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孤独な人々を照らし出す、辻村深月作品の魅力

直木賞受賞作家であり、2018年には本屋大賞も受賞するなど、若い世代を中心に絶大な人気を誇る作家、辻村深月。作品に漂う独特な「孤独感」をテーマに、辻村深月作品の魅力をひも解いていきます。

辻村深月作品の魅力 アイキャッチ

『鍵のない夢をみる』で第143回直木賞を受賞し、若い世代を中心に絶大な人気を誇る作家、辻村深月。『かがみの孤城』では2018年の本屋大賞をはじめ、王様のブランチブック大賞2017、ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 2017など、数々の文学にまつわる賞を受賞しています。
彼女の作品を読み解くカギのひとつに、独特な「孤独観」があります。今回は、そんな辻村深月作品の魅力を紹介します。

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『凍りのくじら』

凍りのくじら
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 辻村深月は、2019年3月に公開される『映画ドラえもん のび太の月面探査記』の脚本と小説版を手掛けたことでも話題になっていますが、実は、辻村作品を語るにあたって、ドラえもんは切っても切り離せない関係にあります。

 幼いころから藤子・F・不二雄作品に親しんでいた辻村。特にドラえもんに関しては、ひときわ深い思い入れがあるようです。ドラえもんへの愛はエッセイ『ネオカル日和』にも記されていますが、如実に現れている作品として、『凍りのくじら』があります。話の随所にドラえもんが登場するだけでなく、小題それぞれにドラえもんの道具があてられるという徹底ぶり。

 そして、この『凍りのくじら』こそ、辻村特有の孤独観が最も顕著に表れた作品だと言えます。

『どこでもドア』を持つ私は、屈託なくどこのグループの輪にも溶け込める。愛想よく馬鹿のふりをしながら。親身になって話を聞いて、いい人ぶりながら。どこでも行けるし、どんな場所や友達にも対応可。
だけど私は、Sukoshi・Fuzai(少し・不在)だ。いつでも。
場の当事者になることが絶対になく、どこにいてもそこを自分の居場所だと思えない。それは、とても息苦しい私の性質。
(『凍りのくじら』より)

 主人公の芦沢理帆子は、高校二年生。藤子・F・不二雄作品を敬愛する父のもとに育ち、小学生の時に父が失踪。長患いの母と二人で生活しています。
 藤子・F・不二雄がSFをSukoshi・Fushigiと表したことに倣い、理帆子は周囲の人の特性に「スコシ・ナントカ」と名前を付けています。そんな中で、理帆子が自らに名付けた特性が、Sukoshi・Fuzai(少し・不在)でした。

「私が、自分に名付けたのは、少し・不在。私は、どこにいても、そこに執着できない。誰のことも、好きじゃない。誰ともつながれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも、見苦しいし、息苦しい。どこの場所でも、生きていけない」

 理帆子は一見どんな友達とも仲良くできる理知的な少女です。しかし、誰とでも仲良くできる器用さは、誰にも心を預けられない不器用さと隣り合わせでした。理帆子は絶えず、自分だけが蚊帳の外にいるような感覚を抱いています。
 「少し・不在」は、理帆子のそんな孤独感――どこにいても自分の本心を曝け出せない、どこにいても自分の居場所だと感じられない感覚――を表した言葉です。
辻村は、理帆子の寂しさに寄り添う反面、周囲を冷やかに見下す理帆子の身勝手さや危うさも、隠すことなく描きます。

 理帆子の「少し・不在」は、『凍りのくじら』の全体にわたって一貫したテーマとなっています。

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』

ゼロハチゼロナナ
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「外」のない彼女たちは本当に真の意味で大変なのだと同情しながら、私は、自分は違うのだと感じていた。
「ここ」で幸せになることは負けだ。私は戻る。価値基準が違い、その発想のない彼女たちを置いて。私は一人紛れ込んだ異分子であり、スパイであり、裏切り者であると、理解していた。
(『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』より)

第142回直木賞候補、第31回吉川英治文学新人賞候補作『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』は 、母親を殺し失踪した幼馴染を追う一人のジャーナリストの話です。主人公の神宮司みずほは、実家を出て文筆業で生計を立てています。情報収集ために戻った地元 ・山梨で、彼女は自分と周囲の人間との価値観の違いに思いを馳せます。

  

山梨に戻って、チエミたちと再会したとき、驚かされたのは、彼女たちの圧倒的な関心のなさ、考える力のなさだった。

 自ら地元を出ることを選び、進学、就職したみずほと、地元に残った同級生たち。この作品では、二つの文化的差異が対照的に描かれています。
時事問題に深く関心を持つか、表面的な理解すら覚束ないか。ブランド品を自分の稼ぎで買うか、恋人や親に買ってもらうか。自分の力で生きていくか、誰かに依存し続けるか。
 自らの価値観とは異なる同級生のコミュニティの中にいるときのみずほは、自分自身を異物と評しています。

『水底フェスタ』

水底フェスタ
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せっかくのムツシロックの価値を、この村でわかっている人間はどれくらいいるだろう。村でやっているイベントだから、祭りだから、無料だから。そんな理由ではなく、来ている顔ぶれが本当にすごいんだって、小躍りするほどの勢いで夏の三日間を楽しみにしている人間を、広海は自分と父しか知らない。あとはせいぜい、従兄の光広くらいか。
(『水底フェスタ』より)

 ロックフェスの誘致に成功したとある村。村長の息子である広海は、村人たちの保守的な意見や価値観に、どこかうんざりしています。そして、自分と馬の合う人間がいない鬱屈にも苛まれています。

(前略)自分が見ている世界と、彼らが見ている世界とは決定的に噛み合わない。

 直接的に言葉にされているシーンは少ないけれど、広海も『凍りのくじら』の理帆子や『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ』のみずほ と類似した、孤独感、異物感、閉塞感、のようなものを抱えています。

『オーダーメイド殺人クラブ』

オーダーメイド殺人クラブ
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しかし、言い触らす、と言葉にして思ってしまってから、それが自分の気持ちにちっとも合わないことに気づく。そんなこと、私がするはずがない。だって、多分、誰にも理解できないから。
(『オーダーメイド殺人クラブ』より)

 中学生のアンは、いわゆるリア充系のグループに所属する一方で、価値観の合わない友達や親と隔絶を感じています。彼女の唯一の拠り所は、人知れず死や猟奇的なものに思いを馳せることでした。
 しかしながら、アンの唯一の聖域である夢想に浸れる世界は、次第に周囲の人々によって浸食されてしまいます。

いつもだったら、私には逃げ込める、透明な空気を吸える逃げ場みたいなものがあって、それがこの部屋だった。だけど、自分の部屋も、今朝出た時には全く印象が違って、ママの家の一部に過ぎないんだってことに、もう気づいてしまった。

夢見がちな母親、些細なことで変化する友達関係。周囲に振り回され摩耗するアンは、だんだんと自分に居場所がないことを自覚し、追い詰められていきます。

行く場所は、どこにもなかった。

 この作品において辻村は、価値観を共有できない孤独感、真に心を開ける人の居ない寂しさを、中学生の眼差しから語っています。それと同時に、自分は周囲とは違うという優越感も描いています。この2つの感情は、辻村作品に見る孤独観の中では実に紙一重です。

『ぼくのメジャースプーン』

ぼくのメジャースプーン
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ふみちゃんは、人気者なのにあんまり個々の異性受けも同性受けもよくないという不思議な子だった。一人だけ違う場所から物を見ていて、他の子のすることを全て許してでもいるかのようなとこがある。
(『ぼくのメジャースプーン』より)

 「ぼく」の幼馴染のふみちゃんは、本が大好きで、とても頭のいい女の子。皆から頼りにされ慕われている反面、特定の仲良しの友達を作りません。誰とでも話せるのに、いつもひとり。「ぼく」はそんなふみちゃんにやきもきした気持ちを覚えつつ、物知りなふみちゃんに尊敬と憧れを抱いています。

ぼくのお母さんは、ふみちゃんを見て、よくこう言う。
みんなより、ほんのちょっと早く大人になっちゃってるのよね。かわいそうに、あんた早く追いついてあげたら? と。

早熟ゆえに周囲と距離があるふみちゃんは、『凍りのくじら』の理帆子らとよく似た個性の持ち主です。前述の4作品では主観的に描かれていた孤独感を、辻村は「ぼく」という第三者の目線から客観的に描いています。

金属のはまった前歯を出して、ふみちゃんがにかっと笑った。
「人間って、絶対に他人のために泣いたりできないんだって。誰かが死んで、それで悲しくなって泣いてても、それは結局、その人がいなくなっちゃった自分のことがかわいそうで泣いてるんだって。自分のためにしか涙が出ないんだって、そう書いてあった」

 これらの主人公に共通しているのは、彼らのもつ賢さと、それに裏打ちされた、周囲の人間に対する冷やかな眼差しです。
 彼らは周囲に比べて自分で様々なことに関心を持ち、深く思考を巡らせます。誰かに寄りかかることなく、自分の意思で行動する、 自立した人間でもあります。
 客観的な眼差しを持った彼らは、他人を観察し、分析します。それゆえに、周囲と 合わないことに絶望し、低レベルだと見下し、軽蔑しています。少し意地悪な言い方をすれば、馬鹿にしています。

頭が足りなくて、無駄な暇つぶしのために寂しいから集まって、そして友達ごっこ。私が彼らに持っている感想はこの上なく正しい。けれど私は今夜も出かけていく。
(『凍りのくじら』より)

「ご同類でしょ、みずほちゃんと俺は。あの子たちのこと、バカにしてたくせに」
(『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』より)

あんなつまらない生き方はダメだ。私は、あんなことにはならない。しない。
(『オーダーメイド殺人クラブ』より)

 実際に、彼らが身近に接している人間の多くは、未熟だったり、短絡的だったりする一面を持っています。彼らはその拙さを遠巻きに見て、容赦のない評価を下します。
 評価の対象は周囲の人間ばかりでなく、自分自身にも及びます。殊に『凍りのくじら』の理帆子に関しては、自分が周囲を馬鹿にしすぎる悪癖を自覚しています。『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のみずほも、「あの子たちのこと、バカにしてたくせに」の言葉を否定せず、自覚的に受け止めています。

 しかし辻村は、彼らを単なる冷酷な人間では終わらせません。彼らの抱く軽蔑の念は、彼らが抱く羨ましさや人間愛と表裏一体のものであることを、鮮やかに描写しています。

(前略)確かに私は人を馬鹿にしすぎる。あんたと同じ、人を人とも思わない個性をしてる。だけど違う私は羨ましいんだ。美也たちが。大好きなんだよ。そこに行けない自分のことが、大嫌いなんだよ。
(『凍りのくじら』より)

同情、比較、嫉妬。どんなに仲がいい女同士でも、心の中には矛盾した感情が同居している。それらを手放しでさらけ出すことは難しい。
一方で、友情という言葉に収まりきらない深い憐憫と愛情が、そこにはたしかにある。みずほとチエのように。
(『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』解説より)

 周囲の人間を冷静に分析し突き放す一方で、深い羨望や愛情を抱えている両面性が、彼らにさらに人間味を加味しているのです。辻村深月という作家の人物造形の手腕が、ここに伺えます。

おわりに

 辻村は、理帆子をはじめとする孤独なキャラクターたちに、寄り添うことこそしないけれど、ただ突き放したままにもしておきません。
 彼らの醜さや危うさ、それと同居する人間愛を描いたうえで、彼らを導くための一筋の「光」を示すのです。それは救いの手であり、希望の光であるのです。

『あなたの描く光はどうしてそんなに美しいんでしょう』
『暗い海の底や、遥か空の彼方の宇宙を照らす必要があるから。そう答えることにしています』
 そして、その光を私は浴びたことがある。声に出さず、心の中で付け加える。
 誰も信じないかもしれないが、もう何年も昔、私はそれに照らしてもらったことがあるのだ。
(『凍りのくじら』より)

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