿の焼き討ちも久秀を犯人とする史料はなく、放火にしろ失火にせよ戦闘の最中に起きた不慮の事故との説が有力視されている。アンソロジー『戦国の教科書』に発表した「生滅の流儀」で久秀を再評価した今村が、同じ題材を長編にしたのが『じんかん』である。
 今村は、久秀の前半生に不明な点が多いことを利用し、少年時代に合戦に巻き込まれ両親と仲間を失った九兵衛(後の久秀)と甚助(後の松永長頼)兄弟が、民が為政者を選び、武士が必要ない世の建設を目指す三好元長に見出され、その理想を実現するために戦ったとする。九兵衛は、現代でいえば非正規労働者にあたる足軽と似た境遇だったがゆえに、その潜在的な力を引き出しながら、私利私欲に走り平然と不正を行う為政者を倒し、戦乱や貧困におびえる民を救うために戦い続ける。九兵衛が立ち向かう社会の不条理は現代でも解消されたとはいえないので、その活躍が痛快に思えるはずだ。
 ただ今村は、改革派の九兵衛を善、民や足軽を使い捨てる守旧派の武将を悪とする勧善懲悪の図式を作ってはいない。民を救うために立ち上がった九兵衛が、変革を望まず、欲に弱い民に足をすくわれる展開を作ることで、改革を阻む普遍的な構造そのものを炙り出して見せたのである。一代では達成できない改革のバトンを元長から渡された九兵衛が、次世代に託そうする終盤は、その志を受け継いだ現代人が、社会を意味する「じんかん」(漢字では「人間」)の改革を断行できるのか、それとも戦国の民のように改悪するのかの問い掛けになっており、考えさせられる。
 第160回の直木賞予想を読んでもらえれば分かるが、さほど『童の神』は評価していなかった。ところが選評(「オール讀物」2019年3・4月合併号)を読むと、

暗い歴史を仄めかす伝承は、どこの国にもある。こういう形で光を当てると同時に、自分自身も楽しもうとしている作家の姿勢を評価したい(東野圭吾)

「この国の闇の声として聞えては消されてきたものを、物語として書こうとした志を、私は評価する(北方謙三)

と受賞作の真藤順丈『宝島』と互角の勝負をしているのだ。『童の神』を特に絶賛した三人の選考委員のうち、宮城谷昌光と東野圭吾が抜けた影響はあるかもしれないが、全共闘世代で革命と新国家建設をモチーフにした歴史小説を書き継いでいる北方謙三は、やはり国造りを描いた本書も評価する側になるだろう。歴史認識や登場人物の価値観が現代的なところは歴史小説では弱点になるし、史実に縛られずダイナミックな物語が書けた『童の神』とは異なり、本書の後半は史料の制約を受けており、そこがプラス評価となるか、マイナスと見做されるかが、当落をわけると考えている。

 

澤田瞳子『能楽ものがたり 稚児桜』(淡交社)


https://www.amazon.co.jp/dp/4473043592/

 澤田は、第153回の『若冲』、第158回の『火定』、第161回の『落花』に続き4回目の直木賞ノミネートとなる。澤田も湊かなえと同じく直木賞と相性が悪く、『若冲』は受賞した東山彰良『流』と接戦を繰り広げたものの、選評(「オール讀物」2015年9月号)には

どうも小説の世界にのめり込めない。若冲があまりにも普通の人過ぎる(林真理子)

学術的な教養に小説の結構が負けている

物語に必須の美醜と聖俗の選択を、作者はさほど意識していないように思えた(浅田次郎)

など厳しい評価が並ぶ。奈良時代の天然痘の流行を描いた『火定』、平将門の乱を背景に置いた『落花』も同様で、宮部みゆきだけはいずれも同時受賞を主張するほど澤田の作品を評価しているが、他の選考委員の賛同を得られるには至っていない。
 これまで澤田の候補作は長編だったが、今回は初の短編集。三島由紀夫『近代能楽集』を持ち出すまでもなく、能にインスパイアされた小説は少なくないが、本書もその一つである。澤田は大学時代に能楽部に所属しており、その時の経験が活かされたといえる。
 善光寺参りに出かけ越後の山中で進むか戻るか迷っていた遊女と妹分が、偶然、出会った老女の家に招かれる「やま巡り」。刀工・三条宗近の弟子の豊穂が、師匠の刀を持ち逃げした。帝から作刀の依頼を受けた宗近だが、豊穂がいなくては満足な刀が打てない。豊穂の子を妊娠した宗近の娘が、その行方を捜す「小狐の剣」。花月や百合若らは、貧しさゆえに清水寺で僧の男色の相手をする稚児になった。ある日、花月の父親が子供を捜すため寺に現れる表題作。旅の僧が、妻子から逃げてきたと語る猟師から、故郷の家族への伝言を頼まれる「猟師とその妻」。数々の女性と浮名を流した源中将が最も寵愛する姫君が生霊に憑かれ、巫女が悪霊祓いを頼まれる「照日の鏡」など収録の9編は、親子、夫婦などの関係に亀裂が入り、そこから情念が生み出されるダークな世界を描いており、イマジネーションを喚起するパワーに圧倒される。
 夢幻能は鬼神や怨霊といった人ならざるモノが過去と現在を自在に入れ替え、歴史的な敗者の知られざる真情を浮かび上がらせるどんでん返しを作ることもある。澤田は、原典の舞台となった時代を徹底した時代考証で活写しながら、幻想小説的であり、ミステリーでもある仕掛けに満ちた物語世界を構築してみせる。澤田は、近年、静かなブームになっている古代史ものを牽引しているが、『夢も定かに』『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』〈京都鷹ケ峰御薬園日録〉シリーズなどの連作短編集には、完成度の高いミステリーも収録されている。澤田は、泡坂妻夫あわさかつまお『夢裡庵先生捕物帳』(徳間文庫)の解説で、物語の構図を反転させる手法を得意とした泡坂のファンだったと述べており、本書を読むとそれも納得できる。
 完成度が高く、短編らしい切れ味の作品が並んでいるが、やはり各編の微妙な優劣は隠しがたく、前回、小川哲の短編集『嘘と正典』が敗れたことからも明らかなように、どうしても短編集は長編と争うと不利になる。また最近は、緻密に計算された小品より、物語の力で押し切る大作が有利な傾向にあるので、トリッキーな短編が並ぶ本書は、選考委員の支持を集めるのが難しそうな気がしている。

 

遠田潤子『銀花の蔵』(新潮社)


https://www.amazon.co.jp/dp/410319832X/

 遠田は、2009年、『月桃夜』が第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビュー。その後は、『アンチェルの蝶』が第15回大藪春彦賞候補作、『冬雷』が第1回未来屋小説大賞と第71回日本推理作家協会賞の長編および連作短編集部門の候補作、『ドライブインまほろば』が第22回大藪春彦賞の候補作になるなど、目覚ましい活躍をしている。文学賞の候補にはなるが受賞歴はない遠田は、今回が初めての直木賞ノミネートである。
 物語は、取り壊し工事をしている醤油蔵の下から子供の白骨が見つかり、それを見た銀花が「座敷童」とつぶやく場面から始まるが、すぐに大阪万博を目前に控えた1968年に遡る。関西の都市部にある小学校に通う山尾銀花は、売れない画家の父・尚孝と料理上手だが盗癖のある母・美乃里と暮らしていた。尚孝が実家の醤油蔵を継ぐことになり、銀花は奈良県橿原市に引っ越す。そこには、祖母の多鶴子、銀花より一歳年上の父の妹(叔母)で都会に憧れる美少女の桜子、杜氏の大原らがいた。山尾家には醤油蔵に座敷童が現れ、それが見えるのは当主だけとのいい伝えがあった。家を継ぐと決めたものの、醤油造りにも、経営にも身が入らない尚孝は、作品を雑誌社へ送っていたが色よい返事はもらえなかった。ある日、銀花が醤油蔵で座敷童を目にする。銀花が、当主になる人間にしか見えない座敷童を見たことで、かろうじて保たれていた山尾家のバランスが崩れてしまう。
 本書は、1968年から約半世紀にわたる山尾家の歴史を追っていて、高度経済成長末期、オイルショック後の不況、バブルへ向かう時代と、それぞれの時期でしか起こり得ない事件を描き、謎が解かれるにつれ山尾家のメンバーが隠している秘密も明らかになる構図になっている。一人の事情が白日のもとにさらされると、それを起点に新たな謎が浮かび、すでに解明されたと思ったトラブルの中に次の事件を解く鍵が隠されていることがあるなどの巧みな構成は圧巻である。さらに醤油蔵から発見された白骨は誰のものか、銀花が見た座敷童は本物なのかが物語全体を引っ張る大きな謎になっていく。座敷童は岩手県の旧家に出る妖怪で、座敷童を見た家は栄えるとされる。似たような妖怪の伝承は全国にあるが、地域によって呼称は異なるようだ。それなのになぜ奈良県の山尾家に出没する妖怪は、座敷童と呼ばれているのか? 冒頭から違和感を覚えた設定にも、きちんと理由付けがなされており、張り巡らされた伏線はすべて回収されているといっても過言ではない。
 理知的に組み立てられた物語だからこそ、その先にある情が心にしみるのは間違いない。その一方で、ある人物が不可解な行動を取り、それで山尾家の人間は長く迷惑していたのに、その行動に必然的な理由があったと判明した途端に、気付いてあげられなかった、もっと手を差し伸べる方法はなかったのかというよい話に持って行こうとするところは、人間はそこまで割り切って美談にできないように思え、感動を与える手法が作為的に感じられた。また本書には、家族で最も大切なのは血縁なのか、血縁ではない結び付きでも家族になれるのかという、少子化と家族のあり方の多様化で今後ますます重要になる問題提起がある。これは宮部みゆきが現代小説、時代小説を問わず追究しているテーマだけに、宮部みゆきが本書を肯定するか、否定するかで議論の流れが変わると考えている。

 

馳星周『少年と犬』(文藝春秋)


https://www.amazon.co.jp/dp/4163912045/

 馳星周は、今回の候補者の中では最もキャリアが長く、人気、実力を兼ね備えた作家といえる。直木賞は、作家デビュー作となった『不夜城』が第116回の候補作になり、第120回の『夜光虫』、第122回の『M』、第130回の『生誕祭』、第138回の『約束の地で』と、1990年代後半から2000年代初頭にかけて立て続けにノミネートされたが、いずれも受賞を逃した。少し間があいて、1000枚を超える大作で下馬評も高かった『アンタッチャブル』が第153回候補作になるも、この時も涙を飲む結果となった。5年ぶり7回目のノミネートとなるのが、『少年と犬』である。
 犬好きとして有名な馳星周は、犬と人間の関係に着目した『ソウルメイト』『陽だまりの天使たち ソウルメイト2』『雨降る森の犬』などを発表しているが、個人的に猫派であることと、“ここで感動してください”“ここが泣きどころですよ”という押し付けが目につき、正直な話をすればあまり面白いと思うことはなかった。ところが本書は、これまでの犬ものとは別次元の作品になっているのだ。
 物語は、東日本大震災の被災者が飼っていたらしいシェパードと和犬の雑種・多聞が、旅を続ける途中で出会った人たちとの交流を描く連作短編集となっている。と書くとハートウォーミングな展開を思い浮かべるかもしれないが、その期待はすぐに裏切られる。
 巻頭の「男と犬」では、多聞が先輩の命令で危険な仕事に手を染めている青年と行動を共にする。青年の母は認知症で、介護をしている姉は金銭的にも、時間的にも限界に近付いていた。青年は、大金を稼ぐために外国人窃盗団の送迎を請け負う。
 続く「泥棒と犬」は、外国人窃盗団のメンバーだったミゲルが、多聞を連れ逃避行をはかる。故国の最底辺に生まれ、子供の頃からゴミの山から金目のものを探していたミゲルが、窃盗団に入るまでを回想する場面は残酷で、思わず目を背けたくなるほどである。
 その後も多聞は、ギャンブルにのめり込んでいる男に貢ぐ風俗嬢を癒し、重病で余命わずかな猟師が向かった最後の熊撃ちに同行するなどする。そして最終話「少年と犬」では、多聞が長い旅をした理由が語られることになる。
 本書の収録作は、日本と世界が直面している深刻な社会問題に切り込んでおり、救いがなく、重要な役割を与えられた登場人物があっさり命を落とすことも珍しくない。ただ最終話になると、この厳しい現実を乗り越えるためには何が必要なのかという明確なメッセージが打ち出されている。また多聞が人間の死を乗り越えて目的地にたどり着く展開は、生きている人間は、事故や災害で倒れた人たちの想いをどのように汲み取って未来を作るべきかを突きつけているので、読者一人一人が自分自身と向き合うことになるだろう。
 これまで馳星周は、最も得意とするノワール系の作品が直木賞の候補作になってきた。今回はノワールと感動の物語を融合しているが、感動のエッセンスの方が比重が大きい。違った作風の本書が、好意的に評価されるか否かが、ポイントになりそうである。

 

ズバリ予想!本命は?対抗は?

 以上を踏まえ、第163回直木賞を予想してみたい。
 前回は『熱源』を受賞作にするため、あえて他の候補作を小粒にしたのではないかという陰謀論めいた妄想が頭をよぎった。今回も、現在最も勢いがある作家の一人で、受賞すれば恩恵を受ける出版社も多い『じんかん』を受賞作にするため、それ用のシフトが組まれたかのようなラインナップといえなくもない。ただ候補作を再読してみると、必ずしも『じんかん』がリードしていないことにも気付いた。
 おそらく今回は、『じんかん』と『少年と犬』の一騎打ちで、そこに割って入る可能性があるのは、『銀花の蔵』と『能楽ものがたり 稚児桜』で迷うが、仕掛けの細やかさと伏線の妙では澤田作品に一日の長がある。そこで、ファーストインプレッションを重視して本命を『じんかん』、作品のクオリティに功労賞的なプラスαも働く『少年と犬』を対抗、澤田のテクニックが一冊で味わえる『能楽ものがたり 稚児桜』を穴としたい。
 選考会は、2020年7月15日、お馴染みの築地の料亭・新喜楽で開催される。結果を楽しみに待ちたい。

筆者・末國善己 プロフィール

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●すえくによしみ・1968年広島県生まれ。歴史時代小説とミステリーを中心に活動している文芸評論家。著書に『時代小説で読む日本史』『夜の日本史』『時代小説マストリード100』、編著に『山本周五郎探偵小説全集』『岡本綺堂探偵小説全集』『龍馬の生きざま』『花嫁首 眠狂四郎ミステリ傑作選』などがある。

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