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【『プールサイド小景』ほか】芥川賞作家・庄野潤三のおすすめ作品

短編小説『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞した小説家・庄野潤三。庄野は平明かつ率直な文体を用い、日常の穏やかさと不穏さを同時に描き出す作風で数々の名作を残しました。今回は、庄野潤三のおすすめ作品を3作品ご紹介します。

1953年から1955年ごろにかけて文壇に登場し、存在感を示した当時の新人小説家を、「第三の新人」と呼びます。第一次、第二次戦後派に続く世代として、私小説的傾向の強い作品を多く残した吉行淳之介や安岡章太郎、遠藤周作といった作家たちがその代表とされています。

その「第三の新人」のひとりに、1955年に短編小説『プールサイド小景』で第32回芥川賞を受賞した小説家・庄野潤三がいます。庄野は平明かつ率直な文体を用い、都市生活者らの日常に潜む不穏さを淡々と描き出しました。

今回は、そんな庄野潤三のおすすめ作品とその読みどころをご紹介します。

一見幸せそのものの家族が抱える秘密──『プールサイド小景』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4101139016/

『プールサイド小景』は、第32回芥川賞を受賞した、庄野潤三の代表的な短編小説のひとつです。本作は、大金を使い込み20年近く勤め上げた会社を突如クビになった夫・青木氏と、彼を見つめる妻の姿を、淡々とした筆致で描いています。

仕事を失ってすることがなくなった夫は、小学生の子どもたちふたりを連れて、近所に新しくできたばかりの学校のプールに通い始めます。そこでは快活な女子学生たちがインターハイを目指して伸び伸びと泳ぎの練習をしており、水泳コーチの目から見ると、青木一家もその気持ちのよい風景の一部であるかのように映っています。

選手たちの活気から悄々遠ざかった位置に、一人の背の高い男が立って、練習を見ている。(中略)
その息子が二人、一つだけ空いている端のコースで、仲のよい犬の仔のように泳いでいる。上が五年生で、下がその一つ下だ。(中略)
……やがて、プールの入口の柵のところに、大きな、毛のふさふさ垂れた、白い犬を連れた青木夫人が現れた。
青木氏はしばらくたってから、これに気附いて、水を手で飛ばしてかけ合っている二人に声をかける。息子たちは従順だ。すぐにプールから上って、シャワーを浴びに走って行った。

青木氏の家族が南京はぜの木の陰に消えるのを見送ったコーチの先生は、何ということなく心を打たれた。
(あれが本当に生活だな。生活らしい生活だな。夕食の前に、家族がプールで一泳ぎして帰ってゆくなんて……)

しかし実際には、一家を待っているものは夏の夜の団欒ではなく、もっと重い“別のもの”でした。職を失った夫と、夫の漠然とした不安や孤独に気づかなかった妻との関係には大きなひびが入ってしまい、妻は夫の告白を聞くにつれ、「彼には他に女がいるのだ」という予感に苛まれます。

本作が描くのは一家のささやかな破綻であり、それ以上に大きな事件や展開らしい展開はなんら起こりません。物語は静かに始まり、静かなままで終わります。

『プールサイド小景』が発表された1955年は、戦後、日本が高度経済成長を目指して歩み始めたばかりの時代でした。人々がすこしずつ豊かになり、その生活も都会的に洗練されていく反面、戦前・戦時中には見られなかった家庭内の小さなひずみが生活者の目にも見えるようになってきていたのでしょう。庄野はそのひずみを逃さず、日常を一枚めくった先にたしかに存在する不穏さや生の不安定さを、簡潔な文体を用いてスケッチしたのです。

『夕べの雲』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/4061960156/

『夕べの雲』は、庄野潤三の長編小説です。本作は1964年から65年にかけて日本経済新聞で連載された全13章から成る作品で、1966年には読売文学賞小説賞も受賞している名作です。

登場人物は、大浦という男とその妻、そして3人の子どもたち。彼らが“丘の上の新しい家”に移り住み、自然と交流しながら暮らしていくさまが穏やかに描かれます。彼らは、強い風を防ぐための風よけの木々を植えたり、家の周りの道に「森林の道」「マムシの道」といったオリジナルの名前をつけたりして、すこしずつ土地に馴染んでいきます。

ささやかで平和な日常の合間に垣間見えるのが、この暮らしは永遠に続くものではないというそこはかとない諦念と、いずれ「いま」から遠く離れて、今日の暮らしを振り返るときがくるだろうというたしかな予感です。

日の暮れかかる頃に杉林のある谷間で安雄と正次郎(注:大浦の息子)の声が聞こえて来る。(中略)そんな時、彼はつい立ち止まって、景色に見入った。
「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」
すると、彼の眼の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実のものなのか、もうこの世には無いものを思い出そうとした時に彼の心に浮かぶ幻の景色なのか、分からなくなるのであった。
そこにひびいている子供の声も、幻の声かも知れなかった。

庄野はあとがきの中で、本作を書いた動機をこのように回想しています。

「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである。その、いまそこに在り、いつまでも同じ状態で続きそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい。

姿を変えて移ろう“夕べの雲”のように、すべての物事は「いま」に留まり続けることはできません。しかし、だからこそ、立ち現れては消えていく一瞬の美しさを取り逃がしたくないという意志が、本作を軽やかでありながら強度のある作品に仕上げています。作中で描かれる四季の美しさや大浦の家族の伸び伸びとした仲のよさも、素朴でありながら非常に感動を呼ぶものとなっています。

結婚50年を迎える夫婦の穏やかな生活──『貝がらと海の音』


出典:https://www.shogakukan.co.jp/books/09352408

『貝がらと海の音』は、庄野が1996年に発表した長編小説です。本作は「もうすぐ結婚五〇年の年を迎えようとしている夫婦がどんな日常生活を送っているかを書いてみたい」という動機によって書かれたもので、子どもが皆巣立っていって妻とふたり暮らしになった庄野自身の身の回りのできごとを描く、随筆のような読み味の作品です。

『夕べの雲』等にも見られた淡々とした筆致、そして事件の起こらなさは本作でも健在で、ともすれば退屈に思えてしまいそうなほどに穏やかな日々が静かに綴られます。
たとえば、ある夏の日の記録では、長女のなつ子から宅急便と手紙が届いたときのことが書かれています。

この前、八月の末に南足柄の長女から宅急便が届いた。近所の松崎さんからもらった、何にでもよく効くというクリーム(これは、長女が庭先で蜂に眉の上を刺されたときにすぐつけたら、痛みがとれ腫れもしなかったというから、「何にでもよく効く」かどうかはともかくとして毒虫に刺された場合につけると効くことは証明されたわけだろう)、栗、フランスの紅茶、角砂糖、前にも送ってくれた大雄山線塚原駅前の菓子屋で売っているチョコレートケーキ(大へんおいしい)などが入っていた。
長女の手紙が入っている。(中略)
清水さんから伊予のピオーネが二箱も届いたの。大きいのに種のない、おいしい葡萄です。松崎さんたちにもお裾分けして、皆で嬉しく食べています。

庄野が宅急便のお返しに梨を送ると、後日、長女から電話がかかってきます。

「なつ子です」
といってから、声を張り上げて、
「梨が着きましたァ」
(中略)
そこで、清水さんのピオーネみたいに足柄中にまき散らすんじゃないよとひとこと釘を刺しておいたら長女は、
「もうまき散らしています」

このように、庄野らしい飾り気のない透明な文体で綴られる日常は、とてもほのぼのとして多幸感に溢れています。同じできごとが繰り返し書かれたり、近所の人物についての注釈が多かったり、庄野自身の老いについての諦めのような言葉が垣間見られたり──と、言ってしまえば非常に“地味”な作品ではありますが、そこに嘘や装飾がない分、どの時代に読んでも古びないような美しさがあるのです。BGMのほとんどない良質な映画を見ているときのような、幸福な読書体験に浸ることのできる1冊です。

おわりに

「第三の新人」として同時代に活躍した小島信夫のような実験性、あるいは吉行淳之介のような華やかさ・派手さは、庄野作品にはほとんど見られません。しかし、技巧を感じさせない淡々とした平易な文体は誰にとっても読みやすく、ただそこにある幸福感や諦念、不安が、素朴な実感を持って胸に迫ってきます。

庄野作品を読んでいると、決して物語らしい物語がなくても、身の回りを丹念に見つめる目があるだけで小説はこれほどおもしろくなるのかということに驚かされるはずです。随筆のように穏やかな作品が読みたい方にはもちろん、文章の上達を目指している方にも庄野作品はおすすめです。

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