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将棋ファン必読の名著、山口瞳の『血涙十番勝負』『続血涙十番勝負』! 大山康晴、中原誠、米長邦雄、加藤一二三などとの伝説の真剣勝負の裏側をいま、初めて明らかにする!

将棋ブームといわれる昨今、文壇きっての愛棋家だった山口瞳が、1970年代前半に大活躍した第一線棋士たちと、涙ぐましいほどの“真剣勝負”を繰り広げた、名著『血涙十番勝負』、『続血涙十番勝負』が2冊揃ってP+D BOOKSより復刊。「小説現代」連載当時の担当編集者だった宮田昭宏氏が、当時の思い出や裏話等を初めて語ります。

藤井聡太四段の活躍で将棋ブームといわれる昨今、文壇きっての愛棋家だった山口瞳が、1970年代前半に大活躍した木村義雄、大山康晴、中原誠、米長邦雄、加藤一二三など、第一線棋士たちと、涙ぐましいほどの“真剣勝負”を繰り広げた、名著『血涙十番勝負』、『続血涙十番勝負』が2冊揃ってP+D BOOKSより復刊されました。

「小説現代」の誌上企画だった十番勝負。「血涙」は決して大げさではなく、すべては勝つためと、ステーキは食べるは、マッサージ師は呼ぶは、酒は飲むは、挙げ句の果て胃腸薬を飲んで、下痢止めを飲んで身体は七転八倒―――と、まさに涙ぐましいほどの“真剣勝負”。
飛車落ち勝負とはいえ、対戦相手が“棋界の巨星”大山康晴名人に、当時、日の出の勢いだった中原誠十段、そのライバル米長邦雄九段、などなど、当時のオールスター棋士が勢揃い!さらに、対局後まもなく早世した山田道美八段への鎮魂の件(くだり)は涙なくして読めません。

「小説現代」連載当時の担当編集者だった宮田昭宏氏が、当時の思い出や裏話等を初めて語ります。

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自宅にて、煙草を燻らせながらがら将棋盤へ向かう山口瞳

担当者・M少年の思い出

宮田昭宏

いまや、藤井聡太四段の登場で、世の中は将棋ブームだそうですが、いまから五十年近く前にも、将棋ブームがありました。山口瞳さんが書いた『血涙十番勝負』が起爆剤となって起こった、素人とプロ棋士の駒落ち戦のブームでした。人気タレントの大橋巨泉さんや、医事評論家の石垣純二さん、講談師の田辺一鶴さんという方々が、テレビや週刊誌などでプロ棋士たちと、それぞれの棋力に応じた駒落ち戦を戦い、それが人気の企画になったのです。大橋巨泉さんは、『巨泉流飛車落ち定跡』という本も出版していますから、いまでは考えられないことかもしれません。
もちろん、そこには、山口さんが書かれる通り、「大山(康晴)・升田(幸三)の巨匠に、二上(達也)・加藤(一二三)・有吉(道夫)の強豪中堅があり、内藤(国雄)・灘(蓮照)の妖刀があり、塚田(正夫)・丸太(祐三)・原田(康夫)の老練が配される。ここに中原(誠)・米長(邦雄)の新鋭花形が加わって、群雄割拠の時代となった(括弧内は筆者)」という背景があったのは言うまでもありません。
『血涙十番勝負』は、山口瞳さんが、そのプロ棋士たちと戦った、飛車落ち(例外的に、女流棋士との平手戦が一局ありますが)の対局十番の自戦記を、小説として描いた異色のシリーズです。これらは、すべて「小説現代」に掲載されました。
この企画を担当したのが、入社して、二年目の編集者・M少年でした。
「小説現代」では、作家が、その文章の中に、担当の編集者を、中年とか青年とか書く慣例があり、山口さんいわく、「これは遠藤周作さんが最初にやられたことではないか。MさんのことをM少年と書いたのは、遠藤さんか野坂さんか」ということになります。
山口さんは、将棋連盟から四段の免状を授与されていますが、M少年の棋力と言えば、駒の動かし方を辛うじて知っているくらいで、山口さんが、「ウチに来る人で、一番上達しなかった人だ」と、太鼓判を押されたほど、棋力という点では、はなはだ頼りにならない担当者でした。
一九七〇年の「小説現代」一月号に掲載された、第一番「小説将棋必勝法 二上達也八段」は、山口さんが書かれたように、「しんぶん赤旗」が、はじめて新聞将棋(トーナメント)を掲載するに当って、素人の指導対局で景気をあおろうと企画した対局を基に、山口さんが、小説化したものです。
この「新聞将棋」とは、現在でも、将棋界の登竜門として評価の高い『新人王戦』のことです。ちなみに、この年、第一回目の優勝者が、山口瞳一門の将棋の師匠にして、『血涙十番勝負』第十番の対戦者でもある山口英夫(現)八段だったのも奇しき縁です。
さらに、「将棋世界」という雑誌の企画で、一九七〇年四月十七日に、山口さんは、女流棋士・蛸島彰子二段との平手戦を戦いました。「将棋世界」の六月号に、「やっぱり駄目でした」と、短い敗戦の弁のみを書いて、そのあと、山口さんは、この対戦を基に、「小説現代」七月号に、「続々・小説将棋必勝法」を書かれました。
掲載の順序は前後しますが、実は、「続・将棋必勝法 山田道美八段」が、小説化を前提とした、いわゆる“血涙”の、はじめての対局となります。
山口さんが、二上さんとの「血涙」の原稿を渡しながら、M少年におずおずと、「そちらがよければ、こういうのをもう少しやってみたいんだが」と言われたのでした。駆け出しの文芸編集者のM少年としては、もう流行作家になっていた山口さんが、その対局の朝、ひどい便秘になっていて、「あたり一面、糞だらけになる。便器は血の海である」という悪戦苦闘振りを書かれたことに大いに驚き、そして、大笑いしながら、この企画をぜひ、実現させたいと思ったのでした。もちろん、O編集長も同じ意見でした。
当時、将棋連盟の渉外担当責任者は芹沢博文八段でしたが、その芹沢八段のお力を借りながら、M少年は、なんとか、一九七〇年三月十四日、紀尾井町の福田屋という割烹旅館での、山田八段と山口さんとの対局を実現させたのでした。そして、続く第四番は、なんと対戦相手の米長邦雄九段のご自宅で行われました。山口さんは、敵地に乗り込んで、大将の首級をあげるお手柄を演じます。
第五番以降の対局は、名人戦などに使われた由緒ある旅館で、威儀を正し、全てタイトル戦と同じような、緊張感溢れる雰囲気の中で行われることになりました。このシリーズが、単なる将棋自戦記を超えて、優れた紀行文学でもあり、波乱万丈の人物小説でもあり、さらに将棋の戦法のまたとない教科書ともなっている所以です。ですから、この正続二冊の『血涙十番勝負』は、将棋が苦手の人なら、棋譜のところを飛ばして読んでも充分に読み応えがあります。
また、逆に、将棋好きが、『血涙十番勝負』を読んだことがきっかけで、山口文学のファンになったという方も大勢いらっしゃいます。
『血涙十番勝負』には、第六番の芹沢博文八段との対局のために、箱根強羅に移動するときに、はじめて、M少年が登場して、それ以後、ちょこちょこ顔を出すようになります。将棋とは全く無縁だったM少年が、山口さんが書かれたように、「将棋連盟は天才の栖(すみか)であり、鬼の栖であり、オバケの世界である」ということを実感したのは、まさに、M少年がはじめて設営した、山田道美八段戦のときに、目撃した芹沢八段のエピソードでした。そのことは、第六番に詳しく書かれていますが、M少年は、M老年になったいまでも、忘れることができないことなのです。
山田道美八段との対局の前に、渉外担当として、対局室に現れた芹沢八段は、実に「凄惨な顔つき」をしていました。その前日は、順位戦の最終日で、芹沢八段の相手は、弟弟子の中原誠十段でした。これに勝てば、芹沢八段はA級に復帰できるのです。この兄弟弟子同士の対戦で、芹沢八段は、逆転負けを喫し、それ以後、A級に復帰することはありませんでした。
さらに、驚くべきは、一時席を外していた芹沢八段が、対局室に戻ってこられ、山田道美対山口瞳戦を持将棋(引き分け)にしようと忠告をしたあと、求めに応じて、前夜の中原十段との棋譜をスラスラとならべたことであり、それを山田八段が喰い入るように見つめていたことでありました。第七番の桐山澄人六段との対戦のあと、 M少年は、山口さんを旅館においたまま、芹沢八段とふたり、京都の路地裏のスタンド・バーで遅くまで飲むのですが、そのとき、芹沢八段が、「あの夜、中原を可愛がっていた女房に『まこちゃん、勝ったよ』と電話したら、『あら、よかったわね』と喜んでたけど、相手がぼくだってこと知らないんだよね」と話してくれたときに、芹沢八段が浮かべていた微笑みを忘れることはありません。
まだ、あどけなさの残った、十四歳の天才少年・藤井聡太四段は、これから、こうした「鬼たち」を相手にしていかなければならないのです。

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